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2016年6月11日 (土)

桃山堂・編 アレクサンドル・ワノフスキー、鎌田東二、野村律夫、保立道久、蒲池明弘・著                     『火山と日本の神話――亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』(桃山堂刊・16.2.10)

 一九一七年十月に生起したロシア革命の二年後の一九年に亡命、そのまま定住し、六七年、九十三歳で亡くなったロシア人は、五五年、八十一歳の時に『火山と太陽』という書名で、新解釈の『古事記』論を出版したが、ほとんど、知られることなく六十年という歳月を経てきた。本書は、その『火山と太陽』の「ほぼ全文を復刻して」掲載し、鎌田東二らの「解説と感想」、評伝等で構成したものだ。
 亡命ロシア人の名は、アレクサンドル・ワノフスキーといい、レーニンとともに、ソ連共産党の前身、ロシア社会民主労働党の創設時の構成員だった。革命前夜、レーニン主導のボリシェヴィキに対して、ワノフスキーは、メンシェヴィキ派に属していたことが、「大きな運命を担う人――地下運動時代のレーニンを語る」(「月刊朝日評論」五〇年二月号)のなかで語られている。『古事記』論より、亡命後、革命ロシア(ソ連体制)をどのように望見していたのだろうかということが、さしあたって、わたしの関心は向いていくことになる。
 「一九一七年の夏(略)、私は自分を宗教的な社会主義者と自認していたし、彼等と私の間にはすでに深い溝が横たわっていることを知っていた。概して言えば、私の思考の中には、二つの異なるレーニンが存在している。自由な、民主主義的な共和国の名において、反動的ツアー政権と闘った社会民主主義者としてのレーニンと、それが事実となった時、その共和国に対して反乱を起こした共産主義者としてのレーニンとである。」
 やや、慎重ないい回しで語られるレーニン像だが、わしなりのいい方に換言してみるならば、思想や哲学的な思考の中のレーニンは、優れているが、政治家としてのレーニンは権力を握った途端、ツアー権力と同じく抵抗勢力を弾圧していったということになる。ワノフスキーより三歳年少だったスターリンが、まだ体制の中心にいた時だから、レーニンとスターリンは地続きな有様なのだということを言いたかったに違いない。
 ワノフスキーにとってソ連でもなく、ロシア帝国でもない、〈ロシア〉こそが、自分にとってのネーションだったと思われる。流刑されたシベリアから日本列島というものを俯瞰する時、ユーラシアからアジアへと連なる観念の地勢図が胚胎したからこそ、列島の国生み神話に喚起され、生命なるものを鼓舞していくような火山というイメージに魅せられていったと、わたしには思われてならない。さらにいえば、晩年のワノフスキーと最も親交を持っていたのが、北一輝と交流していたために、二・二六事件に連座して逮捕された経験をした嶋野三郎だったということも、わたしには、興味深いものがある。超国家主義者・北一輝と『国家と革命』を著したレーニンの間隙に、ワノフスキーの『古事記』論があると思えば、もうひとつの感慨が湧き上がってくることを、わたしは抑えることができない。
 ところで、鎌田東二は、「学術的なことをいえば、疑問点、問題点」が、あるとしながらも、「彼の洞察は日本神話の本質を射抜いている」として、次のように述べていく。
 「古事記神話の本質は火山であると、これほど力強く断言したのはワノフスキーがはじめてではないでしょか。今から六十年もまえに、こうした火山の神話論を提示したプライオリティを私たちは認めるべきだと思います。」
 確かに、わが列島が、火山活動によって形成されてきたことを思えば、ワノフスキーのイマジネーションが的はずれのものでないことは理解できる。
 「女神イザナミは地を創り出したり、島を創り出したりしているのではなくて、それ等を母親が子供を産むのと同じようにして産み出しているのである。」「噴火が終了する。やがて太陽が火山に勝ち、火山を追い落としたのだと決めてしまう。(略)火山の噴火は有害なことばかりでなく、有益な面も持っている。火山泥だけとってみても、それは各種の栽培植物、たとえばブドウにとっては肥沃な土壌なのである。」「古事記は、壮大な様式の古代建築に似た叙事詩である。」
 編者の蒲池明弘は、本書の中で、「多くの人がワノフスキーのことを詩人的であるといい、浪漫的であると評しているが、それが端的にあらわれているのは、風景のなかに聖なる気配を感知する能力である。そしてそれこそが、彼の火山神話論の源泉であった。」(「評伝ワノフスキー『火山と革命』」)と述べている。ワノフスキーの『古事記』の世界への想像力を考える時、やや、唐突にいうならば、〈アジア的な感性〉とでもいうべきものが、イノセントなかたちで表れているといいたいと思う。

(『図書新聞』16.6.18号)

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