« なぜ、「終着駅」に魅せられてしまうのか | トップページ | つげ忠男 著『成り行き』( ワイズ出版刊・15.10.14) »

2015年11月 6日 (金)

山田勇男 監督『シュトルム・ウント・ドランクッ【DVD版】』  (株・オルスタックソフト販売:発売・販売、15.7.30)

 大正ギロチン社に集う若きアナキスト群像を活写した映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』が完成したのは、13年の11月。完成試写会と特別上映会が開かれたのみで、一般上映の目途が立たないまま、越年し、映画の制作に関わった人たちはもちろんのこと、サポートしていた人たちが、半ばあきらめていた時に、急転直下、渋谷・ユーロスペースでの一般上映(14年8月の二週間、以後、各地で上映されていった)が決まったのは、14年3月だった。こうして、ちょうど一年後にDVD化されたいま、わたしは、この間の時間をある種の感慨もって振り返ることになる。わたしは、昨年、本紙(14年8月16日号)にて映画評を書いているので、ここでは、作品紹介というよりは、作品の外延性のようなものに、触れてみたいと思う。
 本DVD版には、特典映像として、メイキング(37分)、山田勇男監督、松浦エミル役の中村榮美子、中浜哲役の寺十吾のインタビュー(18分)、そして劇場予告篇2種(3分)が収められている。普通は、本篇を見てから、特典映像を見るべきだと思うが、わたしは、まず、山田監督のインタビューを薦めたい。かつて、山田勇男は、映画『蒸発旅日記』(03年、原作・つげ義春)の撮影時に、「わたしが今までつくってきた映画の方向性というのは夢の感覚のリアリティみたいなもの」だと述べていた。「夢の感覚」といういい方に、山田勇男ならではの感性の発露が表れているといっていい。そして、今回のインタビューでは、「余白」ということを語っている。「ほんらいの物語性より、他人がどうでもいいと思うことに拘ってしまう」ということを意味するようだ。さらに次のように述べていく。
 「映画の本質に関わりのないどうでもいいようなことに拘りたい。」「芝居の後のものを、つまり、台本にはないものを見たい、それが余白であり、余白を撮っていくことによって、その人物像が確かなものになると思っている。」
 さらに、寺十吾が撮影時に語っていた「神は細部に宿る」(デザイン上、ディーテルに拘るといった意味を込めた、ローエというアメリカの建築家の言葉に由来する)という言葉に啓発されて、自分の考える余白とは、そういうことだと重ねて語っている。
 『シュトルム・ウント・ドランクッ』のモチーフは、実際にあった出来事として、九十年以上の時間を経ながら記述され、語られてきた〈事件〉である。そこには、思想や文学・哲学といった〈知〉の位相と反権力という〈対抗〉の実相を潜在させながら、二十代から三十代の社会の底辺で苦闘する若者たちの〈関係性〉が、〈事件〉を惹起していったのだと見做していいはずだ。出来事や〈事件〉を、できる限り、記述されてきたことに忠実に映像化したからといって、〈事件〉や〈関係性〉を描いたことにはならない。山田がいう「映画の本質」を、〈事件〉の様態へと繋がっていく位相と捉えてみるならば、「余白」や「どうでもいいようなこと」とは、一人ひとりの生きている「感覚」を映し撮ることを意味しているのだとわたしには思える。
 つかないマッチを擦りながら懸命に煙草を吸おうとする中浜の顔のアップ、悲しみの顔で仰ぎみるエミルの佇まい、はにかんだ顔をしながら中浜に話しかける古田大次郎(廣川毅)。このような「余白」や「どうでもいいような」カットこそが、わたしの中には、いつまでも印象深く刻まれ続けているといっていい。
 ラストの南天堂の場面は、まさしく「余白」や「どうでもいいようなこと」が溢れていて、これぞ、アナーキーだといってみたくなる。南天堂の場面からエンディングへと繋がっていく間隙のシーンとして、ギロチン社の面々の顔のアップが判決結果とともに映し出されていく。山田本人から聞いたことなのだが、リハーサルなしに自由に振る舞ってもらい撮ったという。すべての演技が終わった後なのか、途中だったのかは、聞きそびれたが、彼らのなんともいえない清々しい表情は、「芝居の後の」、「台本にはない」ものだったといっていいはずだ。
 メイキング映像について、ひとつだけ述べてみる。撮影時は、スタートの声とともに始まり、カット、そしてオーケーの言葉で、ひとつの区切りを示すことになる。だが、山田勇男監督は、オーケーの代わりに、「ありがとうございました」とキャスト、スタッフに向かっていっている。これもまた、山田監督自ら表出する余白性というべきかもしれない。
 つげ義春氏から、わたしへの私信のなかに書かれていた一文を、最後に引いておきたい。
 「先日山田勇男氏の映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』を観ましたが文句なしによかったです。」

(『図書新聞』15.11.14号)

|

« なぜ、「終着駅」に魅せられてしまうのか | トップページ | つげ忠男 著『成り行き』( ワイズ出版刊・15.10.14) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« なぜ、「終着駅」に魅せられてしまうのか | トップページ | つげ忠男 著『成り行き』( ワイズ出版刊・15.10.14) »