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2014年1月25日 (土)

声がするほうへ・死者のほうへ                     ――『岡井隆詩歌集2009-2012へい 龍 カム・ヒアといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)』評

 思いおこしてみれば、何度か、空白期があるとはいえ、岡井隆には、長い間、途切れることなく随伴してきたように思う。わたしは、短詩型表現には、極めて当たり前の接し方(誤解のないようにいえば、わたしは、一度も創作をしたことがない)をしてきたといえる。近代詩から、現代詩、そして、短歌へという順にである。やがて、俳句作品の世界に浸ることになっていくのだが。それでも、断続的にではあるが、岡井隆の歌集や評論集を求め、読んできたのだ。ただし、近年、詩を発表するようになったようだが、わたしは、本書を手に取るまでは、まったく未見であった。
 七十年代前半、早稲田大学の短歌同人誌『反措定』を知って、福島泰樹や、三枝昂之、伊藤一彦といった歌人たちの作品を熱心に読みだしたことが、そもそも現代短歌に接した始まりだった。そういえば、河野裕子の第一歌集『森のやうに獣のやうに』にも共感して、短歌的世界の豊饒さを認識せざるをえなかったように思う。現代詩の方は、清水昶までで、同世代の詩人(荒川洋治や平出隆)は、まったく不純な切っ掛けだが、吉本の「修辞的な現在」を読むまでは、無関心であった。
岡井隆という名前を明確に刻印された契機は、吉本との論争(もちろん、リアルタイムで望見したわけではない)であったのか、三枝昂之の第一歌集『やさしき志士達の世界へ』集中の、「まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミュへ」に喚起されるまま、流亡、沈黙期に入っていた岡井隆に不思議な関心を抱いたからだったのかは、いまとなっては、はっきりしない。
 それにしても、この二人(岡井と三枝)が、まさか、後年、歌会始の選者になるとは、思ってもみなかったといっていい。短歌と天皇制は、親近性があるというのは、まぎれもなく、近代天皇制というシステムが作り上げた幻想性であって、選者になった岡井と三枝に対して、わたしも含め、多くの人たちが落胆と批判をしたことをあらためて明記しておく。
 本書は詩歌集とあるが、詩歌をめぐる対談が三篇と評論・エッセイも織り込まれているから、純然たる詩歌集とはいえないかもしれない。それにしても、不思議な書名(91年に刊行された歌集『宮殿』集中の一首だという)だと思う。龍が隆(リュー)のことだったのかと分かったのは、「Ⅰ 詩集(二〇〇九‐二〇一二)」のなかに収められた「沼津在『恐怖の一夜』にちなんで――故清水昶さんの霊に」という詩篇によってだった。果たして、岡井隆の詩とはどんなものなのかと、思いつつ読み解いていくと、ほとんど、句読点のない散文といったものだった。散文詩といっていいと思うが、そもそもそんなカテゴリーはどうでもいいかもしれない。本人がこれは、詩だといえば、そうだろうし、要するに、そこに紡ぎだされた言葉に、ポエジーを感受できればいいのだから。その詩篇は、こんな書き出しから始まっている。

 新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ好例だが人名に付された四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことつまりどうでもいいので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまった とはいへ昶君と呼んでゐた君との交流は村上一郎死後の七〇年代後期から八〇年代前期にまたがる一時に限られるだらう 昶君の文章でぼくの当時を写しとつてみるのはいい趣味ではないが「岡井さんは『ジンブツ』だった。酒をのみ、のむほどに、ぎゃあぎゃあと騒ぎたて、からみ、まといつく福島泰樹や小生を、医師リューはほとんど頬笑で巧みにかわしていた。」といはれればそんな気にもなる「岡井さんと一緒に旅をしたことがある。福島泰樹が住んでいた沼津に行ったのだ。」さうだつた

 『清水昶詩集』という全詩集が79年に国文社から刊行された。附録と明記された冊子が入っていて、最後のスペースに岡井隆の「つぶて」と題した文章が掲載されている。清水昶に酒席で、「あなたは歌壇の、いわば吉本隆明のようなところにあってなどと(それにしてはちと軽いじゃないの、との言外の意をたっぷりふくませつつ)言い出すのを聞くと、一瞬、酔いも醒めてしまう秋気を感ずる」と述べながら、沼津への旅のことに触れていて、「寺の門前の川の川中の芥の山めがけて石投げ遊びを(挑んで来た昶君の言のまにまに)やったが、わたしの投げる石は安保闘争のつぶてさながら芥に命中したのに若き同志のそれはことごとく空を切った」と記していく。この岡井隆と清水昶の往還は、ここまでの断片を見る限り、よくある共感し合う関係といっていいと思うが、詩篇はさらに、「恐怖の一夜」を回想した後に、次のように書かれていく。

 「あへて危険な場所」へ出て行く勇気ではなく無知と無謀のための微笑などうかべながら九州へ逃げ九州から中部圏へと帰りさらに上京しても「危険」に気付かず生きて来たぼくへの昶君の批評でありやがてそれは九〇年代になつて宮中歌会始選者になつたぼくへの悪罵ともなつたことは知る人ぞ知る事実あそこまではつきりとぼくを指さしてののしつた人は昶君だけだつたのだ

 本書の後書といっていい、「この本について」と題された文章がある。そこに、「この本は、二〇一二年の二月~三月のころに編まれた。わたしはその前年の二〇一一年の十二月、新潮社から『わが告白』といふ自叙伝形式の作品を出した。三年がかりで書いたものであつたが、出版と共に、さまざまな書評が出た。(略)時に酷しい批評をうけて心乱れた。今回のこの本は、直接さうした批評(匿名批評も多かつた)に応へるやうな本ではないが、編集の時に、『わが告白』並びにそれへの批評が影響してゐなかつたとはいへないだらう」と記している。こうしてみると、歌会始選者になったことを批判した清水昶の悪罵も、匿名による『わが告白』への酷しい批評も、同じ位相で「心乱れた」と思えるが、じつは、そうではないと、わたしは思う。そもそも、「安保闘争のつぶて」をさりげなく引き合いに出す岡井にとって、歌会始選者になることも、『わが告白』という自叙伝形式の作品を出すことも、まったくの確信犯的行為といわざるをえない。批判されても「心乱れた」とは思えない。「歌壇の、いわば吉本隆明のようなところにあってなどと(それにしてはちと軽いじゃないの、との言外の意をたっぷりふくませつつ)」という表現それ自体が、ある種の韜晦を露呈しているといっていい。しかし、それが、岡井隆らしいといえば、そうなのだが。
 わたしは、作品評価的にというよりは、好きな歌集はなにかと問われれば、なんの迷いもなく『人生の視える場所』(82年刊)をあげる。岡井隆、五十代時のものだが、いいようのない老いのとば口に立った男のエロスとでもいう情感が好きだったからだ。例えば、『神の仕事場』(94年刊)の頃の岡井を、吉本は、「言葉がおどろくほど自在になっている」(『写生の物語』)と評していたが、確かに、自在さは、岡井短歌における膂力の源泉であると思うが、本書の作品群はどうか。

  たとへわれ右に片よりつつあると言われてもよい 旗は旭日
  皇居ふかき冬のみ苑生、御言葉を噛みしめながら帰り来たりつ
  両陛下へのご進講つづくその深い峡の一日第九を聴きぬ
  皇后さまのご提示されたいくつもの下の句案はどれも正しい

 自在さが、ここまでモチーフを偏在させていくと、それは自在性などではなく、天皇への信仰心の吐露としかいいようがない。さらにいえば、ある種の現状肯定によって、自分のいまを支えているといってもいい。あるいは、このような作品も、同じことがいえるかもしない。

  シャコンヌをまたきくまでに午がありナショナリストの午睡があつた
  アメリカの永き支配を押しのける意志も力もなきぞかなしき
  いや〈なきぞ嬉しき〉かもな。せめて〈なき〉さびしさをしも力に立たむ
  なぜ生きて歌ふのか〈死〉に訊いてくれかなり近くに居る筈だから
  時間(クロノス)といふ老人がぼくといふ老人にしぶしぶ呉れた今日です
  原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた

 独白といえば、そんな感じもしなくはない。ほんとうは、もっと、苛烈に告白したいのかもしれない。やはり気になるのは、宮中関係の作品が、他にも、かなりあるのだが、それが年末正月期の岡井の日常ということなのだろう。わたしが、ここで引いたのは、清水昶に倣って悪罵したいからではない。いまを肯定するということは、いい。それはそれで、その人のスタンスであるならば。わたしには、なにか、迷宮のなかにいる岡井隆が居るように思えてならない。ロラン・バルトは、皇居を〈空虚な中心〉といったが、岡井は、まさしく空虚のなかを彷徨っているのだろうか。
 「吉本隆明没後に書いた歌と文」と題した最終章にも触れておくべきだろう。わたしは、『吉本隆明をよむ日』(02年刊)よりは、『慰藉論』(75年刊)のなかの吉本についての文章の方がはるかにいいと思う。本書に収められたものは、『吉本隆明をよむ日』の方に近く、残念ながら、わたしには、あまり、響いてこなかった。
 最後に「吉本隆明といふ桜」と題した作品が七首掲載されている。それをすべてあげてみる。

  吉本さんが死んで何日と算へるのはそろそろ止めなつて桜が言つてる
  らんまんつて形容は便利、しかしだよ桜の本質は別のとこに在る
  次々に人死にし後の寂光の世に生きるとは、老いし桜よ
  夕方に人が来て次の仕事へとうながすときの 夕桜かな
  夕日には彼だけの差し方がある 老いには気になるギラリ、でもある
  吉本さんの言葉また一つ見つかった「岡井は死についてどう思ふのか」
  永遠に散らぬ桜が佃島から今日までを貫いて咲く

 最初の一首が、いちばんいいと思う。「そろそろ止めなつて桜が言つてる」というのが、声がするほうへ、死者のほうへ向かっていると思えるからだ。「便利」、「寂光の世」、「次の仕事」、「ギラリ」、「岡井は死についてどう思ふのか」、「貫いて咲く」という言葉の表出が、わたしには、わからない。やはり、岡井短歌を最大に評価した吉本の死をもっても、岡井隆の彷徨いは、終わらないのだろうか。

(『LEIDEN―雷電 No.5』14年1月)

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2014年1月20日 (月)

映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』考               ―――山田勇男の〈夢〉が彷徨する先は

 
      ※ ※ ※

 大正ギロチン社をモチーフに映像詩人の山田勇男監督が、ようやく映画化することになったと、昨年の初春頃に知り、わたしは、驚きと共に、おおいなる期待感を抱いたといっていい。それは、十年前に、鈴木清順監督で『疾風怒濤』と題し、映画化が企図され、その脚本づくりのプロセスの一端に、関わったわたしとしては、複雑な思いを抑えることができなかったのは、確かだったが、鈴木監督での作品化を断念せざるをえない段階で、あらたに、山田勇男による脚本・監督で再スタートしたことを知っていたこともあって、よく実現への端緒についたなという感慨が湧きあがってきたからだ。だが、撮影に入ってから、様々なことが生起し、完成も危ぶまれたのだが、それでも、上映(11.11の特別試写会と、11.16大杉・野枝没後90年集会での一般特別公開)へと辿りついたことは、率直に賞賛したいと思う。
 山田勇男にとって、『蒸発旅日記』以来、十年振りの劇映画作品であり、しかも、二時間を超える長大な作品となった『シュトルム・ウント・ドランクッ』を撮り上げたことの意味は、大きいはずだ。わたしは、訳知り顔で山田作品を論じられるほどに、作品を丹念に見てきたわけではないが、この『シュトルム・ウント・ドランクッ』は、まぎれもなく、山田勇男のフィルモグラフィーのなかで、傑出した作品となったことは、断言していい。
 わたしが、山田勇男という名前を知ったのは、しばしば、執筆参加していた『夜行』(北冬書房・発行)誌上であった。湊谷夢吉という作家がいた。彼の劇画作品が初めて『夜行』に掲載されたのが、八号(79.5刊)の「続・惜春記」であった。以後、毎号、掲載され、「マルクウ兵器始末」、「魔都の群盲」、「虹龍異聞」といった傑作群を次々と発表していく。しかし、残念ながら、88年6月に急逝。8月に偲ぶ会があり、わたしは、湊谷には一度も会ったことはなかったが、『夜行』を通しての共感の思いから、参加した。二次会では、大勢の人が集まっていた。おそらく、その同じ場所に、山田勇男もいたと思うが、その時はまだ、彼のことは知らなかった。『夜行 16号』(89.3刊)に、わたしは、「流離する物語」と題したつげ義春の旅作品論のような文章を発表した。この号は、秋山清の追悼特集と共に、「湊谷夢吉追悼特集」でもあった。そこに、山田勇男は、「緑色のハート」という文章を掲載している。それが、わたしとって、山田勇男という名前を初めて眼にした時だった。後に、札幌で湊谷とともに、銀河画報社を結成し、『スバルの夜』、『夜窓』など、多くの8ミリ映画作品を発表していたことも知る。それ以前は、寺山修司のもとで、映画美術に関わっていたこともわかり、わたしは、一方的に、親近感を抱いていったように思う。ただし、「8ミリの世界では、山田さんは『巨匠』だった」(古屋淳二「映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』をめぐって」―『アナキズム17号』掲載)ことは、その頃、知る由もなかった。しかし、実際に山田と直接、会ってみると、寺山や湊谷と連結されるはずの多彩な表現に対する熱情のようなものは感じられず、むしろ、表現への思いを自らの内奥に核として深く静かに潜在させているように思えてならなかった。山田による『夜行 18号』(93.2刊)の表紙カヴァーデザインは、後にしばしば、散見されるようになる独特の色調と文字体の苛烈さを象徴していて、寺山や湊谷と通底するものが、あったとはいえ、同号に発表された漫画作品「日向の匂い」は、静謐でありながらも、その描線の有様は、強い思いを湛えているような気がした。むしろその時、山田の本領は、そういうところにあると、確信めいたことを感じた覚えがある。
 その後、『夜行』、『幻燈』と引き継がれるなか、わたしにとって漫画作品が、リアルタイムで接していた山田作品ということになる。そして、山田は、03年につげ義春原作の『蒸発旅日記』を監督作品として、わたしたちの前に、提示した(92年の『アンモナイトのささやき』以来の劇映画作品ということになる)。この作品は、山田勇男にとって、自らの内奥に核として潜在させていたものを率直に表現したものであったと、わたしは思っている。
 それは、『幻燈 No.4』(02.10刊)に掲載されたインタビューで、山田は、「わたしが今までつくってきた映画の方向性というのは夢の感覚のリアリティみたいなもの」だと答えていたからだ。つまり、わたしは、埴谷雄高的な意味で、「夢の感覚のリアリティ」を存在感覚の位相へと結びつけて、山田のいう「夢の感覚のリアリティ」という言葉に感応したのだが、もう少しアクティヴに捉えた方が「夢の感覚のリアリティ」は、大きな意味を持ってくるといっていいかもしれないと、いま、この稿を起しながら考えている。

      ※ ※ ※

 映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』について、述べてみたい。わたしは、鈴木清順の「花」というエッセイから紡ぎだされるギロンチン社のイメージによって、喚起される思い入れを、断絶させたところから、この作品に向き合うことを、前提としたい。つまり、当初の『疾風怒濤』と、同じ語義を持つ『シュトルム・ウント・ドランクッ』は、まったく別の企図を有したものだと見做すべきなのだ。当然、そのことは、企画者の高野慎三が当初抱いていた制作意図(『アナキズム 17号』掲載)とも、離れるものだといっていい。だからといって、そのことを負の意味でいっているのではない。これは、声高にいっておきたいことだが、『蒸発旅日記』と『シュトムル・ウント・ドランクッ』は、ひとつの連続した世界をかたちづくっていると捉えるべきなのだ。わたしは、ここで、映画における作家主義に拘泥しているわけではないし、監督第一主義を主張したいのでもない。
 高野慎三・山田勇男共同脚本と銘打ってある撮影台本を見ながら思ったのは、そこには、わたしが、これまで想起してきた古田、中浜、和田、村木といった関係性の有様を、あまり微細には描かれておらず、鈴木清順作品の初期構想の女テロリストが、登場し、彼女がいわば、時空の横断を象徴させるかのように物語をかたちづくっている。そのことは、この作品が、必然的に歴史活劇と、リアリズム映画の狭間にあることを示している。映画は、作りものであり、虚構の世界を描いているものだとしても、どこかで、事実的な事柄をモチーフにしている時、見る側にとって、そこになんらかの視線を這わせていかざるをえない。それは、作品にとって不運なことだと思う。だからこそ、わたしたちは、自分たちの抱いてしまっている大正アナキストたちへの憧憬感をいったん排除したところで、この作品に向き合うべきなのだ。とすれば、女テロリスト・松浦エミル(中村栄美子)とは、どのような存在として見るべきだろうかという思いが切実なものとなってくるといっていいはずだ。
 何度か、エミルに自分は「幽霊」であるといわせているが、わたしは、そのようにいわせてしまうことに、疑義を挟みたい。中浜や古田たちにいわせるならわかるが、エミル本人にいわせるべき言葉でない。
 なぜなら、まるで、敢えて物語を断絶するかのように、印象深く描出される窓から見える月のカットと同じように、しばしば導入されるエミルの佇む姿は、「幽霊」という言葉を纏うこととはなんの関係もないからだ。むしろ、山田の次のような言葉こそ、佇むエミルに相応しいと、わたしなら思う。
 「ひたすら無いものねだりに明け暮れ、気が付けば未だ八ミリフィルムに虫眼鏡をあて、光を透かしている。そのまま見ても、何が映っているのか、滲んだ色彩の、あわいの切片でしかない。そんな寂しい思い。だが、いつも出会いが、僕を救ってくれていた。そこに僕らの映画がある、と思った。」(「僕の『存在と無』 あとがき風に」―『星のフラグメント 山田勇男のあしおと』・ワイズ出版、03.7刊)
 エミルは、時間や空間を横断する存在ではない。もちろん、「幽霊」でもない。エミルは、死者たちの関係性を語りつぐ存在としてあるのだと、わたしなら見做してみたい。佇むエミルの姿は、寂しさを滲ませている。鎮魂の思いを湛えているとも捉えることができるかもしれない。だからこそ、関係性というものへの希求の象徴として、エミルはあるといいたい。中浜や古田たちの方こそが、既に死者であり、幽霊という存在なのだ。「寂しい思い。だが、いつも出会いが、僕を救ってくれていた」と語る山田勇男は、そのまま、佇むエミルの姿に重なっていく。そして、そこに、山田勇男の映画がポエジーを滲ませながら映し出されているのだ。

      ※ ※ ※

 高野慎三の「制作意図」のなかに、加藤泰監督が描いた映画『緋牡丹博徒』シリーズ(全八作のうち、三作『花札勝負』、『お竜参上』、『お命戴きます』を監督している)の藤純子演ずる矢野竜子と、農村青年社の八木秋子の像を重ねながら、松浦エミルに仮託したと述べている。そして、撮影台本では、赤字で「農村青年社」という文字、白字で、「信州コミューン」という文字が書かれている黒旗を掲げながら、「鍬を振り上げ、畑を耕している」エミルの姿を終景にしている。加藤泰の『緋牡丹博徒』三作に魅せられてきたわたしは、高野の意図に全面的に共感しながらも、「ギロチン社」から、「農村青年社」に繋げることに、やや、逡巡しないわけにはいかなかった。
 映画では、終景にではなく、「南天堂」シーンの前に置いた。それなら、むしろ、エミル・農青社の場面は、なくてもいいのではないかと、わたしには感じられたといっていい。むろん、様々な事情で、そういうわけには、いかなかったかもしれないが、エミル・農青社という有様は、山田作品には、異和感を抱かせるものだというのが、ひとつのわたしの見方だといい添えたい。
 終景からエンディングは、ある種のドキュメントタッチで主要登場人物たちの像が描出されていく。「いつも出会いが、僕を救ってくれていた。そこに僕らの映画がある」と述べる山田勇男の、出演者たちにたいして、この映画の現在という場所からのオマージュのように思えた。みんな、表情がいい。彼らの表情は、まるで「夢」の場所から、「いま」の場所のなかで、出会いと関係性をかたちづくったことの達成感のように見えた。
 果たして、山田勇男の〈夢〉が彷徨する先、つまり、「夢の感覚のリアリティ」をつかむ場所は、どこなのだろうかと、問い直してみる。それは、山田勇男にとっても、わたしにとっても、映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』で、松浦エミルが見据える視線の先にあるはずだと、見終えた後、わたしは思ったといっておきたい。

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