« 辺銀早苗 企画編集『村木源次郎資料集』           (B企画刊・13.11.1) | トップページ | 映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』考               ―――山田勇男の〈夢〉が彷徨する先は »

2014年1月18日 (土)

加藤泰 著・鈴村たかし 編『加藤泰映画華―抒情と情動』   (ワイズ出版刊・13.11.30)

 長い間、わたしは、加藤泰(1916~85)の映画世界に魅せられてきた。それは、いまでも変わることはない。加藤泰の映画世界を起点にして、邦画、洋画にかかわらず、様々な映画を見ていくということを、これまでに、してきたからだ。亡くなって、二十八年以上経ち、劇映画作品としては、『炎のごとく』(81年制作・公開)、ドキュメンタリー作品として『ざ・鬼太鼓座』(81年制作、94年公開。ただし、記憶は定かではないが、82年か83年頃に一般公開試写のようなかたちで、わたしは、見ている)が、最後の作品となるわけだが、さらに遡って六十年代から七十年代初めの諸作品(敢えて十作あげてみるならば、『幕末残酷物語』、『明治俠客伝 三代目襲名』、『沓掛時次郎 遊俠一匹』、『男の顔は履歴書』、『懲役十八年』、『みな殺しの霊歌』、『緋牡丹博徒 花札勝負』、『緋牡丹博徒 お竜参上』、『緋牡丹博徒 お命戴きます』、『人生劇場 青春・愛慾・残俠篇』となる)を見ても、いまだに、わたしには、新鮮で強烈な印象を与えてくれるといってもいい。
 加藤泰についての本で、最初に刊行されたのは、『遊俠一匹―加藤泰の世界』(幻燈社刊・70年)であり、その後、『世界の映画作家14 加藤泰・山田洋次』(キネマ旬報社刊・72年、増補改訂版・77年刊)、わたしも執筆参加した追悼本というかたちでの、『加藤泰の映画世界』(北冬書房刊・86年)などがある(その間、シナリオ集が二冊、著書『映画監督山中貞雄』が刊行されただけである)。しばらく、空白があり、94年に『加藤泰、映画を語る』(筑摩書房)と、『加藤泰資料集』(北冬書房)、そして、95年に本書の元版『加藤泰映画華』(同時期に講演とシナリオを収録した『日本カルト映画全集5 沓掛時次郎 遊俠一匹』も刊行されている)が出て、さらに空白期があり、編者の『冬のつらさ 加藤泰の世界』(ワイズ出版刊・08年)を挟んで、今年は、期せずして、『加藤泰映画華』と『加藤泰、映画を語る』の文庫版が出たことになる。映画監督歴三十年、七十年前後、鈴木清順とともに、熱狂的に支持された加藤泰をめぐる刊行書の少なさをいまさら述べても、仕方がないかも知れない。しかし、本書は、元版にかなりの増補をしていて、現在時における加藤泰フィルモグラフィー・コンプリート版といっていい、画期的なものになっている。第一章と第二章には、加藤泰のエッセイとインタビューを収め、第三章(全体の六割近くを占める頁数だ)は、「加藤泰全作品」として、詳細な作品データ、関係者の証言や精緻な解説を付している。
 インタビューのなかで、再読してやはり、加藤泰らしいなあと思う応答がある。「『沓掛時次郎 遊俠一匹』を見ていますと、こんなに情感豊かな映画もないという印象がありますけれども、加藤さんにとって情感イコール思想という風にはつながりますか」という聞き手に対して、次のように述べていく。
 「(略)どうかな……案外、情感しかない男だから(笑)。思想なんて考えてないからねえ。(略)僕自身は、『思想』なんて考えてみたことはないけれども、そう問われてみますと、結局、僕はおセンチな庶民なんですね。(略)思想、ということではっきり意図したわけではないですけれども、最初から、ひとつひとつの画は、ひとつひとつ納得出来るまで考えてやってきました。それは、基本的な考えとして撮り続けてきたといえます。」(「雨、風、……そして雪……――六〇年代、加藤映画の情感とはなにか」)
 わたし(たち)が、加藤泰映画に魅せられる最大の理由はなにかといえば、加藤泰美学ともいえる独特のローアングルによる構図と、場面展開、長廻し、多角的なカット割りなどが醸し出す画像(物語)の力だといっていい。「ひとつひとつ納得出来るまで考えてやってきた」という「ひとつひとつの画」そのものが、わたしたちに物語として、深い情感と思想性を湛えて語りかけてくれるのだ。いうなれば、脚本家が紡ぎ出すストリートと台詞が、加藤泰による映像力によって、加藤泰の思想や情感のように伝わってくるということになる。『沓掛時次郎 遊俠一匹』の脚本家・鈴木尚之(1929~2005)が、加藤泰に批判的な発言をしているが、それは、監督への不満というよりは、嫉妬心といった方がいい気がする。加藤泰が亡くなった後の発言としても、許容できるものではない。よく、脚本家の側から、映画作品が評価されるとき、監督や俳優は対象とはなっても、脚本が良かったから作品がいいという批評がまったくなされないのはおかしいといわれるが、それは、転倒したいい方だと思う。いまここで、脚本(家)論を展開するつもりはないが、脚本がよければ、必ずいい作品に仕上がるかといえば、そうではないからだ。脚本は、やはり活字の世界であって、映像の世界とは違うのだ。わたし(たち)は、『沓掛時次郎 遊俠一匹』を活字(論理)として見たわけではない。映像(情感)として見ているのだ。鈴木尚之は、インテリかもしれないが、加藤泰のような庶民ではないということが、批判発言の中に潜在していたと思う。
 そういう意味でいえば、加藤泰は孤独な映画監督だった。だからこそ、「情感しかない男だ」といい切れるのかもしれないし、そこに、わたし(たち)は、率直に共感できたからこそ、いまだに、加藤泰映画を切実なものとして受け止め続けているのだ。

(『図書新聞』14.1.25号)

|

« 辺銀早苗 企画編集『村木源次郎資料集』           (B企画刊・13.11.1) | トップページ | 映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』考               ―――山田勇男の〈夢〉が彷徨する先は »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 辺銀早苗 企画編集『村木源次郎資料集』           (B企画刊・13.11.1) | トップページ | 映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』考               ―――山田勇男の〈夢〉が彷徨する先は »