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2013年9月13日 (金)

横田榮一 著                                『カントとアドルノ――自然の人間的歴史と人間の自然史』      (梓出版社・13.4.10)

 アドルノは、よく知られているように、ホルクハイマーとともに、フランクフルト学派の第一世代(他に、フロム、マルクーゼ、ウィットフォーゲル等)にあたる。本書の著者が、前著『ハーバーマス理論の変換』で第二世代のハーバーマスの仕事をテクストにしたわけだから、アドルノを取り上げていくのは、必然的なことだったかもしれない。ただ、本書では、アドルノに対しては、全面的に肯定の視線から論及しているわけではない。つまり、アドルノによるカント批判のなかに、「しっくりこないもの」を取り出し、それを析出していくことによって、「人間的自然の歴史」を浮かび上がらせ、さらには前著のモチーフと連結させて、「新自由主義及び新自由主義的グローバリゼーションがもたらした世界に」、対抗・批判し「別の世界」をつくりだすべく契機をカント哲学(その中心概念、「最高善」)のなかに見い出していく壮大な論稿となっている。
 アドルノのカント批判を、著者は、「近代に発展してきた商品交易と社会的労働の活動圏としての市民社会(略)のうちに位置づけて解釈するとともに、(略)その市民社会の後の発展形態であるシステム社会のうちに位置づけて解釈し、読解している」が、カント哲学における「歴史的位相」とは「異にするものを同一の時間平面上にあるかの如くに扱うという、非歴史性がある」と見做していく。わたしは、フランクフルト学派のいわば、内在的経験として第三帝国との対峙というものが、著者が指摘するところの「非歴史性」を生起させる要因があるように思える。アドルノのアメリカ亡命時代の仕事のなかに、反ユダヤ主義に傾斜していく深層を分析するというものがあったようだが、どのような結論が導き出されたのかは知らないが、そもそもその視線と方法は、いささか屈折しているような気がしてならない。だから、著者に導かれながらアドルノのカント批判に接見するたびに、どうしても、アドルノには屈折感のようなものが覆われていると、わたしには見えてくるのだ。
 「アドルノはカントの理性をあらゆる実質を欠いた人格的統一・英知的性格として捉え、自我の統合の形式遂行を内的自然に対する支配として捉えた。だから、アドルノの見るところ、カントの理性は強い自我であり、これはブルジョワ的な強い自我、強い男に他ならない。カントの定言命法もまた自然支配の文脈で解釈される。すなわち、カントの定言命法もまた規範に変換された自然支配の原理であり、こうしてアドルノの目においては、カントの理性、理論理性のみならず実践理性ももっぱら自然支配的理性とされる。」
 著者も指摘していることだが、カントが提示する人類(あるいは人間)の歴史というものには、自然を支配するという概念は含まれていない。例えば、「自然は人間に自由と理性を与えたのであり、(略)人間は自然の素質にしたがってすごす粗野な状態から自力で脱出すべきであるが、みずからを改善する過程において、自然の素質を傷つけることのないように注意すべきなのである」(「人類の歴史の憶測的起源」・中山元訳)と述べるなかから、「ブルジョワ的な強い自我」とか、「自然支配的理性」を抽出することは困難なのは明白だ。著者は、「アドルノのカント解釈は私には極めて強圧的であるように見える。アドルノはカント哲学にそぐわない枠組みから、その枠組み内でカント哲学を構成してしまっている」とまで断じている。著者は、こうして、アドルノが提示するカント的自然史概念の「書き換え」による自然という概念、あるいは自然史という概念に対して、否定的な分析を加えつつ、さらなる思考の展開を試みながら、カントにおける「自然の人間的歴史の構想」を開示していこうとしていく。そして、「自然の人間的歴史において根本は人間の生(生命―生活)である」として、次のように結語している。
 「新自由主義及び新自由主義的グローバリゼーションは、今日、人間の自然史の現代的形態として現れ、そこでは、多くの諸個人が目的自体としてではなく、単なる物体として扱われ、世界福祉の条件が貧困化していくという、カントが語る最高善の解体・破壊が臆面もなく進行している。現状に対して、『別の世界は可能だ』を標語とする世界市民的公共性の運動は、私見では、カントの最高善を、すなわち世界のある状態を現状とは別の世界として産出する運動である。」
 カント哲学を、現在、わたしたちの言語コミュニケーションで流通している理性や自由、善といった概念と同一化して捉えてはならない。アドルノと同じ陥穽に入るだけだ。ダーウィンの進化論が出される以前に、自然史と人間の歴史を包括する視線を湛えていたことに、わたしたちは、まず、驚嘆すべきである。そのうえで、著者が述べていく、新自由主義及び新自由主義的グローバリゼーション(「アベノミクス」やTPPもまた、そのなかに含まれていく発想だ)のさらなる拡散に対し、どこかで歯止めをかけなければならないのは確かである。なぜなら、「別の世界は可能だ」と思考していくことの切実さを、わたしたちは忘れてはならないからだ。

(『図書新聞』13.9.21号)

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2013年9月 7日 (土)

つげ忠男・菅野修・山田勇男・うらたじゅん他著『幻 燈 13』(北冬書房刊・13.6.15)

 漫画・劇画作品のアンソロジー集『幻燈』の最新刊である。つげ忠男の新作を見ることができる唯一の漫画集だといっていい。「変転」と題された、待望のつげ忠男の作品に対して、わたしは、なかなか思うような言葉を紡ぎだせないでいる。物語を素描しても、この作品をうまく捉えたことにはならないと思うからだ。それでも、作品の深層に届かせるべく、あえて言葉を取り出して見るならば、四十七歳になる鬼多川淳という三人の男の転位した物語ということになる。「変転」というならば、それはある種の連続性を孕んでいく。わたしが、「転位」としたのは、そこには、連続性と断続性が混在した状態で作品化されているということを意味している。住まいのある場所から四駅ほど先にある銀行の支店長に昇進が決まった、家族四人の父親であり夫である鬼多川淳。マグロ獲りを競いあい、糊口を凌ぎながらも、はるか年下の女性と同棲して、毎日、食事の支度をする男・鬼多川淳。人前で殴られた腹いせに、仕返しに来た若者に刺されて死ぬ、ヤクザを生業としている鬼多川淳。そこには、それぞれ違う造型が描かれているのかといえば、そうではないと思う。起点として描かれている、最も二人の像とはかけ離れていると見做されやすい銀行員の鬼多川淳のなかにも、どこか、非定住性の資質が漂っていると思われるからだ。
 うらたじゅんの「中之島の図書館で」は、橋本、松井という日本維新の会の主導者たちが、府立中之島図書館(建物は、周知のように重文に指定されている)の廃館に向けて動き出したことに対しての抗議を含めて書かれた作品であるが、巧みに“戦争”の記憶を挟みこんでいくところに、うらたならではの力業がある。
 映画監督・山田勇男の漫画作品「午前三時に蠟燭の火が蒼ざめる」は、詩情溢れる世界を描出している。ところで、山田の十年ぶりとなる新作映画が近々、公開される。大正ギロチン社の若きテロリストたちを描く『シュトルム・ウント・ドランクッ』だ。期待したい。
 斎藤種魚の作品は、つげ義春の「無能の人」を連想させる「無農薬の人」と題した、12コマによる十四篇の連作である。妻に愛想をつかされ、妻が残していった場所で細々と野菜を作っていく男の物語だ。「人と自然にやさしい無農薬とか有機栽培といったって、あれだよ。結局自然の大地をないがしろにしてるんだよね」と無農薬の人に呟かせている。
 他に、菅野修「90度の足を持つ女」、おんちみどり「階段町かるた」、甲野酉「眩ます」、藤宮史「或る押入れ頭男の話・アーケード街」、木下竜一「ラジオ電波」「元同僚」、うらたじゅん「ポンタのこと」も角南誠「海の日」、小林坩堝の散文詩「風船おじさん」、高野慎三、権藤晋のエッセイ二編が収められている。

(『図書新聞』13.9.14号)

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