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2013年3月22日 (金)

つげ義春・原作、山田勇男・監督                     『つげ義春の蒸発旅日記 ディレクターズカット版【DVD】』  (ワイズ出版発売・ベンテンエンタテイメント販売・12.11.16)

 つげ義春が『夜行 No.10』(81年6月刊)に発表したエッセイ「蒸発旅日記」を基層にして、漫画作品「初茸狩り」や「西部田村事件」などの挿話を織り込んで、寺山修司作品の美術担当でもあった山田勇男が監督した作品(公開は、03年7月。05年8月、初DVD化)のディレクターズカット版である。特典映像として、つげ義春の撮影現場訪問が付されている。 
 映画は主人公・津部を演じる銀座吟八の抑制された演技、ストリッパー役の藤繭ゑの際立ったエロス性、津部が結婚しようと会いに行った看護婦役の秋桜子の存在性、それらが響音しあうかのように、中心となる人物たちが、夢のような世界をリアリティ溢れる存在として活写されていく。
 わたしは、公開時に劇場で見ただけで、その後のDVD映像も見ていなかったので、じつに十年近い空白の時間をもって再見したことになる。映画というものは、不思議なもので、最初見たとき印象深いと思われる場面も、再見時になにも感じないことがあるし、逆に、なにか冗満だなとおもわれるカットが、深い意味合いをもって迫ってくるということがある。本作において、たびたび水面が揺れるカットが挿入されている。それが、今回、DVD作品では、彷徨(蒸発)する主人公(津部)の心象を効果的に表していると率直に感じることができたのだ。たぶん、カメラのフォーカスが揺れる雰囲気を繊細に捉えているからだと思う。このことは、全編を貫いている基調だといっていい。監督の山田勇男は、清順映画の美術監督・木村威夫の色調を見事に映像美として展開していく。ただし、それが、どこか抑制気味に描出されることによって、ポエジーのようなものが滲み出ているといえるのだ。わたしの勝手な憶測を述べるならば、そもそも、山田がつげ義春という表現者に仮託しているものは、映像詩的世界ではないかという気がする。
 「映画の津部さんは、つげさんだとぼくは思っていますからね。そして、津部さんであるつげさんは、わたし自身も投影しているんです」(『幻燈 No.4』02年10月刊)と、山田はインタビューで答えている。これまで、山田以外、竹中直人、石井輝男、山下敦弘らの監督によってつげ義春の原作は映画化されているが、確かに、山田が語るように、つげ義春―映画の主人公―監督という連繋を辿ることができるのは、この『蒸発旅日記』以外ないといえるかもしれない。
 「わたしが今までつくってきた映画の方向性というのは夢の感覚のリアリティみたいなものですから」とも前出のインタビューで山田は述べている。一見、矛盾するかのような「夢の感覚」と「リアリティ」という言葉の繋がりは、まさしく、つげ義春の一連の「夢作品」にも通底するいい方だと思う。「リアリティ」が「現実」と直訳するような地平からは、つげの「夢作品」を理解することはできないとわたしなら考える。じつは、「夢」と「リアリティ」が表裏のものであることを知ることによって、わたしたちは、はじめて存在していることの「感覚」を掴むことができるからだ。それは、この映画作品が、彷徨していく主人公像を極めてリアリティある場所(鄙から都会へと空間性は拡張していく)に象徴化させていることで、切実な示唆を包有することに繋がっていく。つまり、こういうことだ。十年というこの間の時間性は、ますますわたしたちを彷徨える存在として強いてきたことを、この映画がいま、暗喩していると見做すことができるのだと。

(『図書新聞』13.3.30号)

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