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2012年2月 4日 (土)

渡辺京二 著『未踏の野を過ぎて』(弦書房刊・11.11.25)

 このところ、渡辺京二は八十歳を超えながらも、『黒船前夜』(10年刊、大佛次郎賞受賞)以降、『渡辺京二コレクション』(全二巻)、『渡辺京二傑作選』(全三巻)をはさみながら、共著も含め三冊の新著というように著作の刊行が続いている。本書はそのなかの一著であるが、「主として世相を論じた文章を集めた」(「あとがきに替えて」)ものとなっている。3.11以後の世相に斬り込んだ書下ろし論稿を巻頭に配置し、79年から11年までに発表された文章で構成されている。およそ、渡辺京二にあって精力的な著作活動などという形容は不似合いなのだが、七十年代、わたしなども含め、熱烈な共感を表明した時期と照応させてみる時、なにがしかの感慨を抑えられずにはいられない。わたしたちもまた、それなりに年齢を重ね、世情・世相もそれなりに変容してきたことを考えてみれば、情況と相渉ることの困難さは、身に沁みてわかるつもりだ。しかし、渡辺の視線は、厳しく、一貫して揺るぎないものとしてある。
 「人間は本来、肩書きのない一個の生きものなのである。それぞれに肩書きがついて、それによって自分が何者かであるかに思いこむのは、人間社会という仕組みに組みこまざるをえないことからくる仮象であり、錯覚なのだ。老後とはその錯覚からさめるときである。(略)威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすればよく、その妨げとなるものは振り捨てればよい。自分が自分であるとは、何が自分にとってほんとうによろこびなのか、見極めがつくということだ。かくて、生きる方針はシンプルになる。格好をつける要はなく、ただ自分を正直にさらせばよいのだから。」(「老いとは自分になれるということだ」)
 「人間社会という仕組みに組みこまざるをえない」とは、かつて、「人間の共同社会があい争う利害の体系であり、その体系は契約による権利と義務により実体化され、その利害対立を判決するのは一種のゲームのルールとしての成文法であ」(「近代天皇制の神話」―『小さきものの死』所収)ったと述べていたことに通底する。「肩書きのない一個の生きもの」である限り、当然のことながら、「威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすれば」いいということになる。ともすれば、「肩書き」によって自分を表明することに比べれば、ただ「自分が自分である」ことを表明することは、大きな懸隔があり、至難に満ちているように思い勝ちかもしれない。だが、「肩書き」もまた、虚飾であり、「仮象」である以上、結局は、「自分が自分である」ことを露出していくことでしか、わたしたちの「生」は、持続せざるをえないのは自明なことなのだ。勿論、このことは、若年世代であっても、同じことだとわたしなら、付加しておきたい。
 「考えあって、私は天下国家について論じることを避けた。かわりに、街路樹や、いまの人間の表情やもの言いについて書いた。天下国家に関することよりも、その方がもっと本質的であり大事だと思うからである。このことをもって私が韜晦したり、しんどい論題を避けたりしたと思ったら大間違いだ。旧態依然たる思考枠で、左翼くずれ的情勢論を垂れ流している連中こそ犯罪的なのだ。木々が切り倒され、人びとの表情や言葉が劣性化していることは、まさにわれわれが対峙すべき時代の本質なのである。」(「未踏の野を過ぎて」)
 たぶん、渡辺は、わたしたちのような、六十年代末に生起した対抗的な運動の担い手たちに独特の視線を射し入れているはずだ。「左翼くずれ」という叙述にそのことが表れているし、次のような批判的言辞にもいえる。
 「全共闘という変種も含めて、戦後左翼の言説が八〇年代に入って失効し、影をひそめるにいたった経緯はみなさまよくご存知の通りだ。(略)戦後左翼とは、敗戦以前の日本の単純な全否定、自由・平等、民主という近代的強迫観念のやみくもな神聖化、国家・支配・権力に対する反感という点で、戦後市民主義のラジカルな一形態に過ぎない。」(「同前」)
 辛口であることは、ある種の心地よさを誘うものだ。だが、全共闘運動が左翼運動であったかというと、厳密な意味でいえば、そうではないといいたい気がする。つまり、「敗戦以前の日本の単純な全否定」をする戦後左翼とは、一線を画していたと思う。むしろ、戦後過程そのものが、戦前を隠蔽する欺瞞に満ちたものだったという捉え方をしていたと声高にいっておきたい。このことだけは、渡辺に誤解して欲しくないところだ。ましてや、「街路樹や、いまの人間の表情やもの言い」の方が、「天下国家に関することより」は、はるかに「本質的であり大事だと思う」のは、仮に「全共闘くずれ」や「左翼くずれ」であったとしても、同じ思いを抱いているはずだ。わたしたちも、六十代を超え、昔風にいえば間違いなく老後の段階へと入っているのだから。

(『図書新聞』12.2.11号)

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