« 五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』        (影書房刊・14.12.25) | トップページ | 山中 恒 著『靖国の子― 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店刊・14.12.15)、堀 雅昭 著『靖国誕生― 幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房刊・14.12.16) »

2015年4月12日 (日)

五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』に喚起されて

 本書は、『らん』誌上にて連載中の「農をつづけながら…フクシマにて」(12回までを本書に掲載)や、『駱駝の瘤』、『横校労』に掲載された、3.11以後「福島の東京核発電所の爆発で福島がフクシマになってしまった年の7月から」毎月書いてきた「フクシマレポート」を纏めたものだ。さらに著者の俳句作品七十五句と、「極私的関心事としての震災後俳句」と題して、〝以後の俳句表現〟における著者の姿勢を述べた文章群も収められている。
 「フクシマレポート」は、放射線量を気にしながら生活せざるをえない場所からの、「国」や「政府」、「行政」に対して、日々、憤怒する「声」たちを綴っていく。例えば、「低線量、高線量に関わらず平常とは違う放射線量があることは確かなのだ」、「耳慣れない熟語かもしれないが原子力発電は『核』発電なのだ、ということをもっと露出すべきなのだ」、「磐梯山の渓流に棲むイワナやヤマメ、檜原湖のワカサギは出荷停止になっている。この世界規模の放射性物質飛散の下、こういう庶民の地を這う苦難をよそに、その筋は大飯原発を再稼働させようと画策している。フクシマから何も学ばなかったのかというのか」と断じていく。
 俳句や短歌、現代詩、その他の表現にもいえることだが、戦前の無残なプロレタリア詩や、戦争賛美詩のように、主題主義的な表現は、表現自体の死を意味するから、反核・反原発をモチーフにして表現することの困難さは、つねにあるはずだ。
 しかし、それでも著者は次のように述べていく。
 「当事者の怒りは、哀しみは、屈辱は、『数年』という時間の鑢によって確実に鈍磨する。私は『忘恩』であっても声を挙げることは大事なことだと思う。歴史に残る名作でなくてもいいではないか。表現の器を持つものは幸いである。器にことばを盛れ。それを互いにぶつけ、鍛えていけばいいのだ。(略)火源の激しさがあってこその『詩』ではないか。(略)現場の火傷のリアルがあるではないか、と思うのだ。」
 わたしは、著者の熱く憤怒する「声」から、直截に喚起される情動を感じないわけにはいかなかった。
                                                        
※影書房・14.12.25刊

『らん 69号』(15.4.10)

|

« 五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』        (影書房刊・14.12.25) | トップページ | 山中 恒 著『靖国の子― 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店刊・14.12.15)、堀 雅昭 著『靖国誕生― 幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房刊・14.12.16) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 五十嵐進 著『雪を耕す――フクシマを生きる』        (影書房刊・14.12.25) | トップページ | 山中 恒 著『靖国の子― 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店刊・14.12.15)、堀 雅昭 著『靖国誕生― 幕末動乱から生まれた招魂社』(弦書房刊・14.12.16) »