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2014年4月12日 (土)

藤田晴央 著『夕 顔』(思潮社刊・14.11.14)

 著者、七冊目の最新詩集は、哀しい物語を湛えたものとなった。前詩集『ひとつのりんご』(06年刊)は、妻の画家・野原萌との共作詩集といっていいものだっただけに、妻を送った本詩集は、一枚の扉絵があるだけで、いやおうなく、さびしさが横たわっていると感じないわけにはいかない。
 だが、ふたりの濃密な関係性は、詩語のいたるところに潜在している。哀しさもさびしさも、それは、関係性が濃密だったことの、証しなのだ。
 「たえまなく/さらさらとうたう/たけばやしにかこまれた/ちいさないえで/わたしたちは/あたらしいせいかつをはじめた/(略)/ひとりのおとこと/ひとりのおんなの/たびのはじまりだった/どちらかが/いつかしぬなんてこと/ほんきにはかんがえていなかった/ひとときもたえることのない/たけさざのなみのおとが/ふたりと/おなかのちいさないのちの/はてることのない/あしたであった」(「竹林」)
 誰もが、自分や近親の人たちに、いずれ死というものが訪れることを知っている。だからといって、そのことを絶えず、想起するわけではないし、「ほんきにはかんがえていな」いものなのだ。ましてや、関係性の「はじまり」において、どちらかの「死」によって、その関係性の「おわり」をイメージすることはできるはずがない。むろん、それは、「たび」の途上であっても同じことだ。「たけさざ」が「なみのおと」になって二人の関係性へとふりそそぐとき、たえず、関係性というものは、「あした」であり続けている。
 一時退院のひと時の安穏、その一篇。
 「木戸を入ってすぐに/しゃがんだ妻が/庭の土に手のひらをあてた/『あったかい』/わたしもあててみる/あたたかい/病室では/触れることのできないものたち/妻はまずはじめに/土を選んだ」(「土」)
 「土」に「手のひらをあて」ることは、「生きている」ことを確かめることだ。そして「土」を、「あたたかい」と感じること、そのことに、わたしは、率直に感嘆する。草花が、わたしたちを慰藉してくれるためには、そこに「土」があるからだという、当たり前の感受を忘れがちになる。「土」が、「あたたかい」からこそ、そこに命ある草花があるのだ。まるで、わたしたちが希求すべき豊饒な関係性を象徴するかのように。
 「おまえは/黄昏の庭先にすわっている/わたしの帰りを待っていたのか/残された陽射しあるひとときに/花を愛でたいからなのか/植栽用の小さな椅子にすわり/ぼんやり花たちを眺めている/そうしているとおまえ自身が/まるで夕顔ようだ/たそかれに/ほのぼの見つる花の夕顔」(「夜顔」)
 「緊急入院のあと/苦しくつらい日々/なにも食べられず/嘔吐をくりかえす/瀕死の白鳥がここにいる//おまえの絶望/おまえの苦しみ/弱りゆく気力/翼を撫ぜると/冷たい と/驚いた様子//病の白鳥が/ふたたび舞い立つ日を夢見て/閉じた翼を/そっと撫ぜる」(「白鳥」)
 「時の流れは/海のようだ/(略)/結ばれたその日から/ここまでつづく/寄り添うふたつの水脈/(略)/おまえのいのちが消えることは/太陽が沈むこと/海に雪が降りつづけること」(「海」)
 哀しい物語は、「夕顔」から、「白鳥」へ、そして「海」へと連結していく。だが、わたしは、藤田晴央の静謐で繊細な詩語に誘われながら、そこに、「おわり」ではなく、あらたな記憶の「はじまり」を見たい気がする。
 「たそかれ」の「花の夕顔」は、「瀕死の白鳥」となって、「ふたたび舞い立つ日を夢見」る。そして、「おまえのいのちが消えること」はあったとしても、「ふたつの水脈」は消えることなく、「雪が降りつづける」、「海」へと流れていく。「たけさざ」の「なみのおと」が、「ふたつの水脈」のはじまりならば、やがて、「海」のなかへと「おと」は、いつまでも、二人の関係性を漂わせていくといいたい気がする。あたたかい「土」が、雪が降りつづける「海」が、あるかぎり。
 著者の妻・野原萌こと雪乃さんは、12年11月14日に逝去。享年五七だった。
 なお、本詩集が、本年度、三好達治賞(大阪市主催)を受賞したことを、最後に付しておきたい。

(『図書新聞』14.4.19号)

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