« 伊藤彰彦 著『映画の奈落――北陸代理戦争事件』          (国書刊行会刊・14.5.25) | トップページ | 【書評】いま、対抗する思想は可能か             ――『大杉栄伝 永遠のアナキズム』をめぐって »

2014年11月 8日 (土)

上村武男 著『吉本隆明 孤独な覚醒者』            (白地社刊・13.12.30)

 本書は吉本逝去後、刊行されている多くの吉本論とは一線を画しているといっていい。なぜなら、かつて、『固有時との対話』(52年刊)、『転位のための十篇』(53年刊)、「マチウ書試論」(54年発表)などをテクストにして、初期吉本の世界を鮮烈に論及した『吉本隆明手稿』(78年・弓立社刊、初出は70年私家版で刊行)を前半部に収め、後半部にはその後、書き記してきた諸論稿と、著者が67年に企画した吉本の講演の筆録(勁草書房版『全著作集』に収録済)、その時の質疑討論(初公開)、講演に向けてのメモを後半部に収めた著者の吉本論集成であるとともに、著者と吉本の五十年に渡って往還した精神史の集大成といってもいいからだ。
 書名の「孤独な覚醒者」は、吉本の講演集『敗北の構造』(72年、弓立社刊)の書評の表題から採られている。そこで、著者は、「あきらかに生活的な、そして体験的な、健康で根太い真理探究者の相貌があることを、あらためて感じさせられた。これは、自覚的であるがゆえに孤独であり、覚醒しているがゆえに省察ふかい一人の思想家の、大きな構想力に裏打ちされた、見事な講演集である」と述べている。「自覚的であるがゆえに孤独であり、覚醒しているがゆえに省察ふかい」といえば、あの、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくははいじんであるさうだ」(「廃人の歌」)という詩篇を、わたしなら直ぐに想起する。その詩篇が収められている詩集『転位のための十篇』について、著者は、次のように述べていく。
 「(略)ほれおまえのところにかえってきたよ、といってみたい幻想と、だがもっと強く『冬の圧力の真むこうへ』でてゆくために、なべてのものどもに『さようなら』を告げねばならない現実とが、ぎりぎりの一線であやしく表裏一体となったものというしかない。この帰還を強いる幻想と、出立を強いる現実との最大限に張りつめ、ひき裂かれた緊迫のなかにしか、『転位』の誇っていい生活倫理の美は存在しないはずである。還りゆくことは、そのまま出立することだ。出立することは、さらにもっと遠く還りゆくことだ。」
 ここで、著者が指摘する、「帰還」と「出立」という概念は、たんに代表作と冠するだけではおさまらない、吉本の最重要著作といえる『最後の親鸞』(76年刊)で展開された、「還相」と「往相」に照応できることに、わたしは驚嘆せざるをえない。初期詩篇と『最後の親鸞』のモチーフを繋げる著者の鮮鋭な視線によって、「還りゆくことは、そのまま出立することだ。出立することは、さらにもっと遠く還りゆくことだ」と詩的に表現される時、「詩人的思想家」として、より屹立した吉本が描像されていくことになる。
 「わたしが、この手稿で不断に追いもとめてやまないのは、吉本隆明、この現代日本の不敵な詩人的思想家の人間的本質はなにか、ということである。(略)いわば、詩と思想と生活との、引き裂かれた三位一体をあやしくみずからに体現する者を呼んで〈詩人的思想家〉といい、その原像を求めてさ迷う過程でかれ、吉本隆明はわたしの眼前に立っている。」
 このように、率直に述べていく著者だが、「詩と思想(哲学)と生活との、引き裂かれた三位一体」を求めているのは、まさしく著者自身であるといっていい。吉本の営為を論及することは、自らの「詩と思想(哲学)と生活」の在り様を問うていくことでもあったはずだからだ。
 本書では、「『西田幾多郎における〈実在と認識〉』を『試行』に連載したころ」と題した書下ろしの文章が収載されている。そこで、「一九七〇年代から八〇年代にかけての十数年」、つまり、著者が「三十歳過ぎてのちの十年余り」の頃を次のように記していく。
 「生木を裂かれるような最初の妻との生き別れ、敬愛措くあたわぬ父との病苦の果てにやって来た突然の死別、その父との別れが呼び寄せたとしか言いようがない二度目の妻との出会いと結婚、そして二人の子の誕生。(略)小さな村やしろの宮守りと、これまたごく小規模な、いつ潰れても不思議でない幼稚園の経営者と、それからささやかな、しかし根深い文学の徒――これが、そのころのわたしの暮らし向きにほかならなかった。」
 その間に、『吉本隆明手稿』をはじめ、幾冊かの著作を出しながらも、著者は「言語表現の領域が広がれば広がるほど、かえって沈黙の領域が深まっていく」のを感じていく。そして、沈黙の領域を埋めるべく、「詩と哲学と生活の三位一体」という「根源的生成の圏」を求め、吉本が主宰する「試行」に「『善の研究』解読の試み」という副題を付した西田論を寄稿する。
 著者の長きに渡る、あるいは、これからも続くであろう吉本との往還する「劇」を、わたしは、感応しながら本書を読み終えたことを最後に記しておく。

(『図書新聞』14.11.15号)

|

« 伊藤彰彦 著『映画の奈落――北陸代理戦争事件』          (国書刊行会刊・14.5.25) | トップページ | 【書評】いま、対抗する思想は可能か             ――『大杉栄伝 永遠のアナキズム』をめぐって »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 伊藤彰彦 著『映画の奈落――北陸代理戦争事件』          (国書刊行会刊・14.5.25) | トップページ | 【書評】いま、対抗する思想は可能か             ――『大杉栄伝 永遠のアナキズム』をめぐって »