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2014年2月22日 (土)

堀江朋子 著『菅原道真と美作菅家――わが幻の祖先たち』(図書新聞刊・13.12.31)

 著者は、「書くことは、自分の思考への旅。感情への旅である」と述べる。だから、本書では、母の出自の場所を訪れ、母へ、母の祖先たちへと思いを馳せながら、「文献への旅、土地への旅、人への旅、歴史への旅」を紡ぎだしていく。既に、父母の評伝(父は、戦前、プロレタリア作家として知られた上野壯夫。著者は、『風の詩人』という評伝を出し、図書新聞刊『上野壯夫全集』の編纂にも関わっている。母の評伝は、『夢前川』)を著わしている著者だからこそ、さらに、初源への旅へ出たのだといっていい。
 著者の母の旧姓は小坂、岡山県勝田郡奈義町小坂に生まれた。そこは、「菅原道真の系譜を受け継ぐ美作菅家の一流小坂氏が棲んだ所」だという。まさしく、書名のとおり、母の祖先たちとして、菅原道真と美作菅家党がモチーフとして必然的に浮上してきたことになる。わたし自身は、道真にそれほど関心を寄せてきたわけではない。時の天皇に重用されながら、藤原氏と対立して、大宰府に左遷されたことぐらいしか、知識としてはなかった。わたしは、中世という時間性に惹かれてきたから、中世よりやや以前の道真の時代に、意識が向かっていかなかったといっていいが、本書に接して、歴史(時間)は、どんな時代区分を後世の歴史家がしようとも、それは、絶えず、連続したものだということを、あらためて認識したといえる。もっと直載にいえば、美作菅家党の発生から展開へと至る時間を描出するなかで、道真を重用した宇多天皇と後醍醐天皇を重ね合わせる著者の視線に、わたしは感応したからだ。
  「詩人の感性と、政治家としての役目をどう融合させていたのか。諸々の資料から私なりの菅原道真像を描くと、政務においては、生真面目すぎて融通がきかない。政談の一つの場である酒席を好まない、(略)人付き合いがあまり上手ではない。政治にはつきものの、清濁併せ呑むという幅の広さがない。(略)実際の政治には向いていないが物事を見る目は確かで、讃岐国に関する報告は政府内で評価される、といった、少し神経質な文人、学者タイプの男が浮かび上がってくる。」
 死後、「神様」になってしまう道真の像をこのように語られると、妙に親近感が湧いてくる。生真面目で、人付き合いが上手くはないが、「物事を見る目は確か」だとなれば、藤原氏がいまでいう、官僚的位置にあるのだが、「清濁併せ呑むという幅の広さが」あるだけの政治屋でしかないとしたら、道真の方が遥かに実直な官僚だったのではないかと見做すことができそうだ。宇多天皇(後、上皇)に、藤原氏以外から、はじめて大臣に任じられ、重用されたのは、当然のことだといえそうだ。だが、「宇多その人についていえば、政は不得手であったに違いない。宮中の力関係に対する慮りもなく、道真一人を重用することが、道真の孤立をますます深めていくなどということは考えなかった」から、道真は、左大臣・藤原時平によって、追放されることになる。
 ところで、美作菅家党が、「世に知られたのは、『太平記』に記されてから」だという。『太平記』は、周知のように南北朝時代を舞台にしたものだ。「『異類異形』といわれた『悪党』、『職人』的武士から非人までをその軍事力として動員し」て、鎌倉幕府から権力を纂奪しようとした「『異形』の天皇」(網野善彦『異形の王権』)であった後醍醐が疾走したこの時代は、日本の国家社会構造の暗渠をはじめて露わにされた時だと、わたしは、考えている。美作菅家党は、はじめ後醍醐天皇の側であった。「隠岐脱出」後、「帰京の途についた」のだが、「菅家一統をはじめ、山陰・山陽の武士たちも、その列に加わ」り、「その行列は前後三十里に及んだ」そうだ。その後、後醍醐と足利尊氏との対立が生起すると、菅家一統は、足利側に参列する。混乱の時代であったために、「少しでも有利な方に寝返るということは日常茶飯」だったのだ。後年、徳川幕藩体制では、武家から「殆どが美作国の庄屋」になったことは、道真の「知」を継承したことによる生き抜き方のような気がする。
 著者は、吉野の如意輪寺の境内にある後醍醐天皇陵を訪れている。
 「後醍醐陵は、これが天皇陵かと思うほど質素な佇まい。王座に生まれながら、時代に添えなかった人の孤独が胸を打った。(略)後醍醐天皇のことを書きながら、宇多天皇のことを思い起こす。藤原摂関政治支配の手を払いのけて、天皇親政を行おうと菅原道真を重用。挫折して、詩歌管弦や女にのめり込んでいった宇多の後世の評判はよくない。後醍醐天皇は、武家政治を廃し天皇専制を目指した。しかし、当時の社会情勢を無視した政策で、天下は混乱を極めた。(略)宇多も後醍醐も考える人であったと私は思う。自分なりの理念や思想を持った人であったと。その理念や政治思想が良いとか悪いとかここではいわない。その政策が上手くいったかいかなかったの問題でもない。人間として意志的に生きたが為に、王座から降りなければならなかった、そのことが心に染みるのである。」
 わたしも、著者の思いに共感したい。「自分なりの理念や思想を持」つこと、「人間として意志的に生き」ることは、時代を超えて、普遍であるべきだと思うからだ。著者の思考の旅によって、わたしは、そういう感慨に誘われたことになる。

(『図書新聞』14.3.1号)

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2014年2月15日 (土)

飛矢崎雅也 著                             『現代に甦る大杉榮―自由の覚醒から生の拡充へ』          (東信堂刊・13.11.20)

 大杉栄(以下、わたしは、栄と記していく)が、1923年9月16日に虐殺されてから90年経ったことになる。昨年は、関連イベントが催され、幾冊かの関連書籍(新編の『大杉栄全集』も企図されたが、越年した)、雑誌が出されたわけだが、本書もその一冊といえる。
 ただし著者にとって、大杉栄は、長らく研究テーマとしてきたものであり、05年に『大杉榮の思想形成と「個人主義」』を刊行したのを端緒に、論集『大杉栄と仲間たち』(13年刊)に収められた論考「スタイルとしてのアナーキズム―大杉栄における『障害』(disorder)の問題」とも繋がり、10年3月に、明治大学大学院政治経済学研究科の博士(政治学)号を授与された学位論文をもとにして、本書を刊行している。
 全体を二部構成にし、第一部は、大杉の『自叙伝』をめぐりながら、思想の原初性に視線をあて、第二部は、大杉の思想の核心を解析していくものとなっている。著者が、大杉の初期へと向かう位相は、「吃音」、「腕白」、「甘え」といったことになる。軍人の子として生まれ、自身も、陸軍幼年学校に入学させられるという少年期を送った大杉が、家族のなかで、どのようなかたちで、その叛骨、叛逆精神を育んでいったのかということは、大杉の多彩で苛烈な行動の有様を遠望してみれば、最も、関心が惹かれるところだといっていい。
 「大杉は吃音という『障害』を個性の一部(「面白い、いい癖」)として受け止めることができたために、それが内的抑圧(ルサンチンマン)となることはなかった。逆にその障害を彼にしか持ち得ないパワー(スタイル)に転換してしまった。外的抑圧を受けたにもかかわらず、このように彼がそれを内化せずにすんだのは、母親が彼に『自尊の本能』を育てたからである。」「この『自尊の本能』によって、彼は吃音という『障害』を反逆という生き方の『スタイル』へと変えることができたのである。」「彼にとって『反逆』(アナーキズム)とは、生き延びるために『吃る』言葉を余儀なく話しながら『どうにか生きる仕方』を見出す関係行為であり、余儀なく渉りあうことから始められる一個の闘いなのである。」
 アグレッシヴで、時として楽天的な相貌にも見える大杉栄という〈像〉に対して、わたしたちは、しばしば、その資質に対する視線を切実なものとしてこなかったような気がする。厖大な著作活動(発禁を繰返しながらも、発刊し続ける数々の表現媒体への執念は特筆すべきことである)、海外も含む苛烈な運動の発露、それらの基点は、自らが抱え持っていた「『障害』を反逆という生き方の『スタイル』へと変える」という膂力にその源泉を、求めていくとするならば、確かに、大杉栄という〈像〉は、あらゆる意味で屹立しているといわねばならない。
 そして、著者が、もうひとつ着目する位相は、「甘え」だ。最初に想起するのは、「彼に『自尊の本能』を育てた」母との関係ということになる。後の、女性関係でいえば、堀保子がそうである。実際、大杉より年少の伊藤野枝や神近市子に対しても、無意識の「甘え」がなかったとはいいきれないはすだ。この「甘え」は、同時に「仲間」を希求することであり、共同性というものを自分のなかで切実に考えていくことに繋がっていくと見做していい。
 「『自尊の本能』を高く持ちたいという人間の自然な欲求は、自分が帰属できるコミュニティーを求める。この場合のコミュニティーとは、あるがままの自分を受け入れ、尊重してくれる何らかの共同性である。」
 大杉は、関係性(仲間)を大事にしたといえる。第二次『労働運動』は、失敗したといわれるが、戦略・戦術上とはいえ、ボル派と一緒にやっていきたいと思ったのは確かだったと思うからだ。また、他の仲間から、何も活動していないと批判される村木源次郎を庇ったりする大杉の関係性に対するスタンスを理解しないで、その思想性を語ることはできないと、わたしもまた思う。そもそも、共同性というものは、閉じていくものではなく、開いていくべきものなのだ。
 「人間はかけがえのない自分として、共同性を生きることによって自己肯定感を養い、それによって他者と繋がることが可能になる。そうであるなら、そうした契機を持てない者がいわゆる引きこもりになるなどの『現代的不幸』を背負うことは当然である。そういう『不幸』を背負った者がそこから回復するに必要なのは、自らの生きることの『障害』を『個性』として肯定し、それを起点にして他との関係性を結び、『居場所(コミュニティー)』(共同性)を得ることによって、回復することであろう。そしてその〈生の拡充〉の過程で、現実の問題情況における自己の存在の位置と意味を認識して、自らの生き方の方向性を定めることである。」
 そして、「大杉はこうして回復した典型だった」と結語していく著者の大杉論は、現在抱え持っている困苦的情況の態様へと、思いを射し入れている。この先に何が見えるのかは、誰にもわからないかもしれない。しかし、少しずつでも、この先へと見通していくことが、さしあたって、すべきことなのではないだろうか。現在において、大杉栄とは何かと、問うている本書の意義は深い。

(『図書新聞』14.2.22号)

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