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2015年6月27日 (土)

うらたじゅん 著『冬のプラネタリウム』(北冬書房刊・15.5.9)

 九年ぶりの作品集である。収載作品は、書き下ろし作品二篇と07年から13年にかけて、『幻燈』、『架空』誌上で発表された作品十篇、そして、巻末にはインタビュー「60~70年代音楽シーンを語る」を収めている。既発表作品に関していえば、「図書新聞」紙上にて、『幻燈』誌の書評時に幾らかの評言を提示しているので、三作品に収斂させて、あらためて述べてみることにする。
 「おつかい」という作品は、父と少女、少女と同級生の少年との往還を描いたものだ。父にノートを買うように頼まれる。10円の駄賃をもらえたことで、文房具屋ではなく、チョコを買うためにスーパーでノートを買って来る。ノートは、文房具屋より一円安かったため、お釣りの一円を父に返す。しかし、父に、「五年生にもなって/たった一円を/ネコババできなくて/どうする」、「バカ正直の/ままでは/生きて行けない」などと言われ、怒られてしまう。父の実直さが描出された場所だ。だが、父は実直さゆえのストレスによって病に倒れてしまう。困惑する母とともに、父のことが心配で、気持ちが不安定になった少女は、なにかと気にかけてくれる少年にたいしてもきつく当たってしまう。母子のその後のことを類推すれば、暗い物語へと向かうはずだが、少年は落ち込んでいる少女に、「あさのーっ/げんき/だせよー」と懸命に声をかける。一瞬、不安げな少年の顔。「うん!!」といって振り返る少女のきりっとした顔で作品は閉じていく。うらた作品の秀抜さは、このような終景の描き方にあるのだ。
 「夏の午後には」は、八頁の作品だが、鮮烈なる時間性の横断によって、深い物語性を湛えている。いまふたたび作品に接してみても、モノローグと画像の緊密な連繋によって見事な物語構造を醸成しているといいたくなる。タイトル画面の右上隅に「いつかひとりぼっちの/おばあさんになったら/夏の午後には/レースのカーテンを/編もう」とモノローグが記されている。そして、次頁には、「貧しい私は/小さなアパート/暮らしだが」、「緑の同居人たちに/囲まれている」というモノローグとともに、陰影のある古い二階建ての建物を奥行きある構図で描写し、左コマには、草花というよりは、草の葉が配置されている。続いて水泳用キャップをかぶって、溌剌とした少女のカットがふたつ。「もう老いて/泳ぐことはできないが/はじめて海で/泳いだ日のことは/今でもおぼえている」とモノローグが記されていく。この作品の始まりの三頁のなかへ、うらたじゅんにおける「生」から「死」への往還にたいする深い思念を先鋭に込めたとわたしは思う。なぜなら、漫画作品を物語として紡ぎだすうらたじゅんにあっては、時間を横断させながら、記憶の断片を重ねあわせることで、そこにリリカルな心情を滲み出させるからこそ、わたしたちは、率直に感応できるからだ。七頁目は、四コマ。屋根を伝わっていく猫。朽ちかけた向日葵一輪の絵に、「病いに倒れ/窓を閉ざしたまま//朝夕を送る日が/やってきても/光を感じて/いたいから」のモノローグ。木の実の絵に、「秋が来ても/冬が来ても/レースのカーテンは/いつもきれいに/洗濯しておこう」。猫が屋根の上で尻尾を振っていて、窓からはカーテンがたなびいている。八頁目、力強く咲き誇る向日葵の大輪たちの終景である。暗く、いずれ訪れる老いと死にたいして、咲き誇る向日葵は、それでも生き続けていくことへの暗喩としてあるといっていいはずだ。
 「海の夜店」は、少年が、母の故郷へ夏休みに訪れた時の体験を描いている。それは、亡くなった「おじいちゃん」の新盆の時だ。一人で遊びに出て、「おじいちゃん」の幼なじみという「少女」に出会う。この「少女」は、「おじいちゃん」が子どもの時に死んでいたのだ。迷子になりながらも、なぜか、死んだはずの「おじいちゃん」に導かれながら帰り着くという物語である。荒唐無稽譚のように思えるが、うらたじゅんが描出する世界は、軽やかに「生」と「死」を往還させてくれるのだ。
 近作の二篇は、これまでの作品とは、描線と人物の描像が、幾らか違いを感じさせる。なぜだろうか。
 「かりんの花が咲けば」は、病院の外にあるベンチに座って、検査結果を見ながら、「あと2、3年は/大丈夫かな…?」とつぶやいている女性のもとへ猫が集まってくる。そこへ、老人が「猫お好き/なのですか?」と話しかけてくる。老人もまた、病院に長く通院していることがわかる。二人の淡々とした会話で作品は進み、閉じていく。
 「冬のプラネタリウム」は、冬の季節、プラネタリウムで知り合った高校生の男女が、やがて好意を抱くようになり、二人で旅行に出かける。旅先で補導され、親たちによって二人の関係は終焉を強いられる。「月日が流れ」、医師となった男は、病院内に展示されている絵に惹かれる。「冬のプラネタリウム」と題された絵の作者は、高校時代、一緒に逃避行した女性だった。病院の同僚から緩和ケア外来の患者さんの遺作だと伝えられ、衝撃とともに、「ぼく」は悔恨を抑えることができない。うらたじゅんの最新作は、特に髪の毛の描線の鮮鋭さとともに、「生」と「死」をめぐる物語は、ポエジー性を超え出て、さらなる位相へと向かっていくかのようだ。

(『図書新聞』15.7.3号)

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2015年6月19日 (金)

戸田昌子・比留間洋一 編                                    『シャッター以前vol.6 没後30年記念号《アキヒコ》を索めて』(岡村昭彦の会-発行、川島書店-発売・15.3.29)

 わたしにとって、岡村昭彦(1929~85)は、ベトナム戦争の現場に立った報道写真家ということになる。ベトナム戦争が終結して、丁度、五十年という長い時間が経過した現在から、当時の情況分析を披瀝しても、意味がないと思うが、わたしは、当時、ベトナム戦争にたいして直截に反戦運動へ喚起させていくことに逡巡していたといっていい。抵抗するベトナム民衆の影に中国やソ連の力が見え隠れしていて、アメリカに対峙していくのは、当然としても、米中ソという大国的思惑から自立していくベトナム民衆を支援する運動でなければならないと考えていたからだ。そして、そもそも報道写真というものにたいしても、どこか疑念を払拭できないでいた。岡村をベトナム戦争へ写真家として駆りたてものはなにかということが気になりながらも、何十年もの時間を経てきたいま、現況の西アジア情勢とベトナム戦争を安直に対比することは避けたいが、戦場カメラマンと称したテレビ・タレントが登場したり、多くのフリーランサーが民族間内戦の只中へ向かって死を招来しているのを目の当たりにして、彼ら彼女らのいわば先駆けともいえる岡村なら、この現状をどう捉えてみせるのだろうかと考えざるをえない。
 岡村昭彦が亡くなって三十年の今年、池上正治、岡村春彦、暮尾淳、玉木明、中川道夫、米沢慧ら十五人の編集同人によって『シャッター以前 vol.6』が刊行された。岡村没後の五年後の90年に創刊号(当時は、発行母体は岡村昭彦発見の会としていた)を出しているから、ほぼ五年ごとの刊行ということになる。〝シャッター以前〟とは、実に意味深い誌名だと思う。昭彦の弟、春彦は創刊号の巻頭に配置した「刊行にあたって」で次のように述べている。
 「昭彦は己れの目指す生き方を生きるために、可能な限り誠実に全身全霊を捧げようとし、そこで発見したものをまた己れの目標とすることによって、ついにはほとんど不可能と思われるものを完全に解明することをめがけていたようにおもわれてならない。/戦争のなかに立ちながら反戦を、最新の科学の発展を知ることで真の生を、それも絶えず弱者の側に身を置くことを自らに課しながら考え続けていた。/激動する現在の世界情勢の報道のなかに昭彦の仕事が見えないのはいかにも残念なことだが、今を生きる人達のなかに〝シャッター以前〟の思想が生き続けることをそっと願う。」
 わたしは、「〝シャッター以前〟の思想」ということに、率直に感応する。報道写真は、写真の中に写真家の、あるいは報道する側の立ち位置(それは、やがて思想に通底していく)が見えない限り、見るものの心奥を撃つことはありえないと思う。あえて、誤解を恐れずにいえば、有名なベトナムの少女、キム・フックを撮った写真に、わたしは、共感できないといえば、立ち位置の切実さは理解できるはずだ。
 昨年の七月から三か月間、東京都写真美術館で、大規模な岡村昭彦の回顧展「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」が開かれた。わたしは、この回顧展の前に佇んで、ただただ岡村の仕事に圧倒されたといっていい。岡村は、部落解放運動を端緒として、戦争の現場に立ち、反公害の立場から運動に参画、やがて、水資源問題に取り組むことで生命倫理学へと関心を拡げていき、晩年は、といっても五十代だが、死を迎えることへのケアの問題としてホスピス運動へと取り組んでいく。八〇年代前半、わたしたちのまわりで、まだだれも終末期医療やホスピスという問題が語られることのない時だった。
 回顧展を「生きること死ぬことのすべて」と題したのは、わたしたちにとっても普遍課題ではあるが、まさしく岡村が疾走した時空間を象徴したいいかたであるといっていい。企画を担当した戸田昌子は、「岡村の写真を見続けたなかで、この人は、人の死を通じて生きることの輝きを撮った写真家だ、と思う」とし、「そうした姿勢は、ベトナムからホスピスへ通底する姿勢であると思った」と直截に述べながら、次のように記していく箇所に、岡村昭彦の「〝シャッター以前〟の思想」が間違いなくリレーされていると思った。
 「『戦場』だけ岡村の現場だとみなさず、すべて等価なものとして展覧しようとした。岡村の凄さを印象づけようとしたのではなく、あらゆる日常の場を戦場としてみた岡村の徹底した視線を、展覧会場という場で再現しようと試みたのであった。」(「写真展を終えて」)
 本誌は、他に比留間洋一「岡村昭彦撮影のベトナム中部高原・戦略村の写真を読む」、米沢慧「心(いのち)の劇としてのホスピス」、池上正治「岡村昭彦の中国」など、興味深い文章が掲載されている。編者たちは「《アキヒコ》という資料」の継承と読解を謳っている。確かに、《アキヒコ》という存在とその仕事は、まだまだ未知の様態を多く湛えていると思われるが、わたしなら、もっと直截にいってみたい。
 わたしたちにとって、「《アキヒコ》という現在」はなにかと。

(『図書新聞』15.6.27号)

       

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2015年6月 6日 (土)

山中 恒 著『靖国の子― 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店刊・14.12.15)、堀 雅昭 著『靖国誕生― 幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房刊・14.12.16)

 〈戦後〉七十年である。だが、長年の靖国神社をめぐる喧噪を考えてみれば、〈戦後〉とは、〈戦前〉との地続きでしかないのではないかといいたくなる。それは、連合軍最高司令部とその周辺権力による日本国の占領政策のなかで、様々な価値転換を強いる制度を施行していったにもかかわらず、アンビバレンツに天皇制と靖国神社を温存して、ねじれたかたちで、七十年という時間性を経過させてきたからだといっていい。春の例大祭に、また大挙して自民党右派議員たちが参拝している。いったい、彼ら彼女らの思考の中味は、どうなっているのかと、わたしには、ほとんど理解不能である。戦後生まれの元タレントの自民党議員が、国会の委員会の場で、「八紘一宇」と平然と発言していることを知って、ついにそこまで来たかと思った。ほとんどのメディアは、小さな記事で報じただけで、その元タレント議員に対して厳しい批判をするわけではない。四、五十年前だったら、自民党内の〈戦後〉ということへの鋭敏さやメディアの反応によって、間違いなく議員辞職に追いやられていたと思う。七十年も経過するとなにもかも弛緩してくるのかと思わざるをえない。
 『靖国誕生』は、書名からわかるように、靖国神社の〈発生史〉である。わたし自身が思い込みで理解してきたことが、いい意味で次々と崩れていった。明治維新を革命と捉えることをわたしは、敢えて否としてきた。徳川幕藩体制から天皇を象徴権力にした薩長政権に移行しただけだという、わたしの考え方に修正を加えることはしないが、薩長政権自体に成立時において、様々な矛盾が既に胚胎していたことを、本書によって知ったことになる。つまり、維新以後、様々な士族たちの反乱と靖国神社の成立過程に、そのことが交錯しながら象徴的にあらわれていると思えるからだ。
 著者によれば、靖国神社は、長州藩由来のものだという。つまり、「明治維新時に長州藩で行っていた招魂祭を東京でも行うため、長州藩洋学者・大村益次郎が社地を選定し、明治二年六月に九段坂上に仮社殿を建てたのがはじまり」で、その時の名称は、東京招魂社であった。本殿が完成した「明治五年に兵部省から発展した陸軍省・海軍省の管轄となり、明治一二年六月に」改称して靖国神社となったことになる。しかも、初代宮司は、萩出身の青山上総介(清)であった。
 そもそも長州藩は、関ヶ原の戦いで毛利輝元が豊臣方の総大将だったため、「中国八カ国から防長二州に減封され」、維新までの二六〇年間というのは、外様大名となった毛利家にとって「屈辱の敗戦体制」であったのだ。いわば、敗戦体制からの脱却のために、長州藩士たちを激しい討幕運動へと駆り立てていったといっていい。
 わたしが本書の中で、最も喚起されたことは、長州は早くからキリスト教を受容していたことと、洋学にたいして開かれていたことだ。
 「国のために亡くなった者は、貴賤貧富の別なく平等にこの国の神になれるのだ。キリスト教のいう神の前の平等という思想が、そのまま靖国神社の文明開化思想に連結されていた。靖国神社から浮かび上がる身分解放の近代主義も、徳川身分制度を支えた儒仏思想へ対峙した長州藩国学に担保されていたのではあるまいか。青山とその仲間は、洋学と融合した革命的な神道の中から、明治近代の平等主義を実践したともいえよう。靖国神社がその象徴であったなら、今とは全く違う姿があったこともうなずける。」
 しかし、薩長政権の中枢は、天皇制を強化するために国家神道をそのイデオロギーの核に据え、さらには、軍事大国化を進めていくために、〈靖国〉を国家の中心に据えていったといっていい。そして、「靖国神社の開明性は影をひそめ」、「何層にも重なるように戦死者が英霊として祀られ、偏狭なナショナリズムに彩られた戦争神社に姿を変えた」とし、「政治問題のみで語られる現在の靖国神社は、特に最後の戦争が負け戦だったゆえに、敗戦体制というべき戦後民主主義社会の荒波の中で、創建当初の存在意義さえ失った感がある」と著者は述べていく。
 『靖国の子』は、『ボクラ少国民』シリーズの著者ならではの、明快な国体原理主義(天皇制)批判によって、戦前期の皇民化教育の実相を切開している。それは、現政権のアナクロな復古主義の陥穽を衝くことでもある。
 本書の中で、子供向けの本や雑誌に掲載された「少国民詩」をめぐっての北原白秋や丸山薫の選評や、相馬御風の詩歌集について、著者は俎上に載せている。戦時下の文学者たちの表現は、あまりにも罪深いものがある。白秋の「浅間丸」という詩作品に触れて、次のように述べている。
 「白秋は、まだ日本が太平洋戦争で敗色の見えていない時期に没しました、それは、彼のためによかったかなと思っています。生き延びた他の詩人たちも、戦後は戦中の言動を隠し、息を殺していました。そのうちに、若い頃の名声を得た作品が復活し、お互い古き傷を見て見ぬふりで終わらせてしまいました。/白秋が権力側の要請で、このような国体原理主義賛歌みたいな作品を書いたとは思えません。そこに不気味な国体原理主義の呪術の力を感じてしまうのです。」
 現在のアナクロ復古主義政権が、それでも五〇%以上の支持率があるからか、自民党内部からはもとより、本来、政権に厳しいはずのメディアも含めて、声高に政権を批判する事態が見えてこないのが、まるで、戦前期の言語空間のような気がしてならないと感じるのは、わたしだけではないはずだ。

(『図書新聞』15.6.13号)

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