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2015年10月10日 (土)

日常という劇―辰巳ヨシヒロの場所

 辰巳ヨシヒロ作品と初めて出合ったのは、『ガロ』誌上での「さそり」以降の一連の作品群であったと思う。貸本時代の辰巳作品を未知のまま、『ガロ』の作家の一人という認知の仕方であった。いま、思い起こしてみれば、当時の『ガロ』の作家のなかでは、幾らか異質な作風を漂わせていたということが、一つの強い印象として残っている。
 『ガロ』に掲載されていたヒロ書房の広告を見て、場所が青林堂の近くだったことを知り、青林堂に寄った後に、『群集のブルース』(「群集のブルース」の初出が『COM』だったことにたいし、幾らかの異和感を抱いたことを覚えている)を求めて、ヒロ書房で辰巳ヨシヒロ本人と直接会い、少しだけ雑談したことがある。たぶん、72年頃のことだ。作品の印象と作者のイメージとの関連付けでいえば、それほど意外な感じは受けなかったといっていい。その時のわたしは、辰巳作品への共感の言葉をどうにかして伝えようとしていたはずだが、うまく話せなかったという悔恨を残した一度だけの邂逅ということになる。
 四十年以上経ち、いまこうして、追悼稿によって、伝えられなかった言葉を紡ぎだせればと思いながら、辰巳作品を読み返してみた。そして七十年に発表された作品に特化して、幾つかのことを述べてみたいと思う。
 「飼育」(『ビッグコミック』70年8月25日号)は、小説家を志す男とバーで働く女との屈折した生活を描いている。モチーフの共通性を考えてみれば、つげ義春の「チーコ」を想起できるが、ここでの男女の愛のかたちは、大きな差異として表れる。遺影のように女と犬の写真が飾られ、押入れには、“ベルの家”と記された犬小屋が捨てられずに入っていることで、女がベルという名の犬を飼っていたことを、理解できるように描かれている。女が仕事に出かけた後、男は、“ベルの家”を押入れから出し、“ベルの家”を見つめながら、一人ウイスキーを飲んでいる。女は、常連客にホテルへと誘われるが、家で留守番をしている男のことが心配で、そのまま、寿司を土産に帰宅する。「アンタって人は/わたしがやって/やんなきゃ、何も/できない人だものね」という女。それにたいして、“ベルの家”に入って、「ウウウワンワン」と答えていく男。そして、翌朝、「おれは働いて、自分でやってみる。さらば」という書置きを残して、女のもとを去る。だが、直ぐに仕事先でトラブルを起こし、結局、飼い犬のように部屋で女が帰宅するのを待っているという画像で物語を閉じている。この小説家志望で生活力のない男と愛犬を亡くした女がどこでどのようにして知り合ったのかということは、それほど重要なことではない。人と人が知りあう契機は、類型されるものではなく多様なものである以上、お互いが抱え持ってしまった負の要素を補うかたちで、生活を始めたとしても、それは、必ず変容していくものなのだ。結局は長く続かず別離を余儀なくされたとしても、二人で暮らし始めてみれば、関係性というものは、個々の感性を充足させていく瞬間というものは必ず、生起するはずなのだ。だから、「飼育」における男女が一見、屈折した関係性に見えたとしても、愛というかたちは、お互いにとって等価なのだということを潜在させているのが、この作品を際立たせていると、わたしなら捉えてみたい気がする。
 「いとしのモンキー」(『週刊少年マガジン』70年8月16日号)は、猿(モンキー)を飼っている男が、勤務先の事故で、片腕を落とし、仕事も失い、飼っていくことができなくなったため、動物園の猿山に捨ててしまうのだが、動物園の猿たちに襲われ死んでしまい、やがて、その死の残像に怯えてしまう孤独な男の像を描出した作品だ。そもそも、実体として猿(モンキー)を飼っていたかどうかを疑えば、幻想譚といえなくもないし、飼われている猿(モンキー)は男の鏡像といえなくもない。だが、ここでは、日常のリアルな出来事として、飼われている猿(モンキー)と片腕になり、ますます孤立していく男の二つの像が重層的な物語として描かれていると理解した方がいいかもしれない。
 作品中、次のようなモノローグが配置されている。
「四畳半の/おれの城……/おれは ここで/ひとりになったとき/はじめて/孤独でなくなるのだ/おれの/飼っている/モンキー/どういう/わけか/いつも/飼い主の/おれに/背中を/むけている/(略)ここでは/ベトナム戦争も/沖縄も 水俣病も/太平洋往復/横断ヨット/も/すべて/現実の/ものとは/思えない/できごとなのさ/いわば/おれにとって/最後にのこされた/人間らしい生活とは/猿といるとき/だけなのだ」
辰巳ヨシヒロの描く男たちは、孤独を慰藉する手立てとして、〝さそり〟を飼ってみたり、〝ねずみ〟に寛容な振る舞いをする。「人間らしい生活とは/猿といるとき/だけなのだ」という時、慰藉してくれる対象は、人間ではなく異類であるということをここでもまた示されていく。これは、辰巳自身の心情をある意味、代象しているといっていいはずだ。つまり、七十年前後の時代情況と自分が置かれた様態に対する苛立ちや憤りを投影していると見做すことができるような気がする。作品集の「あとがき」で、収録された作品の発表時期が七十年前後であることを述べながら、辰巳は、その頃の思いを次のように綴っている。
 「日本の高度成長によって国民は好景気に酔いしれていた。この頃から国民の貧富の差が進行する。(略)昭和三十一年に雑誌への進出を狙って大阪から上京して来たのだが、その日その日のために貸本マンガを描き続けなければならなかった。しかし、少年雑誌やテレビの急速な普及によって、一時は全国に三万店もあったと言われる貸本業界も徐々に衰退していき、昭和四十三頃には、その形態は完全に崩壊してしまった。/私は失業した。(略)昭和四十五年に入り、数社の出版社からボツボツと注文が来るようになった。どこかで誰かが私の作品を見ていてくれていることを確信した。この作品集の大半は、『自分なりの劇画世界』を構築するために、もがき苦しんでいた頃のものである。」(『辰巳ヨシヒロ傑作選』14年11月刊)
 「自分なりの劇画世界」という辰巳の確信は、『ビッグコミック』、『週刊少年マガジン』、『ガロ』というように、発表媒体が変わっても、揺るぎない、一貫した世界を表現していくことの起点となっている。そして小説家志望の男、猿(モンキー)を飼っている男は、いうなれば、「もがき苦し」みながら、日常という時間を送っていく像として描出されていく。それは、同時に関係性に対するアンビバレンツな心情を持ってしまうことの証しとなっているのだ。
 「わかれみち」(『ガロ』70年4月号)は、“さそり”や、“猿(モンキー)”、“ねずみ”といった異貌なるものは登場しない。象徴的に描かれるのは、「高度成長によって」によって、貸本業界の衰退と同じように、その有様を否定され、廃止へと余儀なくされた都電である。
 寿司屋で泥酔する男がいる。店主は、「こいつ/悪酔いしち/まったよ」「少し寝かせてから/帰した方がいいな」と言い、妻に、二階に床をしくように頼む。さらに店主の言葉が続く。
「会社でなにか/いやなことがあった/らしいんだ/しきりにボヤいて/いたから」「そんなことが/ないと/うちへなんか来な/いんだ この男」
 やがて、泥酔した男は目を覚まし、少年期へと回想していく。男(ケンジ)と店主(ヨシオ)は中学時代の同級生であった。ケンジは、ごく普通に両親と暮らしていて、ヨシオの方は、父親が不在で母が飲み屋を営んでいた。ある日、ケンジは、ヨシオの母と客らしき男との性的な行為を盗み見て、衝撃を受けてしまう。ヨシオは、そんな母の様態を見ても、平然としていることに、驚きとともに、ある種の疑念を抱いてしまう。この二人の、違いを〝わかれみち〟といういい方で、象徴しているようにも思えるが、しかし、作品は、もう少し深奥を切開しているといっていい。客たちの喧騒ですっかり覚醒してしまったケンジは階下へと降りて帰ろうとする。
 「おや/ケンちゃん/もう/お帰り?」「また/来らぁ/ヨッちゃん」「タクシー/呼ぼうか/もう終電は/通っちまっ/たぜ」「いや/そこまで/歩いて/拾うさ」
 別れ際の二人の会話には、会社でいやなことがなければ、自分の店なんかには来ないというヨシオと、また来るといってしまうケンジとの間に、言葉では説明できない、お互いの孤立感を確認しあえるような関係の淡さとでいうべきものが滲み出ていると捉えることができる。「軌道内通行禁止」という表示の前で、佇むケンジを描出する最後の画像。二つ並んでいる線路は、やがて一つの線路となっていく。やがてその線路もなくなってしまうことを想起してみるならば、一つになっているはずの関係性もいつかは、離反し遠い距離を生起する関係性へと変容していくのだろうか。例えそうであったとしても、この日の一夜のことは、日常という劇として、大きな意味を持つことになるはずだ。
 わたしは辰巳ヨシヒロの描く世界を、そのように感受したいと思う。

(『貸本マンガ史研究 第2期3号・通巻25号』15.9)

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2015年10月 4日 (日)

八木晃介 著『親鸞 往還廻向論の社会学』(批評社刊・15.6.25)

 親鸞をはじめとする、中世の時代に生起した諸仏教の実践者たちは、宗教性を身に纏いつつも、実は思想者としての相貌を持っていたといっていい。それは、当時の時代情況や社会様態を考えてみれば、理解できるはずだ。差別的な支配や、自然災害、飢饉によって苦しむ人々が求めていた未知の未来へ、生きていくための縁(よすが)として宗教は必然性を有していたということだ。わたしも含めてだが、親鸞は、その時代においてだけでなく、日本思想を通観してみても、傑出した存在であったといえる。これまで、宗教者はもちろんのこと、哲学者、思想家、文学者、運動家や市井の人たちも含めて、様々なかたちで最も多く親鸞は語られてきたといえる。
 『現代差別イデオロギー批判』、『部落差別論』(いずれも批評社刊)などの著書を持つ著者だからこそ、現在の「戦後最低の“濁悪世”」の情況のただ中に、敢えて本書を著したのだと、思う。「本書はどこまでも『私の親鸞』観であり、客観的・普遍的な親鸞像の構築をめざすものでは」ないと述べているが、“私の親鸞”であり、“私観”であるからこそ、読む側の心奥へと直截に響いてくるのではないかと、わたしならいいたい気がする。
 書名となっている「往還廻向」という概念は、浄土真宗の、つまり親鸞思想の骨格をなすものだ。つまり、「往相(おうそう)」と、「還相(げんそう)」のふたつの廻向に「言及したのは親鸞ただ一人だと」著者は述べながら、次のように論述していく。
 「往相とは念仏信心の個人が弥陀の本願に摂取されて往生する局面ですが、還相はその個人が現世に立ち返って類的存在として他者(衆生)を利益し救済(利他教化)するステージです。」「強調すべき点は、この往相と還相とのいずれもが、来世においてではなく、ほかならぬ現世においてなしとげられるべき浄土実現の道筋であると親鸞がかんがえていた事実です。」「私自身は、往相は還相の前提であり、還相実現のための不可避的な局面が往相であるとかんがえています。」「浄土を命終後の世界とかんがえるのは本質的に親鸞的ではなく、否、むしろ反親鸞的でさえあると私は理解しています。」
 末世の信仰がないわたしではあるが、親鸞が説く浄土理念には強く惹かれているのは確かだ。それでも親鸞が説く“浄土”は、彼岸のユートピアではなく、此岸にあるべき理想世界だと思う。だから、ここでの著者の論述には、ただただ首肯することになる。
 本書では、“非僧非俗”、“悪人論”や“宿業”といったことをめぐって、これまでの様々な論議を踏まえながら、著者の親鸞論が展開されていくわけだが、何よりも、わたしは、著者の「私の親鸞」観を象徴的に語られている〈場所〉に拘泥したい。著者は、一九六〇年四月に京都の高校に入学し、当然のことのように安保闘争に参加していく。そして、六月一五日のデモ後に「疲労困憊して帰宅後、なぜか『歎異抄』を読んでいるときに、東大生・樺美智子さんの死を知り、まったく見ず知らずの人の死に涙する初の経験をしたことが今も記憶に鮮明です。そのとき、ほとんど脈絡もなく『親鸞はアナキストではないか』と感じたことが、親鸞を意識した最初の感覚でもありました」と述べて、次のように語っている。
 「当時の私は、よく意味もわからぬままにアナキズムへの一定の憧れをいだいていました(略)。アナキズムを通俗的に『無政府主義』と訳すことに違和感があり、私としては時宜どおりに『無権力主義』と私訳してひとり悦にいり、友人たちにもそれを吹聴していました。権力というものは人間と人間との間にはたらく一つの力であり、(略)密かにはたらく不可視の力でもあるというイメージですが、そうしたタイプの権力を無化するには一人ひとりの人間がいかなる生きざまを選択すればよいのか、高校生時代から現在にいたるまで私はそのことをかんがえてきたようにおもっています。/私が高校生時代から今にいたるも一貫して夏目漱石を敬愛するのは、私のいう意味でのアナキズム的雰囲気が漱石にはあるからです。」「党派心をもたず主体的な一人の力量において理非を明確化していくなら、徹して国家権力と対決せざるを得ないのが道理であって、親鸞はあの激烈な『主上臣下』糾弾をつうじてそれを実践していました。漱石の場合は、親鸞ほどに徹底はしませんでしたが、それでも、あの時代、あの場所において『国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取りつかれたような真似は到底我々に出来る話ではない。(略)』と言い放ったのです。(略)『ひとり』になって国家権力と対峙するとき、親鸞の念仏も、漱石の自己本意という個人主義も、きわめて重要な思想的武器たりえたのではないかと私は想像するものです。」
  “「私の親鸞」観”だからこそ、このように、苛烈で、鮮烈な親鸞をめぐる〈相貌〉を浮き上がらせることができるのだ。

(『図書新聞』15.10.10号)

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