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2013年10月27日 (日)

【書評】生命という思想・共同性という自然――石渡博明 著『いのちの思想家安藤昌益――人と思想と、秋田の風土』・石渡他編著『現代を生きる安藤昌益』

 石渡博明は、自身の新著の表題に、「いのちの思想家」と冠している。これは、安藤昌益へのアプローチのひとつとして、極めて明確な視座だと思う。

 「(略)『知られざる思想家』安藤昌益を、私はこの間、『いのちの思想家』と呼びならわしてきました。/昌益は、いのちを支える食料生産者である農民の子として生まれ、いのちを預かる医師として生涯、いのちを見つめ、いのちを考えぬいた思想家です。昌益思想の根幹とも言える『自(ひと)り然(す)る自然』とは、この宇宙の全存在をいのちあるもの、有機的連関のもとに自己代謝しつつある一大生命体と見なした表現ですし、『直(てずか)ら耕す直耕』とは、そうしたいのちの営みを擬人化・主体化した、農民の代弁者・昌益ならではの力強い表現です。」(『いのちの思想家 安藤昌益』・2~3P)

 「宇宙の全存在をいのちあるもの」として、「一大生命体と見なした」昌益という存在並びにその思考世界は、現在においても依然、際立った光彩を放っているというべきである。ただし、誤解のないようにいえば、ここでいう「いのち」を、わたしは、道徳性や規範的な意味あいを内包するような倫理的位相へは、押し込めるつもりはない。道徳や規範は、昌益の思想的な根源と、最も遠い場所にあるものだといえるからだ。わたしが、考える昌益の「いのち」への思考は、空間的にいえば、「宇宙の全存在」であり、時間的には、生命以前の未生世界へ遡及しうるものである。もっと直載にいってもいいかもしれない。初源の生命、あるいは始原の生命へと、思考の方位があるからこそ、そこに「生命という思想」が立ち上がってくるのだと。
 同じことが、昌益が提示する「自然」という概念にも、いえるはずだ。個のイメージから共同性へ至る拡がりのなかに、「自然」というものが、想起されているといっていい気がする。

 「昌益のいう『自然』とは、現代語の自然とほぼ同じように、人為によらずに存在するもの全て、天地宇宙の間に存在するありとあらゆるもの、森羅万象を射す言葉です。しかも、『自(ひと)り然(す)る』『自(われ)と然(す)る』『自(わ)が然(す)る』とも読まれるように、単なる物質存在ではなく、同時にその運動性・生命性が強調されている点に特徴があります。(略)『自然』の語と表裏一体のものとして、昌益の思想を最も特徴づける言葉に『直(ちょっ)耕(こう)』という用語があります。(略)『直耕』は単に農民の生産労働に限りません。宇宙の根源的実在である『活真』が天地宇宙を生み出し、その存在を日々維持しているのは『活真の直耕』によるものであり、天地宇宙が『転々』として運回し、四季を巡らせ万物を生み育てているのは『転(てん)定(ち)(天地)の直耕』だというのです。」(『同前』・98~99P)

 「自(ひと)り然(す)る」から、「自(われ)と然(す)る」へ、そして「自(わ)が然(す)る」に至る時空は、個から共同性へ往還することによって、個がさらなる再生をしていくことが示されているといっていいし、石渡が述べるように、確かにそれらの概念には、「運動性・生命性」が胚胎しているともいえる。それゆえ、昌益の優れた視座は、現在においても、いまだ、切実な提示であると見做していいと、わたしも思っている。
 ところで、わたしたちが、「自然」というものを想起する時、そこには、どんなイメージを抱くことができるだろうかと考えてみる。海、山、川、植物、草花、樹木といった風景としての「自然」は、わたしたち自身の「外部」もしくは、「外界」として存在している。では、「外部」というものがあるなら、わたしたちにとっての「内部」とはなにか。それは、身体性ということになると思うが、人間にとっての「外部」と「内部」としての身体は、ほんらい繋がった関係性にあると考えたのは、発生学者・三木成夫(1925~87)であった。人間もしくは動物の内臓は、「〝植物〟の姿にほかならない」として、「内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されてい」て、「自然のリズムを深く取り込」み、「“小宇宙”」となっていると三木は捉えていき、「宇宙リズムと呼応して波を打つ」ことを「生命の波動」とする。また、「『耕す』というのは、母なる大地の皮膚に手を加えることで、間違って耕すと」、「自然破壊に繋がるのに」、「人間というのは、どうも、自然を“あるがままにしておく”ということに耐えられない性分のよう」(『内臓とこころ』82年刊)だと述べている。
 「生命の波動」、「宇宙リズムと呼応」といったことを基層に据えれば、昌益と三木成夫が思考していく領野には、共通の位相があることに、気づくはずだ。そして、生命をめぐる思考は、個という存在と、個が存在するための共同性としての「自然」との関係を連結させていくことによって、初めてかたちづくられるものなのだ。そして、「自然」という概念は、必然的に拡張され、天然自然といったアプローチから、日常の生活(生存の場所)まで、含まれていくのである。

 「昌益は、天災も人災であると言いました。これはかなり極端な考えですが、いったん傾聴する価値はあります。昌益は、個人の欲望過多による『気』の変調が、身体の病気を引き起こすように、『自然』の本質的な働き(「直耕」)に従わず、その生産物(「食」)の再配分を独占化することで(「不耕貪食」)、社会全体の『気』が変調し、それによって戦争などの人為災害のみならず、飢饉・干ばつなどの自然災害も起こるとしています。(略)わたしたちのケースにあてはめてみると、苦労せず安楽な生活をしたいという、わたしたちのエゴイズムの過剰が、エネルギーを独占的に利用しようとすることで、科学技術や社会システム・経済システムを異常発達させ、またわたしたち自身による生命・生活の質の向上能力を減退させ、それによって放射能災害のみならず、地震・津波などの自然災害に対する復興も遅延させる、といったところでしょうか。」(片岡龍「昌益から考えなおす3.11以後の『自然』と『命』」―『現代に生きる安藤昌益』・40P)

 昌益没後250年、狩野亨吉没後70年という節目に25名の執筆者によって刊行されたこの論集は、「現代(いま)」ということをモチーフに注目すべき論稿が多く収められている。片岡の論稿は、3.11以後、わたしたちが直面した問題を昌益の思想を通して、直載に語られている。人間は、自然との対峙関係のなかでその生命史過程を経てきたといっていい。「科学技術や社会システム・経済システムを異常発達させ」ることによって、生活の位相が上がり、自然との関係を克服し凌駕したと錯誤していく。心ある地質学者の警告を無視して地震列島に原発が次々に造られていく。堤防を作っていけば、多少の津波対策ができると過信し、海岸沿いに集落が形成されていく。そして同じように、パラドキシカルな構造によって冷却水を必要とするために、原発は海岸沿いに建てられ、集落とともにひとつの幻想共同体を成立させてきたといえる。
 人間が自然を支配し、コントロールしたと考えた決定的な錯誤の象徴が自然界の核エネルギーに触手を伸ばしたことだ。つまり、「自然にはまず起こることのない核分裂の連鎖反応を人為的に出現させ、自然界にはほとんど存在しなかったプルトニウムのような猛毒物質を人間の手で作り出すようなことは、本来、人間のキャパシティーを超えることであり許されるべきではないこと」(山本義隆『福島の原発事故をめぐって』01年刊)を、もう一度、熟考すべきなのである。「天災も人災である」ということの定理は、わたしたちが「自然を“あるがままにしておく”ということ」(前出・三木成夫)を放棄した時点で、成り立ってしまったというべきかもしれない。

 「安藤昌益を発掘した狩野亨吉もまた、今では『忘れられた思想家』ではないだろうか。(略)その一方、亨吉を畏友とし、学生時代から没後まで接点があり、名声を高めた人物が夏目漱石である。亨吉と漱石は深い親交を結んでいた。(略)亨吉が『昌益』の情報を漱石に一言も洩らさなかったなどということがあるだろうか。亨吉が安藤昌益の発見者であることを、漱石が知らぬはずはない。(略)狩野は漱石にとってただの友人ではない。小説『吾輩は猫である』『虞美人草』などの登場人物のモデルと目されている。『漱石全集』(岩波書店)の題字は亨吉の筆によるし、(略)友人を代表する漱石への弔辞は亨吉が述べた。(略)男女と書いてひとと読ませる昌益。そして一対のひとの性愛を高らかに称揚する昌益と、男女一対の恋愛感情が必ずしも夫婦制度上におさまらない人間の『明暗』を追求する漱石の文学上のテーマとが交差する。実に興味深いことに、(略)『昌益を代弁する』ほどの亨吉は、性愛の探求にふけりながら独身を通したことである。」(添田善雄「二〇一一~二〇一二 昌益と漱石の暗号」―『同前』・205~209P)

 狩野亨吉と漱石、そして昌益へと向かう視線に、わたしの関心もまた引き寄せられていった。「亨吉が『昌益』の情報を漱石に一言も洩らさなかったなどということがあるだろうか。亨吉が安藤昌益の発見者であることを、漱石が知らぬはずはない」と述べる添田の考えに、まったく同意できる。漱石の小説世界は、明治近代との確執、あるいは暗部を投影している意味において、わたしにとっては、避けて通れない、大きな存在としてあり続けている。

 「漱石、二葉亭、啄木と、この三人が三者三様に描いた典型があるわけですが、この典型には、明治の末年の知識人の本格的な在り方が象徴されて、それにつきているといってもいいとおもいます。そうでなければ、じぶんの実業について、日本の社会が膨張するのとおなじように、じぶんも膨張していくというやり方しかなかったとおもいます。/この三者三様の反発の仕方は、人それぞれだという以外に、あるいは、それぞれの文学者が、それぞれの個性と状況に従って、じふんなりの造形の仕方をしたんだという以外にないので、どれがいいとか悪いとかいうことは少しもありません。この三者三様のなかで、ひとことでいえば、啄木は社会的反発をじぶんの宿命にたいする反発と同意義にかんがえたのだとおもいます。それから、この『それから』(引用者註=1910年1月刊)に象徴される漱石の反発は、いまの言葉でいえば、実存的反発といいましょうか、存在自体としての反発といったらいいんでしょうか、じぶんの内面的な反発も外にたいする反発も一緒に含んだじぶんの存在自体が、この膨張していく社会に反発しているというような生き方の典型を描いたとおもいます。(以下略)」(吉本隆明『夏目漱石を読む』2002年刊)

 明治近代以降というのは、江戸期を徹底的に否定したイデオロギー(天皇制を基層にして、西欧列強に対峙しうる強大国家の確立)を根拠に、「科学技術や社会システム・経済システムを異常発達させ」、膨張していった時代だったといえる。現在の空虚なる有様の端緒となったのが、そもそも明治近代という時空だったことは、自明のことである。添田の漱石と昌益を繋げていく視線は、まさしく卓見ではないのかと思いながら、吉本の漱石論を引いてみれば、より鮮明になったはずだ。

 「生物の『種』とは、ある意味では『生命(いのち)』と同じであると、私は考えています。生命とは、次世代に現世代がもつ特性(形質)をほぼ正確につないでいくものです。/そして、つながっており同時にまた切れているもの、言葉を代えればひとつのものであるが同時にまた区別されるものであることが分からなければ、『種』つまり『生命』を理解することができないとその講演(引用者註=12年4月に開催された日本生物地理学会の年次大会での講演)でお話ししました。『生命(いのち)』とは、このような特性をもつものです。(略)昌益は、“男女”を“ひと”と訓んでいます。(石渡、二〇〇七)。男と女の一組をもってヒトとみる見方を主張しました。これは、生物学者の私にとって、大変大きな驚きです。(略)人類は一つであって総ての個体はつながっていることがわかります。男と女は別の機能をもっているが故に、それが一つになって次世代を産み出すのです。“ヒト”という一つの生命において、区別される二つが未来に生命をつなぐけれども、その二つはいずれひとつの生命そのものであって区別がないのです。」(森中定治「日本のヘーゲル――安藤昌益」―『同前』・252~255P)

 昌益の「男女(ひと)」という概念を、男女平等論に、カテゴライズする見方があるようだが、わたしは、森中のように、生命というかたちから捉えることの方に共感する。ここで指摘されていることで、重要なことは、「区別される二つ」の「生命」が、「いずれひとつの生命」となり「区別がな」くなるということだ。男‐女を人(ひと・ヒト)と見做していくことにより、導かれる論旨ではあるが、多様に拡張して解釈をしていけば、個体と個体の区別・差異も、「〝ヒト〟という一つの生命において」区別が無意味化していくことが、含まれていくと考えられるはずだ。そして、「『種』つまり『生命』」であるならば、「男‐女(ひと・ヒト)」だけではなく、あらゆる「種」に対しても、わたしたちは同様の視線を向けていくべきである。そのとき、初めて、安藤昌益が構想した「生命―自然」という考え方が、リアルなものとなっていくからだ。

 「狩野は、『大思想家』(引用者註=雑誌『内外教育評論』第三号・1908年1月、狩野が匿名で発表した、『大思想家あり』と題した談話記事)で、昌益の『性質は極穏和の方』で、説くところは『人間は一切平等主義のもので、種々の階級とか、君臣など云う者は不自然なもの』として『当時の徳川の世』を批判し、『人間は穀物を食って生活するから、穀物と同様な原子から出来て居る。故に農作に従うが最も自然に協(かな)い、此農作の為には誰でも苟(いやし)くも人間たらば、一様平等に働かねばならぬ』という『農本主義』で、『一種の社会主義、又は無政府主義に類して居る』と見ていた。(略)『大思想家』の紹介記事が出たわずか二週間後、大阪の『日本平民新聞』が『百五十年前の無政府主義者・安藤昌益』と題して昌益の紹介記事を掲載すると、その三年後には大逆事件が引き起こされたのである。大逆事件は、明治政府によって捏造された近代日本最大の冤罪事件とは言え、多くの文学者・思想家がその後、韜晦した生き方を強いられたように、狩野にとっても『無政府主義』という言葉は二度と使うことが憚られるものになってしまったと思われる。」(石渡博明「狩野亨吉の安藤昌益論を再読する」―『同前』・229~230P)

 狩野亨吉(1865~1942)は、添田の論稿にもある通り漱石と親交があった。それだけでも、何か不思議な感じを抱くことになるが、通例の学者像を逸脱するような狩野をめぐる話は様々にある。教職につくも、1907年に京都帝大を辞すると生涯教壇に立つことはなかったし、生涯に一冊の著書も残さなかったという。また、当時の皇太子(昭和天皇)の教育掛に推薦された時、「自分は危険思想を持っている」からといって断ったことや生涯独身を通し、また、春画の蒐集家としても知られている。唯一、皇太子(昭和天皇)の教育掛を断ったところが、安藤昌益を見い出した人物らしい逸話といっていいかもしれない。石渡が述べている、狩野が匿名で発表した「大思想家あり」という談話記事が、初めて昌益を世に知らしめた画期的な文章であった。いきなり、「一種の社会主義、又は無政府主義に類して居る」と述べたことは、狩野らしい率直な表明ということになるのかもしれない。そして、その率直さによって、「紹介記事が出たわずか二週間後、大阪の『日本平民新聞』が『百五十年前の無政府主義者・安藤昌益』と題して昌益の紹介記事を掲載」したことが、何よりも、昌益を強烈に刻印させたことになったはずだ。
 先に引いた添田善雄の論稿の最後の方に、「安藤昌益の存在を、日本に土着した思想家の野太い文脈に据えて捉えるならば、吉本隆明こそ、その文脈につらなる現代の最大の存在ではないか」と述べていたことに対して、わたしは、素直に驚嘆したといっていい。四十年以上にわたって吉本の営為に随伴してきたわたしにとって、考えてもみなかったことを指摘されたと思ったからだ。しかし、よく考えてみれば、わたしが、個と共同性の問題に拘泥してきたのは、吉本の『共同幻想論』を契機としているし、昌益に関して、わたしが考えていく方位も、そのことに繋がる問題である。とすれば、添田の見方は、至極真っ当なことだといえるかもしれない。
わたしの知る限り、次の文章が、吉本にとって、昌益についての比較的長いものだと思う。その一部を引いてみる。

 「『良演哲論』はその『自然真営法』のなかで昌益の思想の根本のところでよくおさえているのではないかと思う。(略)昌益自身が自分の思想の独一自習を主張し、孔子、孟子、老子、荘子などの儒家道家、釈迦の仏教、聖徳太子の日本的発想の神道などすべてを全否定しているので、その理念を表現するために使っている根本概念は類例を見つけられないため、理解が困難であると思う。(略)聖人君子たちの思想が全否定に値するほど駄目だと考えられるとして、駄目でない思想があるとすれば聖人君子の出現より以前に存在した、より未分化な思想でなければならなかった。云いかえれば、安藤昌益の思想の根本は、現在でいえば思想の考古学ともいうべきものであったと思える。/『良中曰ク』のなかでわたしにもっとも感銘を与えたのは、儒、仏、神の始祖たる、いいかえればインドと中国と日本の東洋思想が駄目なのは、明をとり暗を捨てとか、善をとり悪を捨てとか、本来宇宙的な互性的であるものを、明善、明徳を倫理の起源としてしまったのは偏惑であると断定している点だった。そして宇宙的自然の原則を、『活真』『互性』『転』『回』『転定』などの少数の造語によって、日、月、星から人間一物の動きと交替変位などを説いたことは、独断でもあったろうが、ほとんど弧断と言っていい概念を伴って、自分は確定して動じなかった。」(吉本隆明『思想のアンソロジー』・07年1月刊)

 「安藤昌益の思想の根本は、現在でいえば思想の考古学」であるというのは、吉本にとって最大級の賛辞だと思う。M・フーコーに『知の考古学』という著作がある。吉本は、「現存する世界最大の思想家」であったとフーコーを追悼したことは、よく知られているが、そのフーコーの著作を彷彿とさせる「思想の考古学」という捉え方によって、あらたな昌益像の可能性をもたらすはずだと、わたしはいいたいと思う。

※『いのちの思想家安藤昌益―人と思想と、秋田の風土』
自然食通信社・12.11.15刊 四六判 184頁 本体1700円 
※『現代を生きる安藤昌益』
御茶の水書房・12.10.25刊 A5判 298頁 本体2500円

(『アナキズム』第17号-13.11.16)

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