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2016年7月23日 (土)

青木圭一郎 著『昭和の東京 映画は名画座』           (ワイズ出版刊・16.4.15)

 映画は、映画館でしか観ることができないという時代があったことを、実感としてわかる世代は、五十代以降の人たちということになるはずだ。レンタルビデオ店が普及し出したのは82年頃からだといわれているからだ。本書で取り上げている名画座は、象徴的にいえば現在のレンタルビデオ店にあたるといっていいかもしれない。
 著者は、「名画座」というものを次のように述べている。
 「ホームビデオ機器の普及もあって、古い映画を安く観ることが出来た名画座も昭和の終わりまでに次第になくなって行った。それまでは名画座が映画の学校であり、その後の人生観を形成したのも学校より映画館で得たものの方が大きいような気がする。」
 わたしは、著者と同世代だから、「学校より映画館で得たものの方が大きい」というのは、まったく同感である。しかも、学生の身分で、高い料金の封切映画や、洋画のロードショーには、とても行けなかったから、いわゆる二番館(特に邦画だが、封切から何か月か遅れて上映する映画館)や、旧作を魅力あるラインナップで上映する映画館(当然、料金は安価だ)を友人や先輩から得た情報(既に休刊したが、「ぴあ」や、Netでの情報がなかった時代だ)で、出掛けたものだった。本書の著者と違って、洋画をほとんど見なかったわたしだが、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(日本公開・59年)は、映画館を探しては、何度も観たことを思い出す。
 いまこうして、本書を前にすると、様々なことが湧き上がってくる。同世代とはいえ、東京在住の著者と東北出身のわたしとは、明らかに映画の傾向が違っているのがわかる(著者が観ることができなかったという『新諸国物語』シリーズは、幼少期、しっかり観ている)。つまり、洋画上映館が少なかったから、当然、洋画に馴染むことなく上京したわたしとは、その本数に歴然とした差があるのは仕方がないかもしれない。とはいえ、本書のように東京限定とはいえ、六十年代から八十年代にかけて活況を呈した「名画座」を詳細に紹介したものが、これまでなかったから、まぎれもなく、本書は画期的な「名画座」事典といっていいと思う。特に、紹介した場所(新宿、池袋、渋谷、銀座だけでなく、東京を広範囲にわたって取り上げている)の地図を74年時のものと、89年時のものを並列して掲載していることで、かつて、何度も観に行っていた「名画座」の場所の記憶を喚起させてくれるのだ。
 本書に掲載されている「名画座」を任意に取り出してみれば、わたしにとっては、池袋・文芸座ということになる。それも、土曜日終夜五本立て上映である。
 「文芸座(註・68年7月に閉館した「人生坐」が先行して終夜上映をしていた)でも昭和四三年(一九六八)五月に石井輝男監督の『網走番外地』シリーズ第一作から五作(一九六五~一九六六)でオールナイト興行をおこなうと、文芸座が満杯となって文芸地下でも上映された。」
 わたしの六十年代末から七十年代にかけての映画体験は、監督としては、加藤泰、鈴木清順であり、ジャンルとしては、東映やくざ映画とピンク映画(本書にも記載されている新宿・蠍座で若松孝二の主要作品を観ている)であった。そして、映画館は、文芸座と新宿・昭和館(02年、閉館)に特化される。だから、文芸座終夜上映は、『番外地』シリーズはもちろんのこと、『残俠伝』シリーズも観に行ったし、『鈴木清順大会』、『大島渚大会』、加藤泰作品を観たいために『中村錦之助大会』などに行っている(〝大会〟と称していなかったかもしれないが、わたしたちは勝手にそう捉えていた。他にもあったと思うが記憶が曖昧だ)。
 文芸座では、映画と観客たちが密接に繋がっている体験もしている。『昭和残俠伝 血染の唐獅子』で、殴り込みを決意した高倉健を藤純子が泣きながら止める場面にたいして、観客席からいっせいに、「めそめそするな」と声が飛ぶ。殴り込みに行って、高倉健が、「死んで貰うぜ」という台詞が出ると、「ヨォーシ」や「異議なし」の声がかけられる。鈴木清順の『けんかえれじい』で、野呂圭介のステッキが桜の樹を叩くと、はらはらと桜の花が散る場面に、「セイジュン!」と声が放たれる。役者名はもちろんだが、加藤泰や鈴木清順の時は特に、タイトルクレジットの最後に監督名があらわれると大きな拍手が起きたものだった。それは、いわゆる反抗と対抗の渦動の時代だったからこそ、映画になにがしかの思いを仮託していたための応答だったのだと思う。
 そんな、わたしの体験の記憶が本書によって甦ったことになる。

(『図書新聞』16.7.30号)

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2016年7月 9日 (土)

新木正人 著『天使の誘惑』(論創社刊・16.6.30)

 「天使の誘惑」という不思議な書名は、本書に収載されている論考「天使の誘惑 南下不沈戦艦幻の大和」(「早稲田文学 学生編集号」収載・71年2月)に由来する。さらにいえば、あの黛ジュンの最大のヒット曲にして第10回レコード大賞(68年)を受賞した曲(作詞・なかにし礼、作曲・鈴木邦彦)から喚起された暗喩ということになる。当然、本書には、「黛ジュン」(「遠くまで行くんだ…」4号、70年5月)と題した文章も収められているから、そもそも、彼女へのオマージュといっても差し支えないかもしれない。
 ふたつの論考には、様々な人名が記されている。任意に挙げてみれば、「石原慎太郎」、「村上一郎」、「青江三奈」、「保田與重郎」、「桶谷秀昭」、「北川透」、「黛ジュン」、「愛田健二」、「小川知子」、「西田佐知子」、「吉本隆明」、「磯田光一」、「橋川文三」、「佐々木幹郎」、「石川啄木」等々となる。著者・新木正人より三歳ほど年少のわたしもまた、列記された人たちに共感し喚起されてきた。なんともいいようのない機縁を感じる。
 「(略)ジュンの歌で最も問題を含んでいると思われるのはデビュー曲『恋のハレルヤ』とこの(引用者註・前段に、なかにし礼の詞を引いている)『霧のかなたに』なのですが、内部葛藤のはげしさという点で『霧のかなたに』がまさっています。そしてこの内部葛藤は頽廃と紙一重なのです。以後の彼女の歌はみな流されています。(略)Q様、黛ジュンの軌跡とは何だったのでしょう。情況にどう立向い、また身をそらそうとしたのでしょうか。『恋のハレルヤ』は戦いの歌でした。しかしそれは守るべき最後の一線を歌った哀しい歌でもあったのです。守るべき最後の一線、太陽の季節か 上海への想いか それとも吉野の桜か ジュンは慎太郎ほどあまくはありません。上海への想いもありません。ましてや吉野の桜など意識するはずがありません。彼女が守ろうとしたのは、彼女が守ろうとしたのは純粋な意志だったのです。純粋な、勝利への意志だったのです。」(「黛ジュン」)
 「黛ジュン」あるいは、「彼女」とは、いうなれば「新木正人」であり「私」であるといっていいはずだ。新木はジュンに自らの内なる声を重ねるように、自身の「物語」を仮構させていったと捉えることに、わたしは躊躇しない。
 本書の中で、わたしを最も刺激した論考から、長くなるが、断片的に引いてみる。
 「西田佐知子の悲しみは赤坂の悲しみである。/なぜ赤坂の街が悲しいのか。/それは、そこに怨霊が彷徨っているからだ。/二・二六の青年将校の怨念が彷徨っているからだ。/西田税の怨霊が彷徨っているからだ。//だから赤坂の夜は美しい。」「日本浪漫派の思想は、空と海の思想だ。溺れ死にの思想だ。完璧に、非のうちどころなく溺れたものが最も美しい。」「吉本隆明は偉大である。/彼がロシア・マルクス主義を断罪する時、僕は眩暈すら感じてしまうのだ。/けれども僕は、彼を好きになることができない。/いま一歩のところで彼の胸に飛込むのを躊躇する。/彼はなぜアマテラスとスサノオのあいだの自然的な性行為を認めないのか。/なぜ姉弟相姦を認めないのか。/なぜ姉弟相姦の彼方にあるものを凝視しようとしないのか。」「思想を構築することはできない、と僕は考える。/思想とは、築くものではなくて、突き抜けるものだ。/思想者とは、大工ではなくて全力疾走者だ。/スサノオとアマテラスから国家論を組み立てることはできない。/無理に組み立てようとすると二人の恋は壊れてしまう。/二人の恋は壊さないほうがよい。/いま僕たちに必要なのは、国家論を組み立てることではないのだ。必要なのは、二人の体を流れる血の徹底的追求である。」(「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(二)」―「遠くまで行くんだ…」2号、69年2月)
 西田税の獄中手記を読んでいれば、悲しくて美しいという心象は理解できる。戦艦大和の「溺れ死に」を日本浪漫派の思想の行く立てに重ねていく。そこまではいい。だが、「アマテラスとスサノオのあいだ」に、恋の関係性を見立てることは、自らを困難な場所へと追い込むことになるといいたくなる。黛ジュンや西田佐知子、西田税は、仮構すべき存在としてありえる。だが、アマテラスとスサノオには、どんな視線を投じようとも、それは、天皇制や国家起源の象徴でしかない。同化して何かをなすべき有様ではない。あえて、「アマテラスとスサノオの関係性」へと投企しようとしたのは、たぶん、次のような思いがあるからだ。
 「自分が最も嫌いな人間と深くかかわることからしか自分の生きる道はない。自分のいごこちのよい所にいきたがる人間は、自分の人生を半ば捨てた人間だ。」「自分のいごこちのよい所、今の自分をよく理解してくれる人々は自分をダメにする。自分の深いところにある感情、つまり自分らしさにあぐらをかいてしまうと、この上なく楽だろうけれど、本当に何も見えないまま終わってしまう。」(「中森明菜」―山口峻歌集「総括」・95年6月)
 ふと思う。新木は、難渋な「アマテラスとスサノオの関係性」を引き寄せたうえで、自ら拘泥する思想(生き方)を徹底して突き抜けようとしたのかもしれない。
 最後に本書の成り立ちを記す。奥付にある略歴には、「1946年8月13日 埼玉県大宮市生まれ/1968年 『遠くまで行くんだ…』編集委員会/1975年 『遠い意志』編集委員会/1981年 公立高等学校全日制課程教諭/1985年 公立高等学校定時制課程教諭/2001年 専門学校講師/2016年4月 死去」とある。田谷満氏の企図によって、1968年から2016年までの長い時間を横断する論考を収め、刊行された本書は、著者・新木正人の初めての著書であるとともに、遺著となった。

(『図書新聞』16.7.16号)

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