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2015年6月 6日 (土)

山中 恒 著『靖国の子― 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店刊・14.12.15)、堀 雅昭 著『靖国誕生― 幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房刊・14.12.16)

 〈戦後〉七十年である。だが、長年の靖国神社をめぐる喧噪を考えてみれば、〈戦後〉とは、〈戦前〉との地続きでしかないのではないかといいたくなる。それは、連合軍最高司令部とその周辺権力による日本国の占領政策のなかで、様々な価値転換を強いる制度を施行していったにもかかわらず、アンビバレンツに天皇制と靖国神社を温存して、ねじれたかたちで、七十年という時間性を経過させてきたからだといっていい。春の例大祭に、また大挙して自民党右派議員たちが参拝している。いったい、彼ら彼女らの思考の中味は、どうなっているのかと、わたしには、ほとんど理解不能である。戦後生まれの元タレントの自民党議員が、国会の委員会の場で、「八紘一宇」と平然と発言していることを知って、ついにそこまで来たかと思った。ほとんどのメディアは、小さな記事で報じただけで、その元タレント議員に対して厳しい批判をするわけではない。四、五十年前だったら、自民党内の〈戦後〉ということへの鋭敏さやメディアの反応によって、間違いなく議員辞職に追いやられていたと思う。七十年も経過するとなにもかも弛緩してくるのかと思わざるをえない。
 『靖国誕生』は、書名からわかるように、靖国神社の〈発生史〉である。わたし自身が思い込みで理解してきたことが、いい意味で次々と崩れていった。明治維新を革命と捉えることをわたしは、敢えて否としてきた。徳川幕藩体制から天皇を象徴権力にした薩長政権に移行しただけだという、わたしの考え方に修正を加えることはしないが、薩長政権自体に成立時において、様々な矛盾が既に胚胎していたことを、本書によって知ったことになる。つまり、維新以後、様々な士族たちの反乱と靖国神社の成立過程に、そのことが交錯しながら象徴的にあらわれていると思えるからだ。
 著者によれば、靖国神社は、長州藩由来のものだという。つまり、「明治維新時に長州藩で行っていた招魂祭を東京でも行うため、長州藩洋学者・大村益次郎が社地を選定し、明治二年六月に九段坂上に仮社殿を建てたのがはじまり」で、その時の名称は、東京招魂社であった。本殿が完成した「明治五年に兵部省から発展した陸軍省・海軍省の管轄となり、明治一二年六月に」改称して靖国神社となったことになる。しかも、初代宮司は、萩出身の青山上総介(清)であった。
 そもそも長州藩は、関ヶ原の戦いで毛利輝元が豊臣方の総大将だったため、「中国八カ国から防長二州に減封され」、維新までの二六〇年間というのは、外様大名となった毛利家にとって「屈辱の敗戦体制」であったのだ。いわば、敗戦体制からの脱却のために、長州藩士たちを激しい討幕運動へと駆り立てていったといっていい。
 わたしが本書の中で、最も喚起されたことは、長州は早くからキリスト教を受容していたことと、洋学にたいして開かれていたことだ。
 「国のために亡くなった者は、貴賤貧富の別なく平等にこの国の神になれるのだ。キリスト教のいう神の前の平等という思想が、そのまま靖国神社の文明開化思想に連結されていた。靖国神社から浮かび上がる身分解放の近代主義も、徳川身分制度を支えた儒仏思想へ対峙した長州藩国学に担保されていたのではあるまいか。青山とその仲間は、洋学と融合した革命的な神道の中から、明治近代の平等主義を実践したともいえよう。靖国神社がその象徴であったなら、今とは全く違う姿があったこともうなずける。」
 しかし、薩長政権の中枢は、天皇制を強化するために国家神道をそのイデオロギーの核に据え、さらには、軍事大国化を進めていくために、〈靖国〉を国家の中心に据えていったといっていい。そして、「靖国神社の開明性は影をひそめ」、「何層にも重なるように戦死者が英霊として祀られ、偏狭なナショナリズムに彩られた戦争神社に姿を変えた」とし、「政治問題のみで語られる現在の靖国神社は、特に最後の戦争が負け戦だったゆえに、敗戦体制というべき戦後民主主義社会の荒波の中で、創建当初の存在意義さえ失った感がある」と著者は述べていく。
 『靖国の子』は、『ボクラ少国民』シリーズの著者ならではの、明快な国体原理主義(天皇制)批判によって、戦前期の皇民化教育の実相を切開している。それは、現政権のアナクロな復古主義の陥穽を衝くことでもある。
 本書の中で、子供向けの本や雑誌に掲載された「少国民詩」をめぐっての北原白秋や丸山薫の選評や、相馬御風の詩歌集について、著者は俎上に載せている。戦時下の文学者たちの表現は、あまりにも罪深いものがある。白秋の「浅間丸」という詩作品に触れて、次のように述べている。
 「白秋は、まだ日本が太平洋戦争で敗色の見えていない時期に没しました、それは、彼のためによかったかなと思っています。生き延びた他の詩人たちも、戦後は戦中の言動を隠し、息を殺していました。そのうちに、若い頃の名声を得た作品が復活し、お互い古き傷を見て見ぬふりで終わらせてしまいました。/白秋が権力側の要請で、このような国体原理主義賛歌みたいな作品を書いたとは思えません。そこに不気味な国体原理主義の呪術の力を感じてしまうのです。」
 現在のアナクロ復古主義政権が、それでも五〇%以上の支持率があるからか、自民党内部からはもとより、本来、政権に厳しいはずのメディアも含めて、声高に政権を批判する事態が見えてこないのが、まるで、戦前期の言語空間のような気がしてならないと感じるのは、わたしだけではないはずだ。

(『図書新聞』15.6.13号)

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