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2016年2月 6日 (土)

上村武男 著『形なきものの影――上村武男写真文集』  (白地社刊・15.11.20)

 本書は、『帰巣者のかなしみ』、『吉本隆明手稿』、『吉本隆明 孤独な覚醒者』等の著書をもつ、上村武男の〈写真集〉であり、日記・詩篇・書簡集・紀行・書評・追悼文等を抄録した〈文章集〉でもあると記したとたん、本書への視線が揺れ動いてしまうことを自覚することになる。それは、かならずしも、左頁に掲載した文章に対応させるかたちで、右頁に写真を配置させているわけではないからだ。つまり、写真と文章が、一見、内容的な連関がないような構成をとっていることの方が多いのである。だが、にもかかわらずというべきか、〈写真〉と〈文章〉は、互に呼応し合って、〈写真〉からは言葉が、〈文章〉からは、不思議なことに、イメージが立ちあがってくるかのように感じられるといっていい。
  「多摩丘陵より父へ」と題した文章がある。〈写真〉は、港で若い母親と子供たちが手を振って通り過ぎていく船を見ているところを後ろ姿からとらえた一枚が上に、下の一枚は、電車内でやや横向きになりながら、ベビーカーを手で押さえながら立っている若い父親と、座席で並んで座っている妻と子供たちをとらえたものだ。著者の息子を正面から写したものの他、人物を明確にとらえた写真は、数点に過ぎない。多くの写真は、人物を風景のなかのひとつとして写してとっているから、親子たちの写真にたいし、一瞬、異和感のようなものを感じたのは確かだ。だが、わたしには、五十年ほど前に綴られた父への手紙の書きだしの頁に対応させて配置した、〈現在の家族〉の写真が、奇妙に胸に突き刺さってくるように思えたのだ。「後ろ向き」と、「横向き」は、それ自体、けっして負の様態を示しているわけではない。ただ、〈現在〉というしかない様態を鮮鋭に活写しているといっていいからだ。
  「お父さんの生涯を通じて一条厳しく澄んで絶えることのないかにみえる、その精神的な緊迫度はただものではないとぼくに思われ、それが何といってもぼくの重荷でありながら、他方、深い安心をぼくに与えるのです。」「自分の家の庭に芽生えた草々を、何か悪いものでも芽を吹き出したかのように早々に刈り込んでしまう人間の心理が、ぼくにはまるで理解できないものに思われます。なぜ、草々がいけないことがあるでしょう? それがきれいに手入れした庭に生えたからでしょうか。自分の庭とはいったい何でしょう。この草々の生え初めた大地そのものは、いったいたれの所有に帰することがあるのでしょう。草々はいい。全くいいのです。」
 父の心身の状態への気遣い、草々への愛しむ思いを記す、まだ二十代の若き著者の言葉たちに呼応していく写真は、「岡山吹屋小学校」と明示した古い木造の玄関だ。上方に設置された時計は、古くはないオーソドックスなものだ。次頁には、「伊丹昆陽池」、「広島庄原」の二点。池のなかに草々が盛り上がって出来た浮島のようなかたちが二つ繋がってある。その下は、木々が四本だけある遠景。最後は、「出雲宍道湖」と付された一頁大の写真。湖面を背景に歩いているのか、そこに佇んでいるのか、男が、まるでシルエットのように映し出されている。そして、最初の若い母子、親子の写真から、陰影のある人物への展開は、まるで、「現在」から、過去の「記憶」へと遡及していくかのような物語時間を湛えているといいたい気がする。もちろん、最初の二つの写真以外には、すべて、「2015年」、「2014年」、「2012年」、「2010年」と撮影年が付されているから、著者の意図としては、そのように遡及させていくつもりではないのかもしれない。だが、「写真とは、永遠が印画紙に写っている出来事である。時は永遠の影であるから、永遠は時という影の姿で顕現する」(「エピロオグ 形なきものの影」)という著者の言葉を敷衍して考えてみるならば、ひとつの文章群と協奏しあうように、写真のひとつひとつが、「時」の流れを示しているといってもいいはずだ。
 それは、著者が表出させる写真そのものに、そのような膂力が内在していることを意味しているともいえる。
  「影が光を産むのであって、光だけでは影は生じない。」「暗さは明るさの根源である。」「言語と映像――これほど魅力的な表現の方法が、ほかにあるだろうか。それらがこんなにわたしたちの魂の底をえぐってやまないのは、おそらく、人間の原初の表現手段である泣き叫びや光陰の感覚に、それが通じているからにちがいないのだとわたしは考えることがある。」
 わたしは、多くの文章と多くの写真作品に触れないまま、本書を望見したかもしれない。収められた文章群には、五十年ほどの時間が流れている。著者が写真を撮り始めてから二十年のうちの、どれだけの時間幅をもった作品が掲載されているのかはわからないが、静謐な風景や空間を撮っていても著者の息遣いが聞こえてくるように、わたしには感じられた。そして、その息遣いが、そのまま、五十年という時間へ連結していくことをわたしは感嘆しながら頁をめくっていったといっていい。

(『図書新聞』16.2.13号)

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