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2013年4月 5日 (金)

暮尾 淳 著『詩集 地球(jidama)の上で』                  (青娥書房刊・13.2.13)

 詩の他に俳句・エッセイを収めた『ぼつぼつぼちら』(05.10刊)以来、七年ぶりの詩集ということになるが、昨年、句集『宿借り』(12.5刊)を刊行しているから、幾らか空白感は埋められている。ただし、わたしは、この間、本詩集に収められている大半の詩篇は、初出誌(「騒」や「小樽詩話会」)で読んでいる。当然のことかもしれないが、いまこうして、ひとつに纏められてみると、初見時と印象が、かなり違って感じられることに驚く。
 例えば、「愚かなるアバンチュール」に、「ほろ酔いの彼女を/そこだけ暗い地下鉄駅の入り口まで送り/さようならと後ろを向いたジーパンの/お尻を思わず撫でてしまったのだが/彼女は振り向きもせず階段を降りて行き」という箇所があり、思わず暮尾淳タッチとでもいえる情景に惹かれてしまったことを覚えている。だが、最終連は、「そんな愚かなアバンチュールも/豚インフルエンザもテロも/素知らぬ顔して乗せて/いまも回っている地球に/飲み残し本醸造の/しぼりたて『ダダ』で乾杯。」(“ダダ”という銘柄の酒が、限定発売で、本当にあったのだ)となっていて、鳥瞰視線とでもいう他はない、独特の角度を射し仕入れていることに気づかざるをえない。この鳥瞰視線から見えるものは、地球(詩集名の地球に“jidama”と付したのは、鮮烈だ)の上に住まう人々であり、自分を取り囲む人たちや出来事であり、ついには、自分自身である。ではなぜ、暮尾は鳥瞰視線から、自分を見ようとするのだろうか。一見すると自己を相対化するといったことを想起しがちになるが、そうではない。鳥瞰視線によって見えるもう一つの像というものがあるのだ。それは、生者とともにあるはずの死者たちの像である。「日常性を撃つなどという詩的野心は、もうわたしにはない」(「あとがき」)と暮尾はいう。確かに、そうかもしれない。しかし、日常性というものは、撃つべきものではない、イノセントに受け入れるものなのだと、わたしなら、いいたい気がする。そのことを一番知っているのは、他ならない詩人・暮尾淳のはずなのに、敢えてそのようにいうところが、暮尾タッチなのだと、わたしは思う。
 「マレンコフが死んだと/居酒屋で聞いたが/スターリン時代の/ソビエトの首相ではなく/カラオケの世になっても/新宿の古いバーを回っていた/それが通称の/流しのギター弾きで」「飲んで話してみれば/家族には自殺者のいる人間なんて/ごろごろしていて/要するにおれは/単なる酒好きで」「マレンコフと同じ肝臓病みだけれど/それでもさいきんは/深酒には気をつけているんだぜ。」(「マレンコフ」)
 ソ連の最高指導者にありながら、フルシチョフに追放され、その後、不遇の晩年を過ごし、86歳で死んだマレンコフに似ているとして、その名をつけられた流しのギター弾きの死は、詩人・暮尾淳にとって、日常のなかのひとつの死である。それは同時に、暮尾にとっては、もうひとつの死と、さらにもうひとつの死をも喚起させるものなのだ。
 「自分の意思や善意とはかかわりなく/ただたまたま存在していたというだけのことが/ひとに害をもたらしてしまう/その生の理不尽に/ひそかにおれはおたんこなすと呟き/(略)/蕎麦屋で安い昼酒を飲んだ。」(「おたんこなす」)
 「酔って部屋に帰り/送られてきた本をぱらぱらとめくると/出口のない暗澹たるこの時代を撃つには/棍棒のような思想が必要だとあり/しかしおれにはそんな物騒な/棍棒なんて/もちろん利口棒ももう要らないよ。」(「利口棒の唄」)
 「単なる酒好き」で、「蕎麦屋で安い昼酒を飲ん」で、「酔って部屋に帰り」、地球(jidama)の上のことを想う、そんな暮尾淳の詩世界を、これまでわたしは、同じように酔い続けてきたように思う。「生の理不尽」さに気づくことは、死者を想うことから由来する。わたしたちは、時として、死(者)のことを忘れ、生(者)へと執着し、出口の見えない暗澹たる世界を彷徨することになるのだ。あるいは、こうともいえる。棍棒のような思想が瀰漫しているから、死(者)を貶めて、生(者)を優先させる。それは、地球(jidama)ではなく、地球(chikyu)からの視線(水平的な視線といいかえてもいい)だからだ。もちろん、わたしは、そんなことを、暮尾淳がこの詩集で表出しているなどと、訳知り顔で解説したいのではない。少なくとも、無意識のなかで、「棍棒のような思想」を希求してみたり、「ただたまたま存在していたというだけのことが/ひとに害をもたらしてしまう」ことを忘失してしまう自分がいることを、暮尾淳の詩世界によって気づかされたということだ。
 まだまだ、酩酊が足りないのだ。しかし、「深酒には気をつけているんだぜ」という言葉を、かみしめながらも、結局、わたしは、これからも暮尾淳の詩世界に酔い続けていくほかはなさそうだ。

(『図書新聞』13.4.13号)

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