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2015年1月24日 (土)

つげ義春・山下裕二・戌井昭人・東村アキコ 著             『つげ義春 夢と旅の世界』(新潮社刊・14.9.20)

 つげ義春の作品、「ねじ式」が発表されたのは、一九六八年、『ガロ六月増刊号・つげ義春特集』であったから、四十六年以上経ったことになる。「沼」(六六年二月号)、「紅い花」(六七年十月号)といった衝撃的な作品を『ガロ』に発表し続けていたつげ義春の書き下ろし作品を付した『つげ義春特集』刊行の予告に、当時、わたしたちは待ちわびていたものだった。予告からかなり遅れ、「ほんやら洞のべんさん」(六八年六月号)と「ゲンセンカン主人」(同年七月号)の間に挟まれるように、「ねじ式」は現われたことになる。その直ぐ後に発表された「もっきり屋の少女」(同年八月号)をもって、つげは、一年半近い沈黙期にはいってしまう。
 わたしは、当時のことを「ねじ式」ブームと称することに、つげ義春という表現者の在り様を考える時、必ずしも的確ではないと思うのだが、それまで、漫画を語ることのない人たちから多くの応答があったわけだから、鮮烈な印象を与えて、大きな反響を巻き起こしたのは間違いない。リアルタイムで接していたわたしは、どこかで、そのような情況に対して醒めてみていたように思う。「ねじ式」に特化されてつげ作品を評されることに抵抗を感じていたといえばいいだろうか。いまとなっては、他のつげ作品に比べ、わたし自身、「ねじ式」に正面から向き合うことを避けてきたことに気づかされたといっていい。そして、いまあらためて、自分自身の視線で作品世界に向き合おうと思い至った契機が、昨年末刊行された『芸術新潮』(一四年一月号)の特集「デビュー60周年 つげ義春 マンガ表現の開拓者」であった。本書は、その『芸術新潮』の特集を再編集し、未発表写真二〇点と「ゲンセンカン主人」の原画を加え、「とんぼの本」シリーズの一冊として出されたものだ。「紅い花」の原画や、「無能の人」の鳥師の場面、「李さん一家」の終景の原画とともに、収録されている「ねじ式」の原画を見ながら、わたしは、圧倒的な画像の迫力に言葉を失ってしまった。つまり、「ねじ式」に対し訳知り顔のように言葉を重ねてみたところで、画像力のまえに言葉は皮相さを露わにされ、沈黙を強いられるだけなのだ。いまさらのように、述べるのは、気恥ずかしいことだが、つげ義春のイメージ喚起力にただ、素直に感受することが、最も確かな「ねじ式」に対する向き合い方だと、いまのわたしは、思っている。
 美術史家の山下裕二を聞き手にしたロングインタビューは圧巻だ。さらに、七〇年代生まれの漫画家・東村アキコと作家の戌井昭人による〝つげ論〟は、新鮮でいい。
「つげ義春先生って、現実に私たちが生きてると、こういう瞬間ってあるよなというのを、紙にスッと落とせる稀有な作家だと思うんですよ。ドラマを盛り込んでいないからこそ、本当のドラマがそこにある、みたいな。」(東村)、「つげさんの場合は、わたしのようにやたらキョロキョロして探し求めているのではなく、自然に、流れるように、変なものや人間にぶちあたっている感じなので、そこがつげさんにはまったく敵わないところなのであり、旅人つげ義春に憧れるところであります。」(戌井)
 なぜ、つげ漫画の新しい読者が世代を超えて、増え続けているのかと、よく語られるが、ほんとうは、なぜという疑問は、まったく無意味になるほど、つげ作品(特に「ねじ式」)は、四六年経過しても依然、屹立しているからだと、断言したいと思う。

(『図書新聞』15.1.31号)

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2015年1月 5日 (月)

八木幹夫 著                               『渡し場にしゃがむ女―詩人西脇順三郎の魅力』           (ミッドナイト・プレス刊・14.9.26)

 わたしが西脇順三郎の詩作品に共感を抱くようになったのは、その名を知ってから、かなりの年月が経ってからである。理由は、明確にいえないながらも、どこか異質な感じを西脇の在り様に見て取れたからかもしれない。学年的にいえば、わたしより三学年ほど上の著者は、「学生運動の激しい時代に突入しかけていた時」、「時流に無関心に見える西脇順三郎の呑気な詩などは、荒唐無稽な西洋知識の並んだ詩だと生意気にも思い込んで」いたと述懐している。まさに、「学生運動の激しい時代」にいたわたしも、ほぼ同じような印象を西脇に対して持っていたような気がする。71年頃、友人と佐渡へ行く途中、彼の友人が小千谷に住んでいるというので、寄ってみようということになり、その友人の家に泊まったことがある。その家は西脇の生家のすぐ近くにあった。彼の友人は、わたしたちに西脇の生家だと教えてくれた時、郷土の名士というニュアンスではなく、どこか畏敬の念のような感じを湛えていたように思う。その時、わたしは、西脇のイメージ(勝手な思い込みでしかないが)から、新潟・小千谷の出身というのが、あまり結びつかなかったため、驚いたことを覚えている。西脇に共感を抱く切っ掛けは、必要があって日本語での第一詩集『ambarvalia』を読むことになったからだ。この詩集は、十五年戦争の口火が切られた数年後の1933年に刊行されている。あたかも、生臭い日本的なるものから超脱していくかのような、「ギリシャ的抒情詩」とされる詩篇は、心地よい、不思議な雰囲気を醸し出していて、わたしの西脇詩への偏見をいい意味で払拭してくれたのである。
 「『くつろぐ』こと。西脇詩を読むとき、この態度がもっとも相応しいのではないか。西欧の文化・思想に明るい人ですが、ほとんどキリスト教への傾斜をしていません。(略)ヨーロッパのキリスト教社会の中では認めがたい異端的な裸体崇拝、性と肉体の開放に対して大らかな受容態度があります。それは新潟の土地が同時に持つ北国の陰の閉鎖性と陽の開放性に触発されているのではないかと推論します。」「西脇さんはギリシャへ行ったことはないのです。これはあくまでも、西脇さんの深い教養の中で夢見られたもの、西脇流にいえば、脳髄の中で夢見られたギリシャです。」
 詩人でもある著者だからこそ、西脇の詩世界をこのように開いてくれるのだ。日本的抒情、あるいは日本的浪漫主義は、確かに十五年戦争の渦中へと人々を誘っていく感性の拠り所になっていたかもしれない。西脇の中に、そのような意味あいにおいて、反日本的抒情としてギリシャ的なるものを対置したのかと、思われるが、わたしが、『ambarvalia』の詩篇から受けたイメージは、けっして日本的抒情性から遠く離反していくものではないという捉え方になる。わたし自身も東北地方の出身だから、著者が指摘するような、「北国の陰の閉鎖性と陽の開放性」ということが、よくわかる。つまりアンビバレンツな心性が、避けようもなく潜在していると、わたしなりに解してみたいのだ。
 本書の中心となるモチーフは、十四年の沈黙を経て戦後、発表された詩集『旅人かえらず』(47年刊)をめぐる西脇詩渉猟の旅である。大半が講演録をもとに起こした文章によって構成されているからかもしれないが、著者・八木幹夫の柔らかな語り口が、観念的ともいえる西脇の詩語のイメージを開き、まさしく、「くつろ」いで読むことを教えてくれて、しかも、読み解きに添いながらでも、西脇詩の魅力を自然に満喫していることに気づくことになる。
 「最終的に西脇さんは『永遠』を覗いてしまったのだ。西脇さんの詩を読むヨロコビとはこの『永遠』の悲しみを感受することに他ならない。」「人間もまるで、植物や木々の一部、自然の一部としてしか見ない。これは徹底しています。」
 「『永遠』の悲しみ」といい、「人間もまるで、植物や木々の一部、自然の一部」として見做すということは、西脇の心奥に孤立感のようなものを、わたしなら見てしまう。戦後、「巨峰としての詩人」であった西脇順三郎は、著者の言葉に倣って、わたしなりに理解して述べてみれば、「道端の野草に直接ふれ」ながら、「超俗と卑俗、形而上と形而下をいとも簡単に等質にとらえて遊ぶ、限りない脳髄の野原」に自らの孤立感を慰藉すべく詩語を立ち上がらせていたのかもしれない。

(『図書新聞』15.1.10号)

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