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2013年10月26日 (土)

野崎六助 著『異端論争の彼方へ―埴谷雄高・花田清輝・吉本隆明とその時代』(インパクト出版会刊・13.9.20)

 異端論争という捉え方に、やや逡巡しながらも、副題にある埴谷雄高・花田清輝・吉本隆明という存在へ視線を射し込もうとする著者の意図はなにかということに、まず真っ先に、関心を惹かれたといっていい。かつては、わたしも、政治と文学論争、花田―吉本論争、埴谷―吉本論争(もちろん、リアルタイムで望見している)に、自らの思いを重ねながら、接近していったことがあったが、すでに、そのことへの思考の回帰は起きることはない。だから、本書を前にして、なぜ、いま、三人の思想家たちを並べて、その相貌を解析していくのだろうかという思いで、本書を読み進めていったことになる。
 著者は、埴谷・花田・吉本らの論争をほぼ時系列(戦前期から八十年代中葉まで時間の幅をたてている)で対象化しながら、そこでは、埴谷の『死靈』の解読とともに埴谷のレーニン観を横断させていく。そして、「〈帝国〉はけっして滅びない」と題した最終章において、それらの時間性を〈現在〉へと繋げていくことで、〈現在〉をあらたなに生成させるべく通路を見定めていこうとしているのだ。
 著者の論争への解析に対するわたし自身の言及は、省くとして、ただ、埴谷―吉本論争における次のような箇所にだけ触れておきたい。
 「吉本の位置は、そこで、ハイパー資本主義の広告塔というところに落ち着いた。要するに、本書の『正統と異端』というテーマは、そのあたりに墜落していったわけだ。(略)資本主義は絶え間なく資本主義を乗り超えつづけていくだろう。勝利する対象は資本主義それ自体だ。これは論理矛盾ではない。(略)資本主義は、墓掘り人をも、自身を進化させる歯車として組み入れ、発展持続する巨大なキャパシティを実現した。――それを資本主義のユートピアとみるのか、変わらぬ資本主義の地獄とみるのか。」
 考えてみれば、埴谷―吉本論争以後、数年してバブル景気というものがやってくる。だが、それも九十年代前半で失墜、わたしたちは、以後「変わらぬ資本主義の地獄」を見つづけることになる。しかし、資本主義という怪物は、グローバリゼーションというあらたな幻想のユートピアを拡散させて生成した。
 「グローバリゼーションは、世界を一つのものとして考える。ワン・ワールド、一元化支配の構図だ。(略)ほぼ二〇年を通過し、ますます堅固な統治システムをつくりあげつづけている。『この世界の外に出る』ことは出来ないかのように……。経済、政治、技術、文化、情報、犯罪。あらゆるものが国家を超えて、グローバリゼーションの『支配下』に組みこまれている。それでも国民国家は存在し、国民を制度、法律、ナショナリズム幻想などによって繋ぎとめようとする抑止力を行使する。グローバル・エコノミー、グローバル・カルチャーの影響は、われわれの思考に莫大なバイアスをかけつづけている。」
 確かにそうなのだ。ありとあらゆるものの動態が、見えざるコントローラーによって駆使されていることになる。そして、潜在している難題を、「単一の問題(イッシュー)に還元することによって、結果的には判断保留する。つまり、何もしない」のだ。だからこそ、わたしたちは、そのことに気づいていかなければならない。
 著者は、こうして、最後に、「レーニン・イン・ビカミング」といい、「後段の『ビカミング』に」、「人間はいかにして人間になる(ビカム)のか」という思いを込めて本書を閉じている。なぜ、レーニンなのか、埴谷におけるレーニンの問題は、結局、最後までアナキズムと切り離せなかったはずだと考えるわたしにとって、いくらか、「レーニン・イン・ビカミング」といういい方に対して抵抗感を覚えながらも、そもそも、埴谷の、あるいは論争の切開への基点として、「自己(ゼルプスト)」をめぐる問題とした著者の考えに、わたしもまた同意するからこそ、グローバリゼーションが、国家や国民を呑み込んでいくならば、一人一人が、立っていくことについて、つまり、「自己の究明」によって、「人間はいかにして人間になる(ビカム)のか」という地平へと希求する契機を獲得できるのではないかと、わたしなら思いたい。

(『図書新聞』13.11.2号)

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