« 2013年11月3日 - 2013年11月9日 | トップページ | 2014年1月5日 - 2014年1月11日 »

2013年12月30日 (月)

追悼・藤圭子へ

【1】藤圭子の〈自死〉をめぐって

 藤圭子が、〈自死〉して四ヶ月以上過ぎたことになる(8月22日)。もう、何年も前のことのように思えてくるから、不思議だ。こうして、時間をおいてみると、藤圭子の〈声〉や〈歌〉は、やはり、自分にとって大きな存在だったと感じられてくる。
 わたしにとって、藤圭子は、デヴューとともに、魅せられた歌手だった。藤圭子より二歳年上のわたしが19歳から20歳にかけての、ほぼ一年間に限られていたが、様々なことを包摂していた69年から70年という時制であったことで、藤圭子もまた、わたしにとって、切実な存在であったのだ。そのことは、やや回想も含めて、「わが『演歌』考――藤圭子から椎名林檎まで」(『塵風』第三号・11年2月刊)という文章を書いたことがあるので、ここでは繰り返さないが、例えば、次のような記述には、ひとこと疑義を呈したくなる。

 「藤圭子はしばしば世界的な六八年の記憶と重ねられて語られるが、実は一九六九という一年の差が重要なはずだ。七〇年安保へ向けた社会叛乱のピークは六八年であり、六九年にはすでに退潮期にはいり、そうであるがゆえに一部では鬱屈と一部では過激化を生み出し、その影は大衆文化全般にも影響を与えていた。」(「イントロダクション 藤圭子 1951~2013」―『文藝別冊 藤圭子追悼 夜ひらく夢の終わりに』13.10刊)

 この記述者(無署名)の大きな錯誤を指摘しなければ、藤圭子の存在性が希薄になっていくので、あえて論及しておきたい。真っ先に、述べておきたいことは、「世界的な六八年の記憶」というものいいだ。いったい誰が、藤圭子を「世界的な六八年の記憶と重ねられて語」ってきたというのか。絓秀実の誇大妄想的な「六八年革命」なるものに感化されたのか、「社会叛乱のピークは六八年であ」ったなどと、いうに及んで、わたしは、絶句するしかない。はっきり、いっておこう。六〇年代から七〇年代初頭にかけて、対抗的な渦動のどこかにピークがあるなどという捉え方を、わたしなら絶対にしない。すべて、地続きなものであって、ピークや「退潮期」などという皮相な認識は、まったく無効であると断言しておく。このようなものいいは、歴史を教科書的に捉えることと同じであって、まったく意味をなさないのだ。そして、もっと容認しがたいのは、「大衆文化全般」というものを、まったく理解していないということだ。退潮期に入った対抗的な渦動の「影は大衆文化全般にも影響を与えていた」ことなど、ありえない。わたし自身は、大衆文化(東映任侠映画、漫画、歌謡曲)の方から、圧倒的に大きな影響を受けていたからだ。一例をいっておこう。68年初夏、つげ義春の衝撃的な作品「ねじ式」が、発表される。この記念碑的な劇画作品は、“世界的な六八年”の渦動の影響下にあったものでは、まったくない。

  「私が男になれたなら/私は女を捨てないわ/ネオンぐらしの蝶々には/やさしい言葉がしみたのよ/バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿の女」(藤圭子『新宿の女』―69年9月、作詞・石坂まさを、作曲・みずの稔・石坂まさを)

 確かに、ほぼ一年前の10月21日の新宿は、騒乱の坩堝と化した街であった。時は過ぎゆくものだ。一年が、何年も経ったように思えた時期である。だからこそ、「バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿」という詞に、直載に感応したの当然であったとしても、それは、藤圭子の〈声〉が、わたし自身の感性の在り処を撃ったからであって、藤圭子の〈歌〉になにかを仮託しようとしたわけではなかった。
 いま、あらためてシングル盤のみのアルバムを買い求めて、聴き直してみると、『新宿の女』(69.9)、『女のブルース』(70.2)、『圭子の夢は夜ひらく』(70.4)、『命預けます』(70.7)までが、わたしにとっての最も藤圭子に近接していた時だった。その後は、やや時間を開けて、『京都から博多へ』(72.1)までが、随伴していった最後だった気がする。それは、時代情況とは関係のないことであって、わたし自身が、藤圭子の〈声〉と〈歌〉に魅せられなくなったということである。
 98年暮れ、「Automatic」による、宇多田ヒカルの登場は、衝撃的だった。その詞とメロディーの斬新さ、そして歌唱は、母が演歌の歌い手であったことを継承していると直載に思えたものだった。だが、念願だったはずの娘の華々しいデヴューに際して、ほとんど、その素顔(つまり母としての)を露出することがなかったことは、戦略的だったのかどうかは別として、藤圭子という存在を既に終えことを自ら宣しているようだといっていい。
 先の『文藝別冊』に、四方田犬彦も文章を寄せているのだが、書き出しの酷さに言葉もない。引くのも嫌になるが、「藤圭子が精神を病み、成功した実の娘を横目で眺めながら破滅したと聞かされたとき、わたしが直感的に思ったのは二つのことだった」というものだ。メディアがどんなことを喧伝しようが、宇多田照實と宇多田ヒカルの側が、いかなることも宣しようが、それらのことを真実として受けとめる度量は、わたしにはない。四方田ですら、一方的な情報に洗脳されているのだとしたら、藤圭子の〈自死〉は、恐ろしい事態を引き起こしているといわざるをえない。簡単に「精神を病み」、「破滅した」などという皮相な言葉を伝聞であっても記すべきではないのだ。山口百恵をバックアップしたプロデューサー酒井政利の言葉は、そんな事態の中にある藤圭子を救済している。

 「スーパースター的な要素の人って、影が濃いですよね。影は誤解されるし、歪められます。天才だから、理解されないまま不可解なまま終わっていくものです。答えをさがしだそうとしても、それをひきだすことは不可能なんだと思います。(略)大孤独だったと思います。だから、呟いたりするんだと思います。最初から彼女は孤独を背負ってきたんだと思います。ぬぐい去れないものなんだと思いますね。」(「歌の行間から負の叫びをうたった天才」―『同前』)

 「大孤独」とは、凄い表現だ。と同時に、「影は誤解されるし、歪められ」るといういい方にも、共感できる。理解できないことを、「精神を病」んでいるとすれば、外部にとっては楽なことだ。もし、最も信頼している家族からも、そう見做されたとしたら、藤圭子は、いったい何処へ向かえばいいというのだろうか。
 藤圭子は、娘・宇多田ヒカルがデヴューした後も、宇多田純子ではいられなかったに、違いない。「大孤独」さが、娘の華々しい活躍と反比例するように、慰藉されることはなく、ますます増大していったのではないかと、わたしには思われる。

【2】沢木耕太郎著『流星ひとつ』を読みながら、思ったこと。

 亡くなった後、様々な新聞・雑誌の記事の中に、次のような文章があった。

 「(ロックが歌いたかったという=引用者記)夢を求め、79年に芸能界を引退した藤圭子は単身、渡米する。そこでたまたまライターのマコこと田家正子さん(66)に巡りあう。元ゴールデン街のママのやっている神楽坂の酒場のカウンターにマコはいた。『ある日、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいたら、日本人らしい女性が通り過ぎ、また戻ってくる。アパートを探していた。それが藤圭子。結局、同じアパートの部屋で3カ月、一緒だった。マスコミが自分をつくった、藤圭子は終わった、と言ったわ。(略)』/グラスを傾けながら、マコは藤圭子が大切にしていた原稿の束のことを口にした。『あるルポライターが彼女について書いたもの。彼女はその男を待っていた。でも、来なかった』。アパートに入居したときのパーティーに招かれていたのが、後に夫となる現地取材コーディネータを手がけていた宇多田照實さん(65)だった。そして一粒だねの宇多田ヒカルさん(30)が生まれる。」(鈴木琢磨「『藤圭子の新宿』を歩く」・「毎日新聞」13.9.4夕刊)

 この記事を読んで、そのルポライターが、沢木耕太郎であることが、すぐに推察できたといっていい。かつて、沢木耕太郎による幻の藤圭子インタビュー本のことが、雑誌『噂の真相』(1999年11月号)で触れられていたからだ。沢木が、藤圭子へのインタビュー本を封印したのは、恋愛関係になったからだというのが、『噂の真相』の記事の骨子だったと思う。この鈴木の報告は、まさしく、そのことを傍証するものだといっていい。
 宇多田側の一方的な宣明に対して、楔を打つかのように出したのが、沢木が封印していたはずのインタビュー本『流星ひとつ』(新潮社刊・13.10)である。全編、会話だけで構成した、この本は、画期的なものとなっている。藤圭子の全発言を引きたいほど、酒井の言葉と繋がるかのように、孤独な表現者・藤圭子の〈像〉を浮き上がらせている。印象深い箇所を引いてみたい。

 「あの『面影平野』(引用者註=作詞・阿木耀子、作曲・宇崎竜童―77.1)がヒットしなかったのは、あたしが詞の心がわからなかったから……だけじゃないんだよ。そう思いたいけど、やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、なのかもしれないんだ」「もう……昔の藤圭子はこの世に存在してないんだよ」「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの……」「無知なために……手術をしてしまったから、さ」「決まってたんだよね、その、先天的な結節みたいのを取っちゃえば、声が変わってしまうということは、ね。でも、あのときはわからなかった。結節さえ取れば、これから楽に声が出るようになるって、それしか考えなかったんだ。でも、それを切り取ることで、あたしの、歌の、命まで切り取ることになっちゃたんだ」

 二十八歳の時の藤圭子の言葉は、自らに対して潔癖だったといえる。いや、潔癖ということは、必ずしも的確ではないかもしれない。わたしが、藤圭子の〈声〉と〈歌〉から離れていった時と、藤圭子が喉の手術をした時期と、どう重なるのかは、わからないが、「あたしの、歌の、命まで切り取ることにな」ったといいきる藤圭子は、やはり傑出した表現者だったと、思う。

 「前を見るよな 柄じゃない/うしろを向くよな 柄じゃない/よそ見してたら 泣きを見た/夢は夜ひらく」

―――2013.12.30記

| | コメント (0)

« 2013年11月3日 - 2013年11月9日 | トップページ | 2014年1月5日 - 2014年1月11日 »