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2014年7月 9日 (水)

影丸穣也の「作品」を振り返りながら

 わたしにとって影丸穣也という作家で思い出されるのは、やはり、1970年から72年まで、「週刊少年マガジン」誌上に連載された『ワル』(原作・真樹日佐夫)という作品である。同誌に連載されていて、つのだじろうを引き継ぐかたちで描いていた『空手バカ一代』(原作・梶原一騎)の方は、わたしは、ほとんど見ていない。当時は、もちろん劇画家としてのデビューが貸本マンガであったことは、知る由もなかったが、同時期の梶原一騎原作のマンガ作品、『あしたのジョー』や『愛と誠』に比べれば、弟の真樹ということもあってか、苛烈でアンチヒーロー的な氷室洋二像と少年誌のなかでは異彩を放っていた劇画的描出力に、直ぐ共感できたことを覚えている。今度、あらためて、影丸作品を振り返るにあたって分かったことだが、連載終了後、『新書ワル』(「プレイコミック」・87年~92年)、『ワル正伝』、『ワル外伝』、『ワル最終章』(全三巻)と三十五年にわたって『ワル』作品が描き続けられていたことには、驚いた。なんといっても、影丸と真樹の二人が共作し続けた連携力に、感嘆するとともに、どうにかして入手した『ワル最終章 vol.1』(コアマガジン・05年刊)を読む限り、登場人物の加齢が、いい意味で重厚さを醸し出し、作品にさらなる深化を与えていて、通例陥りやすい長期連載によるマンネリズムとは一線を画したものとなっているのは、ひとえに影丸穣也という劇画作家が持っている膂力によるものだといっていいと思う。
 高校を舞台とした『ワル』、新宿・歌舞伎町での抗争を描く『新書ワル』、台湾マフィアとの激闘の後、生死不明となった『ワル正伝』の後を受け、「最終章」と銘を打って完結編を目指す『ワル最終章』は、アメリカ大統領夫人誘拐事件というこれまでとは、異質な位相を持って物語は開始されていく。大統領夫人誘拐の指揮をとっていたのは、六本木の剣道場・敷島館の館長でもある大和礼であるが、実は反政府組織「海神の牙」のリーダーでもあるという設定だ。〝世直しの軍団〟だという地平同(地球に真の平和と繁栄をもたらすための同志の会)に加担する氷室は、大和と対峙し、「海神の牙」を地平同へ合体させることを主張したところで第一巻は閉じている。作品中、アメリカ大使館前の、「戦争反対」を叫ぶデモ風景が、描写されている。イラク反戦を意識して描かれたと思われるが、『ワル』という作品が、長い継続のなかで、学校、闇社会といった位相を経て、政治的情況をも取り込む位相へと至ったことは、ある意味、必然的なことだというべきかもしれない。だが、影丸穣也の代表作といっていい、『ワル』シリーズの道程を望見するだけで、本稿の主意が達せられたというつもりはない。わたし自身、必ずしも影丸穣也作品の長年にわたる愛読者というわけではなかったが、この機会に新旧二つの作品集を読んで、長い時間性を越えて再度、この作家の劇画的描出力に、共感を持ったことを述べておきたいと思う。
 『影丸穣也時代劇傑作選』(10年9月刊)には、67年から68年にかけて月刊誌「少年」の付録と月刊誌「まんが王」に発表した五篇が収載されている。当然、原作者のないオリジナルストーリーによって描かれたものだ。率直にいえば、白土三平作品を彷彿とさせる最下層に生きる者たちへの鮮烈な視線は、少年漫画誌というカテゴリーを越える際立った作品性を持ったものとなっている。集中、二篇のみを取り上げてみたい。
 「『野武士』異話 手なし」(「少年」67年10月号付録)は、関ヶ原の合戦を経て、徳川政権の始まりという時代、「かつて戦野に/その勇猛を誇った/兵法者の群れは/今は ほとんどが/全国各所において/野武士となり果て/荒れまわっていた/……/ここ/飛騨の山奥にも/黒風党と名のる/野武士の一団が/きびしい『掟』を守って/生息していた…」という書き出しで、五人の登場人物、黒風党首領、首領の右腕(メテ)、左腕(ユンデ)、メテの弟(シシ丸)、少女(ミヤ)らが描出されていく。メテやシシ丸とユンデとの抗争という少年期の読者には分かりやすい構成とはいえ、ユンデの悪業は徹底していて、メテや首領を殺し、シシ丸は両手首を切り落とされる。しかし、それでもシシ丸は、ユンデと闘い、兄と首領の仇討を果たすという、いわば典型的な勧善懲悪譚である。その後、シシ丸が野武士集団の先頭に立って、立て直していくといった展開になっていかないところが、この作品を異色なものにしている。シシ丸たちは、刀を捨て、刀の代わりにスキ、クワをもって「大地を相手にほんとうの勇気を」しめすことを誓っていくことになる。「いつしか/黒風党の名が/だれの口からも/きかれなく/なった……」として物語を終えている。
 「鉄砲弥太」(「少年」68年3月号付録)と題した作品は、マタギの集団で射撃大会を行っている場面から始まる。火縄銃で腕を競っていくものなのだが、「手なし」と同様に、対立する二人、弥助と源次がいた。しかし、競って勝ったのは弥助だった。弥助の息子・弥太は親方から腕前をみてみたいといわれ、弥助が的を持って立ち、弥太が狙いを定めて撃つが、影から弥助・弥太親子に敵愾心を持つ源次が、弥助を撃ったため、弥太があたかも弥助を撃って殺したことになってしまう。銃によって人を殺してならないという集団内の掟によって「人狩りの刑」に処せられる。といっても、温情でただ集団からの離脱を強いられることになったのだが、源次は執拗に弥太を狙い殺そうと追いかけていく。弥太は、どうにか瀕死の重傷を負いながらも逃げ延びて、山深い場所でひっそりと一人暮らしをする老人に救われる。この老人の出自は明らかにされていないが、銃は、生きることへの道具としてあるというのが老人の考え方であった。弥助はここで、老人から銃のことも含め、様々なことを学び成長していく。弥太にとっていつしか、第二の父ともいえる存在になっていた老人に、やがて死が訪れる。それを契機に、弥太は父のかたき源次を撃つべく旅立つ。そして、鉄砲隊結成のために行われていた城中での鉄砲の試合で、二人は再会し、対決することになる。弥助は源次に狙いを定めるが撃てずにいると、源次は自らの銃の暴発によって死ぬ。結果的に、弥太は銃によって人を殺さずに済んだことになる。弥太は鉄砲隊にも加わらず、老人と暮した場所へと帰っていくことを暗示して物語を閉じていく。
 二作品に共通していえるのは、野武士集団、マタギ集団というそれぞれの共同性に内在する制約を越えて、個としていかに自在性を獲得していくかという葛藤を描いていることにある。「手なし」では、野武士としての象徴でもある刀を捨て、スキ、クワによって大地を耕すことで、ある意味自由に生きることを目指し、「鉄砲弥太」では、鉄砲隊に加わらないのは当然だとしても、マタギ集団には戻らず(終景では、必ずしも故郷への帰還を拒絶してはいないのだが)、単独行を選び、進もうとしていると捉えることができる。発表時期が、67年から68年にかけての、やがて生起する反乱の時代に照応している。いわば戦後民主主義の虚妄性のなかで安穏と生きることを拒否するという、叛逆のムーブメントを担う若い世代の心情と、シシ丸や弥太の思いがクロスしていると捉えるのは、いささか裏目読み過ぎるだろうか。
 『87分署シリーズ 麻薬密売人/ハートの刺青』(09年7月刊)は、よく知られたエド・マクべインの警察小説の劇画化である。漫画家としての出発がミステリー作品だったことを思えば、必然なる回帰といっていいかもしれない。ほぼ、翻訳にそった構成とはいえ、「麻薬密売人」の鮮烈な出だしが、影丸の絵に載って見せられると、さらに深い印象を刻まれることになる。
 「冬はまるで/アナーキストのように/襲いかかってきた/荒くれた/目つきで/すさまじい/叫びを/あげ――/激しい息づかいを/しながら 全市を/冷気でつかみ――/骨の髄まで凍らせ/心臓を縮みあがらせた」(中田耕治・訳)
 架空の街・アイソラを、87分署二級刑事のスティーヴ・キャレラ、三級刑事のパート・クリング、耳が不自由なため言葉を話せないキャレラの妻テディなどのキャラクターが、活写されていく。影丸穣也によって劇画化された二作品は、刑事によって「事件」を解決していくといった単なる推理劇というよりは、「事件」によって生起していく群像劇といった様相を有している。キャレラやクリングたちの動静を中心に描くのではなく、「事件」の被害者となっていく人物たち、そして肝心の犯人の周縁をスリリングに描いていくことで、キャレラたちの行動が重層的に浮かび上がってくるといった構造を湛えていることになる。それは、原作が持っている力だともいえるのだが、やはり影丸の描出力によるものだといいたい気がする。なによりも、影丸の描く登場人物の造型がいいのだ。人物の表情がヴァリエーションに富み、劇性をさらに際立たせているからだ。例えば、「ハートの刺青」では、結婚を約束して相手の女性から預金を搾取した後、ハートの刺青をして殺すという連続殺人犯・ドナルドスンが、新たなターゲットのプリシラ・エイムズと食事をしながら会話をする七頁にわたる場面は圧巻である。結婚したいと率直に述べながら、巧みに金の話題へと誘導していくドナルドスンに対して、自分の預金を託すことを決意していくプリシラの表情の変化が、愛への純粋な渇望を表していて、リアルだ。テディの必死の活躍もあって、プリシラは死なずに、ドナルドスンは逮捕される。事件解決後、キャレラとプリシラは、次のような遣り取りをする。自分を責め、愛なんてものは、ない事に気づくべきだったと語るプリシラに対して、キャレラは、「そんな事本気で/考える方が/馬鹿ですよ」と答える。小鳥が空を飛んでいるカットを挟み、「愛は…/小鳥達の/ものですわ」とプリシラ。「愛は/小鳥達のもの/かもしれないが/人間のものでも/あるんですよ!」と語っていくキャレラ。やがて、穏やかで優しい表情のプリシラの顔のカットの後に、「ミス/あなたの笑顔が/〝愛〟そのものですよ/本当に……」と述べるキャレラの表情もいい。結婚詐欺に会う女性という設定である以上、美形である必要はないとしても、そういうことを無化してしまうほどにプリシラの造型に豊かさが漂っているのだ。これは、作家であることを離れて、影丸穣也の優しい視線が射し込まれているからだと、いってもいいはずだ。

(『貸本マンガ史研究 第2期1号・通巻23号』14.6)

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