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2014年9月19日 (金)

勝田吉太郎 著『ドストエフスキー』(第三文明社刊・14.4.30)

 わたしにとって、勝田吉太郎は、四十年以上前のことになるが、当時(いまもだが)、最も関心を向けていた思想の所在への導き手であった。導き手といういい方は、やや誤解を与えそうなので、本書の巻末に付された著作目録にそって、具体的に述べてみれば、『アナーキスト』(66年刊)、共訳書として『世界の名著42 プルードン・バクーニン・クロポトキン』(67年刊)、『アナキズム叢書Ⅰ バクーニン』(70年刊)、その後の『人類の知的遺産49 バクーニン』(79年刊)は、わたしが、求めていた〈外〉の立場からの視線による貴重なテクストであった(〈内〉からの閉塞した思考をどう切開していくかということに難渋していたから、勝田の仕事は刺激的だった)。なによりも、当時、バクーニンの新訳(『バクーニン著作集』全六巻が刊行されたのは、73年である)に接することができたのは、ひとつの僥倖なる事件だったといっていい。『近代ロシヤ政治思想史』(61年刊)を最初の著作とする著者だからこそ、『ドストエフスキー』(元版は、68年刊、本書は新装改訂版)を著しながら、バクーニンに論及できていたのだと思う。
 ドスエフスキーに関する論考は数多くあり、様々な視線からのアプローチを可能とする世界的作家であることは、誰もが認めるはずだ。わたしは、この装いも新たに著された勝田吉太郎による“ドスエフスキー論”は、他に類するものがない異彩を放つドスエフスキー作品の思想世界を切開するものとなっていて、ドストエフスキーの思想性、文学性の深遠さにたいし、あらためて驚嘆せざるを得なかったといっておきたい。
 「ドストエフスキーは、たんに偉大な芸術家であるばかりか、偉大な思想家でもあり、また言葉のもっと深い意味で『ロシア最大の形而上学者』(略)と呼ぶことができ」ると捉える著者は、「本書において、私はドストエフスキーの思索を通して、(略)現代政治の思想と行動の提起する諸問題のみならず、(略)宗教哲学や倫理の根本問題、現代文明の基底にひそむ危機的状況の解剖や、(略)歴史・社会哲学にかかわる諸問題」を取り扱ったと述べている。そして、「人間とは何か――この問いこそは、ドストエフスキーが巨大な精神力を傾注して、あくことなく追求した問題である」としている。
 周知のように、フーリエ的な空想的社会主義に傾倒していた若きドストエフスキーが、逮捕、死刑宣告、皇帝の特赦によって四年のシベリア流刑を経験している。「シベリア流刑の絶望の日々のうちに、無神論に代る新しいもの――人間の生に意味を与え、生きる力を与えるようなものを渇望し、探求して、ついにそれを神への信仰を見出した」ことは、ある意味、思想的転向と見做していいし、その後の壮大な作品世界を創出していく起点になっていったと捉えていいはずだ。
 「人間とは何か」という問いは、そのまま信(宗教)の問題へ連結していく。そして、それは、勝田の言葉に
倣うならば、ロシヤ的特性あるいはロシヤ的心性の位相を切り離しては考えられないということになる。
 「無神論は情熱的な人間の許では、しばしば狂信的かつ戦闘的な形をとるのである。ベリンスキーがそうあった。バクーニンもそうであった。チェルヌィシェフスキーもレーニンも、そうであったのだ。そこには、ロシヤ的心性に特徴的な狂信的無神論がある。彼らの無神論は、西欧の無神論者がしばしばそうであったように、宗教的無関心から、心の冷淡さから発する不信ではなく、神への燃えるような憧憬がひそんでいる。」
 「信」は、絶えず「不信」との間で揺らぐものだというのが、わたしなりの宗教への接近の仕方だ。「狂信的無神論」が「神への燃えるような憧憬」を潜在させているというのは、バクーニンの指向性を想起してみれば、よくわかる。もう少し、踏み込んでいえばロシヤ特性とは、ナロード信仰(民衆信仰)のようなものを、内在させていると見做してもいい。
 「正教理念による全人類救済という宗教的理念は『カラマーゾフ兄弟』における僧パイーシイの口を通してもっとも純粋に披瀝されている。それは、国家権力がついに消え去り、そのあとに全人類的な愛の共同体が実現するというユートピアにほかならない。地上の国家を教会にまで高揚させること――これが聖ロシヤの全人類的使命でなければならない。(略)初期スラヴ派とドストエフスキーが理解したような、自由の宗教としての正教理念に由来する一種の宗教的アナーキズムのパトスが脈動しているのである。」
 「十九世紀のロシヤ・インテリゲンツィアの多くは、スラヴ派も西欧派も、七〇年代に『人民の中へ』はいっていったナロードニキも、多かれ少なかれ民衆崇拝を分かちもっていた。しかしこのことは、無神論的社会主義の立場に立った西欧派やナロードニキの場合よりも、敬虔なスラヴ派にとって、より大きな悲劇を意味した。(略)彼らが真実敬虔なキリスト教徒であったからこそ、かえってその民衆崇拝は、民衆に裏切られることによって悲劇性を増すのである。」
 わたしは、ロシヤ的なるものは、アジア的なるものと通底していると考えている。ロシヤは、そもそも西欧ではないのだ。スターリンの失政は、ロシヤの西欧化(社会主義を標榜した軍事大国化)を急激に推し進めていったことにある。明治期以降の日本にも、同じことがいえる。だから、ロシヤもアジアも、市民ではなく民衆とはなにかということが、最も切実な問題なのだと、本書を通読してわたしが、想起したことになる。

(『図書新聞』14.9.27号)


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