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2014年8月 9日 (土)

山田勇男 監督『シュトルム・ウント・ドランクッ』            (ワイズ出版配給・2013年制作)

 『蒸発旅日記』(03年)、『アンモナイトのささやきを聞いた』(92年)の山田勇男監督による待望久しい新作映画は、大正ギロチン社に集う若者たちを描く群像劇だ。わたしは、かつて古田大次郎や、和田久太郎、村木源次郎らに強い関心を抱いていた。秋山清の『ニヒルとテロル』という著書からの影響もあったが、当時の70年前後の対抗的な渦動のなかにあって、彼らの在り様に対し、心情的なものを仮託できたからだ。いわゆる大正ギロチン社事件(大正11年~13年)とは、中浜哲、古田たちがつくったギロチン社に、労働運動社から参加した村木、和田らを加え、大杉栄虐殺(大正12年9月)への報復も含めた、テロルによる思想行動によって生起した一連の出来事を指している。英国皇太子暗殺未遂計画、大杉虐殺実行犯の甘粕大尉の弟(当時中学生)への襲撃、陸軍大将福田雅太郎の狙撃未遂、福田邸へ小包爆弾送付も被害なし。資金源強奪のため銀行員を襲い(小阪事件)失敗する。様々なテロルと資金獲得のための掠活動を行ったギロチン社だが死者が出たのは小阪事件だけであった。小阪事件の実行者としての古田と、ギロチン社の中心的な存在だった中浜の二人が、死刑。村木は未決のまま病死。和田は無期懲役だったが、獄中で自死。
 山田版ギロチン社は、当然のことながら、そのような史実を踏襲するにしても、リアリズム映画を目指しているわけではない。例えば、かつて、『日本暗殺秘録』(69年・東映、監督・中島貞夫)という映画があり、古田を描出したエピソードも織り込んでいたが、わたしは、当時、熱狂的に見ていた東映任侠映画群と同じように共感し、娯楽大作として楽しんだといっていい。だからといって、作品からの感受が浅いということではない。わたしのなかでは、むしろ深い印象を受けながら、いまだに忘れられない作品のひとつとしてある。山田作品としては、異色作といっていい本作品は、『日本暗殺秘録』公開から、四十年以上経っているわけだから、同列に語るわけにはいかないが、それでも、現在の閉塞した情況の只中で、若い世代の人たちに共感の波を起こすことは、間違いないはずだと、わたしは確信している。
 「中浜『桜の季節も終りに近づいてきた。俺たちは既成の運動に限界を感じている。しかし、ひとつあるとすれば、それは国家秩序を解体し、個人の自由を束縛することのない世界を実現することだ』/古田『新たな結社の誕生ですね』/中浜『この世を首になった連中ばかりだ。ギロチン社という名はどうかな?』/古田『ギロチン社…』/中浜『洒落てるだろう?』/倉地『なんかワクワクします』/中浜『なぁ!』/古田『じゃあ、ギロチン社で決まりですね』」
 「この世を首になった連中」が、かたちづくる関係性とはなにか。それは、花札に興じたり、酒を飲んだりしながらも、けっして、後ろ向きではなく、一人一人が関係性のなかにあることを、切実に確認し合えることを示している。そして、わたしたちは、現在の突破できない様態に対し、すこしでも、切開していくためのものを、彼らの共同性の中に見出すことができるはずなのだ。
 わたしは、失敗したテロル、無計画性の運動といった否定的な見方から、彼らギロチン社の行動を捉えようとは思わない。むしろ、運動体の有様、つまり、共同性・関係性の動態というものから見通して、ギロチン社というものに共感したいのだ。だからこそ、山田勇男独特の映像美によって紡ぎ出される映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』という物語は、ポエジーを潜在させながら、夢幻のアナーキー的世界を描出していると見做すことができる。
 物語の時間は、松浦エミル(中村榮美子)と中浜哲(寺十吾)の二人の存在を軸として描出されるわけだが、煙草を吸うためにマッチを擦って火をつけるカットがしばしば挟まれる。行為としては、ただ、マッチの火をつけるだけなのだが、そこには、擬音や鮮烈な画像を重ねながら、鮮やかに、そして瞬時に、生の在り様を象徴するかのように、エミルの、中浜の存在表明として描かれていく。そういえば、山田の師、寺山修司の、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」を想起するのは、わたしだけではないはずだ。マッチの火とともに、作品中、印象深く描かれるのは、エミルが流す涙、悲しみを漂わせたエミルの横顔、湿地に佇むエミルの遠景での姿である。エミルの存在を、わたしたちは、夢のようでもあり、現実のようでもあると感受しながら、この疾風怒濤の物語のなかへ誘われていくことになる。物語の始まりと、後段において、「平成二十五年九月」とクレジットされる時制で、大杉、野枝とともに虐殺された橘宗一少年の生まれ変わりと思われる宗一じっちゃん(井村昂)とエミルとの飄々と応答する場面が挿入されている。
 「宗一『逆立ちしてもこの世はさかしま。あの世も同じってことか』/エミル『あの世も儚い…』」
 この応答は、生と死をめぐる時間と空間を象徴している。そもそも、エミルは存在しているのか、どうかというのは重要ではない。エミルは、夢と現実の狭間で、切実に生きて死んだ者たちへ鎮魂する存在としてあるといいたい。じつは、わたしたちもまた、夢と現実の狭間のなかに生きているのだ。だから、理想というものは、夢幻のなかにあるといっていい。だが、例えそうだとしても、それが、ひとつの膂力の源泉になっていくのだ。
 最後の「南天堂(大正期に創業した書店で、喫茶兼レストランもあり、アナキストたちが日々集まっていた)」のシーンは、圧巻だ。大杉栄・伊藤野枝追悼会として開かれる宴は、「ワルシャワ労働歌」が流れる喧噪溢れるアナーキーな場となっている。竹久夢二(つげ忠男)、村山知義(原マスミ)、林芙美子(白崎映美)、辻潤(宍戸幸司)、らが談論している。ギロチン社の面々が輪になって、楽しそうに踊っている。やがて、大杉栄(川瀬陽太)が逆光の画面に現われ、「みんな無事か?」と語りかけてくる。わたしは、そこで、率直に感応したといっていい。それは、エミルやギロチン社の面々にだけ語りかけているのではなく、映像を見ている、現在のわたしたちに、「無事か」、「生きているか」と語りかけているのだと、思う。その言葉を、切実に受けとめることで、わたしたちは彼らと間違いなく繋がっていくことになる。
 映画はエンドクレジットが終わり、次の言葉が黒い画面のなかに現われて、閉じていく。
 「瞼は黒いスクリーンである」(山田勇男)と。

※渋谷・ユーロスペースにて、8月16日(土)から22日(金)、19:30~本編上映、22:00~トークショー(8月17日、20日のみ、19:30~)。
※8/16 (土) 22:00〜・山田勇男監督、キャスト、スタッフ一同でご挨拶。寺十吾と監督のトーク有り。※8/17(日) 19:30〜・宇野亜喜良、黒色すみれ(ミュージシャン)、山田勇男監督。※8/18(月) 22:00〜・あがた森魚(ミュージシャン)、天野天街(少年王者舘主宰)、山田勇男監督。※8/19(火) 22:00〜・三角みづ紀(詩人)、藤口諒太(本編録音・整音担当)、山田勇男監督、「ギロチン社の遺した文学について、音とことばの夜」。※8/20(水)19:30〜・つげ忠男(漫画家)、原マスミ(ミュージシャン)、うらたじゅん(漫画家)、山田勇男監督、「漫画!漫画!山田漫画!の夜」。※8/21(木) 22:00〜・大熊ワタル(ミュージシャン)withジンタらムータ、イルコモンズ (現代美術家/文化人類学者)、山田勇男監督、「音楽の夜:生ライブANDトーク」。※8/22(金) 22:00〜・相澤虎之助(空族/脚本家)、野木萌葱(パラドックス定数/主宰・脚本)、川瀬陽太、司会:中村友紀(本編助監督/映画「素人の乱」監督)「アナキズムの愉快痛快な魅力について」。
※23日(土)から29日(金)、16:00~18:30本編上映のみ。上映時間:138分、配給:ワイズ出版

(『図書新聞』14.8.16号)

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