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2013年4月26日 (金)

石渡博明 著                                   『いのちの思想家安藤昌益――人と思想と、秋田の風土』(自然食通信社刊・12.11.15)

 わたしは、安藤昌益に長年、関心を抱き続けながらも、なかなか、その著作世界へとわけいっていくことができないでいた。だが、前著『安藤昌益の世界』(07年・草思社刊)に接し、著者に誘(いざな)われるようにして昌益の思想世界の豊饒さを感受することができたといっていい。寺尾五郎以後、最高の昌益思想の導き手に出会ったというのが、その時の率直な思いだった。それから、五年余り経って、本書を前にして思うことは、著者ほど、昌益を深く理解し、信を寄せる読み手はいないだろうということだ。
 わたしの、安藤昌益への入り口は、そもそも「農本的無政府主義」(石川三四郎)や、東洋的アナーキズムといった位相からであった。もちろん、本書を読み終えても、そのことを訂正することはないのだが、著者も述べているように、わたしもまた、3.11以後のことを思えば、江戸中期の時代に安藤昌益が放った世界が、実に新鮮に、普遍性を帯びて現在においても屹立したものを包有しているということが明確になったということになる。
 わたし自身が、拘っている概念でいえば、農本(主義)的、東洋的(アジア的)ということを、反文明や反進歩・反近代といったことを、安直に象徴させたいわけではない。むしろ、人間が対自然との克服過程によって築き上げてきた科学や文明の水位といったことが、砂上の楼閣に過ぎないのではないかということを、まず疑うことからしか、人間(命あるものすべて)と自然との関係は構築できないのではないかと思っているからである。そのことによって、わたしたちの共同性全般に渡る難題は、少しずつでも、見通せることができるはずだという淡い希望があることを否定しないつもりだ。
 昌益が提示する「自然」の概念を、著者は、次のように読み解いていく。
 「昌益のいう『自然』とは、現代語の自然とほぼ同じように、人為によらずに存在するもの全て、天地宇宙の間に存在するありとあらゆるもの、森羅万象を射す言葉です。しかも、『自(ひと)り然(す)る』『自(われ)と然(す)る』『自(わ)が然(す)る』とも読まれるように、単なる物質存在ではなく、同時にその運動性・生命性が強調されている点に特徴があります。」「『自然』の語と表裏一体のものとして、昌益の思想を最も特徴づける言葉に『直耕(ちょっこう)』という用語があります。(略)『直耕』は単に農民の生産労働に限りません。宇宙の根源的実在である『活真』が天地宇宙を生み出し、その存在を日々維持しているのは『活真の直耕』によるものであり、天地宇宙が『転々』として運回し、四季を巡らせ万物を生み育てているのは『転定(天地)の直耕』だというのです。」
 わたしは、かつて生命あるもの、あるいはすべての生命態というものは循環するものだということを、発生学者・三木成夫から学んだ。その衝撃は、いまでも忘れない。前著で著書によって読み解かれた昌益の世界に接して、同じような感慨持ったことを覚えている。ここでは、「人為によらずに存在するもの」といういい方を著者がしていることに着目してみたい。わたしなりに、「人為」の意味を措定してみるならば、あらゆる生命を統治しようとする力とでもいえばいいだろうか。昌益は優れた医者だったという。だが、昌益時代に比べれば、想像を絶する進化を遂げてきた医療技術というものは、臓器移植や延命治療に象徴化させていえば、実は、いつのまにか人間の生命をコントロールするためにあるかのようになっているといわざるをえない。M・フーコーふうにいうならば、生命倫理の問題ということになる。もちろん、それは医療技術だけの問題ではない。原子力技術や遺伝子工学といったものに対しても、現在、わたしたちの疑念は確実に拡大しつつあるはずだ。わたしは、科学や様々な技術革新によって、生活水位が向上したことを安直に否定したいわけではない。リスクをともなった、やみくもな進歩は、「自然」に反することだという矜持だけは持ちたいと思っているだけなのだ。だから3.11は、自然からのひとつの警告だと考えるべきかもしれない。
 「昌益にとって最も人間らしい人間、人間らしい姿とは、自然の万物生成活動と軌を一にした、農民の姿」であると、著者はいう。もちろん、農民というのは、いまや、ひとつのメタファーとしての存在性であるから、わたしたちは、これからありうべき像(イメージ)を、作り上げていくべきである。
 昌益が理想としていた「『自然の世』とは、支配者・搾取者がおらず、人々が自然と一体となって農耕を軸に、皆一様にその土地土地に適した生産労働(農業・林業や水産業)にたずさわり、貧富の差がない、平和で平等な社会」という、いうなれば共同性のイメージを、イノセントなものとして、250年後のわたしたちは、引き受けていかなければならないと、わたしなら思う。

(『図書新聞』13.5.4号)


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