« 2015年8月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月20日 (火)

なぜ、「終着駅」に魅せられてしまうのか

 わたしにとって、「駅」というものは、いつもなにがしかの思いを喚起させてくれる場所だ。なぜなら、そこは、人びとが行き交う場所であり、「暮らし」とその「時間」が、絶えず潜在している所だからだ。都会のターミナル駅であっても、地方の小さな駅であっても、わたしには、同じように親近なるものとして、「駅」はある。考えてみたら、上京して四十六年ほど経っているが、住まいの近くの「駅」に行き、電車に乗り、目的地に辿り着き、また、電車で帰宅するということが、日常的なこととしてあり続けてきたことになる(あえて、付記しておけば、わたしは運転免許証を所持していないから、車での移動は、ほとんどない)。しかし、それ以前は、駅はけっして住まいの近くにあるわけではなく、駅へ行って列車に乗るという行動は、年に数えるほどしかなかったから、少年期のわたしにとって、鉄道や駅舎が身近なものだったかといえば、そうではない。だからこそというべきか、鉄道や駅舎に対し、憧れのようなものを感じていたのは間違いない。
 遠く記憶を辿ってみれば、小学生高学年の頃から、なぜか、「地図」が好きだった。どんな契機で、「地図」好きになったのかは、もう覚えてはいないが、実際の「地図」を、自分なりにアレンジしながら写して「地図」を描いたり、架空の「地図」を描き上げたりしたものだった。だから、いまでも、「地図」帳は手元にあり、しばしば眺めることがある。自分のそうした嗜好は、たぶん、未知の場所へ想像力を掻き立てながら、イメージの旅をすることにあったのかもしれない。そういう意味でいえば、「地図」上の駅が、わたしにとって、最も身近な「駅(舎)」だったということになる。
 少年期、まだ見ぬ東京の駅で、関心を抱いていたのは、上野駅と両国駅だった。特に東北地方に在住しているものにとって、上野駅は最も親近な駅だったし、大相撲の東京場所で賑わっている両国駅は、なにか荘厳な佇まいをしているようで、いつかは訪れてみたいと思っていた。
 しかし、時間の経過は、駅のイメージを変容させてしまうものだ。上京して、何年も経ってから、たまたま両国駅を訪れた時、駅舎は立派だったが、ターミナル駅というイメージにはほど遠い、閑散とした駅だったことに驚いたものだった。かつては総武本線の発着駅として機能していたものが、総武線の電化や御茶ノ水駅や中野駅までの延伸、本線が錦糸町駅から東京駅へ直通したことによって、両国駅は、総武線(各駅停車)の単なる一停車駅になってしまったのだ。
 「関東大震災で焼け落ち、昭和四年(一九二九)に鉄筋コンクリートで再建された二代目駅舎は上野駅を小さくしたような、小ぶりながらもターミナル駅らしいスッキリとした姿だ。第二次大戦時の三月十日の下町大空襲にも奇跡的に消失をまぬがれ、周辺住民の避難場所になったという。ここまで八十数年を生き長らえてきた都内でも古株の駅舎である。/が、哀しいかな、もはやターミナル駅としての機能は果たしていない。」(長谷川裕・文、村上健・絵『怪しい駅懐かしい駅』)
 少年期のわたしとって、憧れの駅は、いまや哀しい存在として在り続けていることになる。
さて、わが上野駅はどうか。東京駅まで新幹線が開通する前では、東北地方の出身者たちにとっては、上京や帰省のため、必ず降り立ち出発する駅であった。駅の構造として、山手線や京浜東北線などが高架ホームだが、かつては、行き止まりの地平ホーム(13番線から18番まであったが、現在は17番までである)から、昼の特急や夜行列車が頻繁に発着していたのだ。いま、特急としては、「カシオペア」、「草津」、「あかぎ」、「ときわ」、「ひたち」の一部などだ。この地平ホームに直結している中央改札口の上部には、猪熊弦一郎の「自由」と題した壁画がある。上野駅をしばしば利用している時は、なんの関心も抱かなかったが、後に猪熊弦一郎を知り、あの上野駅の壁画の作者だったことが分かってからは、まだ、一度も見ていないほど、わたしにとって上野駅は遠い存在になってしまった(ただし、公園口改札は、しばしば利用しているから、上野駅には、年に数回は乗降している)。
 啄木の歌や、井沢八郎の歌に象徴されるように、わたしたちにとってみれば、上野駅は紛れもなく「終着駅(始発駅)」ということになる。だが、わたしは、もう少し、「終着駅(始発駅)」というイメージを拡張してみたいのだ。映画や地図を見てみれば、ロンドンやパリ、ローマといったヨーロッパの大都市は、鉄道が放射状になっていて、それぞれに起点となる駅があり、まさに、ターミナル駅としての「終着駅(始発駅)」という佇まいを持っている。しかし、わたしは、やはり、どこか寂しく哀しい雰囲気を持つ「終着駅」というものに、固執してみたくなる。たぶん、それは、現実的な「駅」というよりは、歌や映画から喚起された「駅」にある種の憧憬感を抱いているからだといえる。そのことを、わたし自身に詩的感性があるならば、少しは、情感あふれる言葉によって述べてみたいのだが、ここでは、そのまま歌詞を引用してみたい。

 落ち葉の舞い散る 停車場は
 悲しい女の吹きだまり
 だから今日もひとり 明日もひとり
 涙を捨てにくる

 真冬に裸足は 冷たかろう
 大きな荷物は 重たかろう
 なのに今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる

 一度離したら 二度とつかめない
 愛という名の あたたかい心の鍵は

 最終列車が着く度に
 よく似た女が 降りてくる
 そして今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる

 肩抱く夜風の なぐさめは
 忘れる努力の邪魔になる
 だから今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる

 一度離したら 二度とつかめない
 愛という名の あたたかい心の鍵は

 最終列車が着く度に
 よく似た女が 降りてくる
 そして今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる
 そして今日もひとり 明日もひとり
 過去から逃げてくる
  (『終着駅』―作詞・千家和也、作曲・浜圭介)

 71年、奥村チヨによって唄われた『終着駅』は、「今日もひとり 明日もひとり 過去から逃げてくる」という印象深い歌詞のリフレインによって、恋愛という関係性から離反した女性の心情と終着駅の哀愁感といったものが重ねられて、人々が多様に往還する場所としての「駅」を見事に表出させていた。初期の山口百恵の歌(73~76年)のほとんどの歌詞を手掛けていた千家和也にとっては、内山田洋とクールファイブの『そして神戸』(72年)とともに代表作といっていい作品でもある。
 わたしは、2012年、一青窈によってカヴァーされた歌(アルバム『歌窈曲』収録)を聞いて、この歌が持つ深い物語性に対し、あらためて感嘆したといっていい。一青窈の〈アジア的な声〉が、紺野紗衣の静謐なピアノにのりながら、ややポップな演歌風といった感じの歌唱によって、『終着駅』の詞世界を拡張させていったと思う。
 この歌に内在する物語性を、歌い出しの「落ち葉の舞い散る 停車場は/悲しい女の吹きだまり」という詞にすべて象徴化させているように思う。特に、「吹きだまり」という詞語からイメージされるものは、直喩すぎて、一瞬戸惑いを感じないわけにはいかないのだが、メロディーが付され、「声」が重なって、初めて「吹きだまり」という詞語が、屹立していくことがわかってくる。だから、この歌い出しを奥村チヨ、一青窈、そして中森明菜(『終着駅』は、三人の中で断然いい。94年発売のカヴァーアルバム『歌姫』に収録)で聴き比べてみると、それぞれ微妙に違う位相を表出していることがわかってくる。それはまた、この歌が有する豊饒さだといっていいと思う。さらにいえば、「吹きだまり」という詞語は、「涙を捨てにくる」や、「過去から逃げてくる」へと繋がっていくことによって、「駅」という共同性にまつわる物語がかたちづくられていき、わたしたちの感性へと直截に近接してくるといってみたくなる。
 わたしは、この歌が、暗い予兆を含みながらも、“女たち”を終着駅に降り立たせたことに共感したいのだ。そう、ここでは、終着駅は「吹きだまり」として在るのだが、しかし「吹きだまり」に辿り着いたからこそ、「あたたかい心の鍵」が、いつかまた、見つけることができるかもしれないという空隙を、“女たち”に持たせている。だからこそ、『終着駅』という歌の物語世界を、わたしたちは深く感受できるのだ。
 映画『駅 STATION』(81年・東宝、監督・降旗康男、脚本・倉本聰)にも、触れておくべきかもしれない。この作品は、賛否がまったく割れたことで知られている(「キネマ旬報」誌では、ベスト・テン第四位。「映画芸術」誌では、41位だが、ワースト・テン第一位だ)。それは、ひとえに倉本聰の物語の紡ぎ方の浅薄さに拠っている。わたしは、当時、封切りで見て、高倉健と倍賞千恵子の二人が飲み屋で紅白歌合戦から流れる八代亜紀の「舟唄」(作曲は浜圭介。浜は、1946年、旧満州の収容所で生まれている)を寂しく寄り添いながら聞く場面に感動したものだったし、撮影の木村大作による雪降る風景や俯瞰からとらえる駅舎に素直に共感したものだった。冒頭の高倉健演ずる主人公・英次と離婚することになった妻・直子(いしだあゆみ)とのわざとらしい別れの場面、過剰な演技を強いられた倍賞千恵子と、挙げれば、幾つも出てくる、演出を放棄しているかのような降旗の立ち位置と、皮相なる過剰さを表出する倉本の脚本との合奏によって、『駅』という映画作品をアンビバレンツな方位へと分裂させていったことは、確かなのだ。それでも、わたしが拘るのは、烏丸せつこの、ほとんどイノセントに振る舞っているのではないかと思わせてしまう演技とその存在感、そして増毛と上砂川という二つの終着駅の「像」だ(宇崎竜童の秀逸な音楽も加えておきたい)。
 警察官である英次の故郷は、直通する道路がなく陸の孤島のような雄冬という場所で、増毛から船でなければ行けないところであった。そして、連続通り魔殺人事件の犯人として手配されている吉松五郎(根津甚八)の妹・すず子(烏丸せつこ)が増毛駅前の風街食堂で働いていたため、吉松の行方を追って、英次たちは増毛の旅館で張り込みを続けることになる。だから、物語は、この留萌本線の終着駅(始発駅)でもある増毛駅を中心にして展開されていく。もう一つの駅、上砂川駅(現在は廃線・廃駅となっている)は、砂川駅からの支線の終着駅である。すず子が外出することになり、その後をつけていくと、やがて兄に会うために出かけたことがわかる。再会する場所は上砂川駅で、五郎はそこで英次たちに逮捕されてしまう。夕暮れから闇夜へ時間が経過していく上砂川の駅舎のロング・ショットは圧巻だ。
 すず子を利用して事件の終息を図ってしまったことに自責の念を抱く英次は、死刑判決を受けた五郎に、四年間、様々な差し入れをしていたという設定だ。刑執行の前に英次宛てに届いた五郎からの手紙に「暗闇の彼方に光る一点を 今駅舎(えき)の灯と信じつつ行く」という辞世の歌がしたためられていた。これは、五郎が上砂川駅で逮捕された時の情景を詠んだともいえるし、「駅舎」に対し、「死」を覚悟したうえで、あらためて「すず子」への思いのようなものを込めたともいえそうだ。この歌に倉本聰は作品全篇のモチーフを託したのかもしれないが、物語的には、うまく反映されたとはいいがたい。
 このように記しながら、わたしのなかで、この作品に対するアンビバレンツな思いが湧き上がってしまっていることを否定はしない。だから、断片化することによって、作品への感応を維持しようとしている自分がいることにも気づいている。なぜ、そうなのか。それは、やはり、「終着駅」というものに、無条件で魅せられてしまうからなのだ。じつは、ラストの場面をめぐって、脚本家・倉本聰を憤らせたというエピソードがある。英次が、増毛駅で退職願を破り、それをストーブに入れて燃やし、札幌行の夜行列車に乗り込もうとすると、すず子が目の前を通り過ぎ、駅員と言葉を交わしながら、食堂を辞めて札幌で働くことを告げて列車に乗り込んでいく。それを苦しげに悲しげに見つめる高倉健のアップをロングで捉え、そして列車が静かに発車していくところでエンドロールが始まり、この映画を閉じている。わたしは、このラストの場面によって、様々に織りなしてしまった不自然なストーリーを一気に払拭してくれたと感じ、この作品は、それほど駄目な映画ではなかったという見方をした覚えがある。そして、ここに至ってようやく、降旗による見事な演出だったことが、後に分かるのだ。倉本のシナリオでは、この増毛の場面から、札幌駅に降り立ち、英次が別れた妻・直子との再会を果たす場面まで描いて終わっているからだ。
 同じ、高倉健、倉本聰、降旗康男で78年に撮られた映画『冬の華』では、東映やくざ映画へのオマージュといったかたちで物語を成り立たせていて、しかも倉本の過剰な人物造型が抑制されていたため、わたしたちの間では、それなりに共感を得ていた。だが、『駅 STATION』は、抑制が解き放たれてしまったことで、散漫なストーリーと強引な物語をかたちづくってしまったといっていい。もし、倉本のシナリオ通りラストの場面が撮られていたら、無論、わたしは、このようにしてまで、作品へ論及をすることはなかったといい切れる。
 『駅 STATION』のラストの場面について、もう少し述べてみたいことがある。増毛駅は、この時、始発駅として描かれる。だが、暗い予兆を孕みながら列車は発って行くわけだから、やはり、終着駅という場所性の方が色濃くあるといっていい。「過去」を払拭したい男が退職願を持参して始発駅の列車に乗ろうとしたが、翻意して焼き捨てる。その時、目の前を、「過去から逃げ」るようにして、荒波が待ち受ける都会へ出ようとする女が通り過ぎてゆく。男は、「過去から逃げ」ることはできないと、あらためて思い、女の「過去」をも引き受ける思いで、佇むことになる。英次(高倉健)が佇む場所は、まぎれもなく終着駅という場所だ。どこへも逃げるところはないが、それでも、「駅」は、往きて還る場所であり、まぎれもなく現在という場所なのだ。そして、そこは、わたしたちにとって、ひとつの共同性の場所でもある。

(『塵風 第6号』15.10)

| | コメント (0)

2015年10月10日 (土)

日常という劇―辰巳ヨシヒロの場所

 辰巳ヨシヒロ作品と初めて出合ったのは、『ガロ』誌上での「さそり」以降の一連の作品群であったと思う。貸本時代の辰巳作品を未知のまま、『ガロ』の作家の一人という認知の仕方であった。いま、思い起こしてみれば、当時の『ガロ』の作家のなかでは、幾らか異質な作風を漂わせていたということが、一つの強い印象として残っている。
 『ガロ』に掲載されていたヒロ書房の広告を見て、場所が青林堂の近くだったことを知り、青林堂に寄った後に、『群集のブルース』(「群集のブルース」の初出が『COM』だったことにたいし、幾らかの異和感を抱いたことを覚えている)を求めて、ヒロ書房で辰巳ヨシヒロ本人と直接会い、少しだけ雑談したことがある。たぶん、72年頃のことだ。作品の印象と作者のイメージとの関連付けでいえば、それほど意外な感じは受けなかったといっていい。その時のわたしは、辰巳作品への共感の言葉をどうにかして伝えようとしていたはずだが、うまく話せなかったという悔恨を残した一度だけの邂逅ということになる。
 四十年以上経ち、いまこうして、追悼稿によって、伝えられなかった言葉を紡ぎだせればと思いながら、辰巳作品を読み返してみた。そして七十年に発表された作品に特化して、幾つかのことを述べてみたいと思う。
 「飼育」(『ビッグコミック』70年8月25日号)は、小説家を志す男とバーで働く女との屈折した生活を描いている。モチーフの共通性を考えてみれば、つげ義春の「チーコ」を想起できるが、ここでの男女の愛のかたちは、大きな差異として表れる。遺影のように女と犬の写真が飾られ、押入れには、“ベルの家”と記された犬小屋が捨てられずに入っていることで、女がベルという名の犬を飼っていたことを、理解できるように描かれている。女が仕事に出かけた後、男は、“ベルの家”を押入れから出し、“ベルの家”を見つめながら、一人ウイスキーを飲んでいる。女は、常連客にホテルへと誘われるが、家で留守番をしている男のことが心配で、そのまま、寿司を土産に帰宅する。「アンタって人は/わたしがやって/やんなきゃ、何も/できない人だものね」という女。それにたいして、“ベルの家”に入って、「ウウウワンワン」と答えていく男。そして、翌朝、「おれは働いて、自分でやってみる。さらば」という書置きを残して、女のもとを去る。だが、直ぐに仕事先でトラブルを起こし、結局、飼い犬のように部屋で女が帰宅するのを待っているという画像で物語を閉じている。この小説家志望で生活力のない男と愛犬を亡くした女がどこでどのようにして知り合ったのかということは、それほど重要なことではない。人と人が知りあう契機は、類型されるものではなく多様なものである以上、お互いが抱え持ってしまった負の要素を補うかたちで、生活を始めたとしても、それは、必ず変容していくものなのだ。結局は長く続かず別離を余儀なくされたとしても、二人で暮らし始めてみれば、関係性というものは、個々の感性を充足させていく瞬間というものは必ず、生起するはずなのだ。だから、「飼育」における男女が一見、屈折した関係性に見えたとしても、愛というかたちは、お互いにとって等価なのだということを潜在させているのが、この作品を際立たせていると、わたしなら捉えてみたい気がする。
 「いとしのモンキー」(『週刊少年マガジン』70年8月16日号)は、猿(モンキー)を飼っている男が、勤務先の事故で、片腕を落とし、仕事も失い、飼っていくことができなくなったため、動物園の猿山に捨ててしまうのだが、動物園の猿たちに襲われ死んでしまい、やがて、その死の残像に怯えてしまう孤独な男の像を描出した作品だ。そもそも、実体として猿(モンキー)を飼っていたかどうかを疑えば、幻想譚といえなくもないし、飼われている猿(モンキー)は男の鏡像といえなくもない。だが、ここでは、日常のリアルな出来事として、飼われている猿(モンキー)と片腕になり、ますます孤立していく男の二つの像が重層的な物語として描かれていると理解した方がいいかもしれない。
 作品中、次のようなモノローグが配置されている。
「四畳半の/おれの城……/おれは ここで/ひとりになったとき/はじめて/孤独でなくなるのだ/おれの/飼っている/モンキー/どういう/わけか/いつも/飼い主の/おれに/背中を/むけている/(略)ここでは/ベトナム戦争も/沖縄も 水俣病も/太平洋往復/横断ヨット/も/すべて/現実の/ものとは/思えない/できごとなのさ/いわば/おれにとって/最後にのこされた/人間らしい生活とは/猿といるとき/だけなのだ」
辰巳ヨシヒロの描く男たちは、孤独を慰藉する手立てとして、〝さそり〟を飼ってみたり、〝ねずみ〟に寛容な振る舞いをする。「人間らしい生活とは/猿といるとき/だけなのだ」という時、慰藉してくれる対象は、人間ではなく異類であるということをここでもまた示されていく。これは、辰巳自身の心情をある意味、代象しているといっていいはずだ。つまり、七十年前後の時代情況と自分が置かれた様態に対する苛立ちや憤りを投影していると見做すことができるような気がする。作品集の「あとがき」で、収録された作品の発表時期が七十年前後であることを述べながら、辰巳は、その頃の思いを次のように綴っている。
 「日本の高度成長によって国民は好景気に酔いしれていた。この頃から国民の貧富の差が進行する。(略)昭和三十一年に雑誌への進出を狙って大阪から上京して来たのだが、その日その日のために貸本マンガを描き続けなければならなかった。しかし、少年雑誌やテレビの急速な普及によって、一時は全国に三万店もあったと言われる貸本業界も徐々に衰退していき、昭和四十三頃には、その形態は完全に崩壊してしまった。/私は失業した。(略)昭和四十五年に入り、数社の出版社からボツボツと注文が来るようになった。どこかで誰かが私の作品を見ていてくれていることを確信した。この作品集の大半は、『自分なりの劇画世界』を構築するために、もがき苦しんでいた頃のものである。」(『辰巳ヨシヒロ傑作選』14年11月刊)
 「自分なりの劇画世界」という辰巳の確信は、『ビッグコミック』、『週刊少年マガジン』、『ガロ』というように、発表媒体が変わっても、揺るぎない、一貫した世界を表現していくことの起点となっている。そして小説家志望の男、猿(モンキー)を飼っている男は、いうなれば、「もがき苦し」みながら、日常という時間を送っていく像として描出されていく。それは、同時に関係性に対するアンビバレンツな心情を持ってしまうことの証しとなっているのだ。
 「わかれみち」(『ガロ』70年4月号)は、“さそり”や、“猿(モンキー)”、“ねずみ”といった異貌なるものは登場しない。象徴的に描かれるのは、「高度成長によって」によって、貸本業界の衰退と同じように、その有様を否定され、廃止へと余儀なくされた都電である。
 寿司屋で泥酔する男がいる。店主は、「こいつ/悪酔いしち/まったよ」「少し寝かせてから/帰した方がいいな」と言い、妻に、二階に床をしくように頼む。さらに店主の言葉が続く。
「会社でなにか/いやなことがあった/らしいんだ/しきりにボヤいて/いたから」「そんなことが/ないと/うちへなんか来な/いんだ この男」
 やがて、泥酔した男は目を覚まし、少年期へと回想していく。男(ケンジ)と店主(ヨシオ)は中学時代の同級生であった。ケンジは、ごく普通に両親と暮らしていて、ヨシオの方は、父親が不在で母が飲み屋を営んでいた。ある日、ケンジは、ヨシオの母と客らしき男との性的な行為を盗み見て、衝撃を受けてしまう。ヨシオは、そんな母の様態を見ても、平然としていることに、驚きとともに、ある種の疑念を抱いてしまう。この二人の、違いを〝わかれみち〟といういい方で、象徴しているようにも思えるが、しかし、作品は、もう少し深奥を切開しているといっていい。客たちの喧騒ですっかり覚醒してしまったケンジは階下へと降りて帰ろうとする。
 「おや/ケンちゃん/もう/お帰り?」「また/来らぁ/ヨッちゃん」「タクシー/呼ぼうか/もう終電は/通っちまっ/たぜ」「いや/そこまで/歩いて/拾うさ」
 別れ際の二人の会話には、会社でいやなことがなければ、自分の店なんかには来ないというヨシオと、また来るといってしまうケンジとの間に、言葉では説明できない、お互いの孤立感を確認しあえるような関係の淡さとでいうべきものが滲み出ていると捉えることができる。「軌道内通行禁止」という表示の前で、佇むケンジを描出する最後の画像。二つ並んでいる線路は、やがて一つの線路となっていく。やがてその線路もなくなってしまうことを想起してみるならば、一つになっているはずの関係性もいつかは、離反し遠い距離を生起する関係性へと変容していくのだろうか。例えそうであったとしても、この日の一夜のことは、日常という劇として、大きな意味を持つことになるはずだ。
 わたしは辰巳ヨシヒロの描く世界を、そのように感受したいと思う。

(『貸本マンガ史研究 第2期3号・通巻25号』15.9)

| | コメント (0)

2015年10月 4日 (日)

八木晃介 著『親鸞 往還廻向論の社会学』(批評社刊・15.6.25)

 親鸞をはじめとする、中世の時代に生起した諸仏教の実践者たちは、宗教性を身に纏いつつも、実は思想者としての相貌を持っていたといっていい。それは、当時の時代情況や社会様態を考えてみれば、理解できるはずだ。差別的な支配や、自然災害、飢饉によって苦しむ人々が求めていた未知の未来へ、生きていくための縁(よすが)として宗教は必然性を有していたということだ。わたしも含めてだが、親鸞は、その時代においてだけでなく、日本思想を通観してみても、傑出した存在であったといえる。これまで、宗教者はもちろんのこと、哲学者、思想家、文学者、運動家や市井の人たちも含めて、様々なかたちで最も多く親鸞は語られてきたといえる。
 『現代差別イデオロギー批判』、『部落差別論』(いずれも批評社刊)などの著書を持つ著者だからこそ、現在の「戦後最低の“濁悪世”」の情況のただ中に、敢えて本書を著したのだと、思う。「本書はどこまでも『私の親鸞』観であり、客観的・普遍的な親鸞像の構築をめざすものでは」ないと述べているが、“私の親鸞”であり、“私観”であるからこそ、読む側の心奥へと直截に響いてくるのではないかと、わたしならいいたい気がする。
 書名となっている「往還廻向」という概念は、浄土真宗の、つまり親鸞思想の骨格をなすものだ。つまり、「往相(おうそう)」と、「還相(げんそう)」のふたつの廻向に「言及したのは親鸞ただ一人だと」著者は述べながら、次のように論述していく。
 「往相とは念仏信心の個人が弥陀の本願に摂取されて往生する局面ですが、還相はその個人が現世に立ち返って類的存在として他者(衆生)を利益し救済(利他教化)するステージです。」「強調すべき点は、この往相と還相とのいずれもが、来世においてではなく、ほかならぬ現世においてなしとげられるべき浄土実現の道筋であると親鸞がかんがえていた事実です。」「私自身は、往相は還相の前提であり、還相実現のための不可避的な局面が往相であるとかんがえています。」「浄土を命終後の世界とかんがえるのは本質的に親鸞的ではなく、否、むしろ反親鸞的でさえあると私は理解しています。」
 末世の信仰がないわたしではあるが、親鸞が説く浄土理念には強く惹かれているのは確かだ。それでも親鸞が説く“浄土”は、彼岸のユートピアではなく、此岸にあるべき理想世界だと思う。だから、ここでの著者の論述には、ただただ首肯することになる。
 本書では、“非僧非俗”、“悪人論”や“宿業”といったことをめぐって、これまでの様々な論議を踏まえながら、著者の親鸞論が展開されていくわけだが、何よりも、わたしは、著者の「私の親鸞」観を象徴的に語られている〈場所〉に拘泥したい。著者は、一九六〇年四月に京都の高校に入学し、当然のことのように安保闘争に参加していく。そして、六月一五日のデモ後に「疲労困憊して帰宅後、なぜか『歎異抄』を読んでいるときに、東大生・樺美智子さんの死を知り、まったく見ず知らずの人の死に涙する初の経験をしたことが今も記憶に鮮明です。そのとき、ほとんど脈絡もなく『親鸞はアナキストではないか』と感じたことが、親鸞を意識した最初の感覚でもありました」と述べて、次のように語っている。
 「当時の私は、よく意味もわからぬままにアナキズムへの一定の憧れをいだいていました(略)。アナキズムを通俗的に『無政府主義』と訳すことに違和感があり、私としては時宜どおりに『無権力主義』と私訳してひとり悦にいり、友人たちにもそれを吹聴していました。権力というものは人間と人間との間にはたらく一つの力であり、(略)密かにはたらく不可視の力でもあるというイメージですが、そうしたタイプの権力を無化するには一人ひとりの人間がいかなる生きざまを選択すればよいのか、高校生時代から現在にいたるまで私はそのことをかんがえてきたようにおもっています。/私が高校生時代から今にいたるも一貫して夏目漱石を敬愛するのは、私のいう意味でのアナキズム的雰囲気が漱石にはあるからです。」「党派心をもたず主体的な一人の力量において理非を明確化していくなら、徹して国家権力と対決せざるを得ないのが道理であって、親鸞はあの激烈な『主上臣下』糾弾をつうじてそれを実践していました。漱石の場合は、親鸞ほどに徹底はしませんでしたが、それでも、あの時代、あの場所において『国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取りつかれたような真似は到底我々に出来る話ではない。(略)』と言い放ったのです。(略)『ひとり』になって国家権力と対峙するとき、親鸞の念仏も、漱石の自己本意という個人主義も、きわめて重要な思想的武器たりえたのではないかと私は想像するものです。」
  “「私の親鸞」観”だからこそ、このように、苛烈で、鮮烈な親鸞をめぐる〈相貌〉を浮き上がらせることができるのだ。

(『図書新聞』15.10.10号)

| | コメント (0)

« 2015年8月 | トップページ | 2015年11月 »