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2012年11月30日 (金)

【一句観賞】和田久太郎「もろもろの悩みも消ゆる雪の風」

 大正十二(1923)年九月、関東大震災のさなか無政府主義者・大杉栄が妻・野枝、甥・橘宗一少年とともに虐殺される。大杉夫妻、近藤憲二、村木源次郎らと共に興した労働運動社に参画していた和田久太郎(1893~1928)は、村木、古田大次郎、中浜哲らと大杉の復讐計画をたて、震災当時、戒厳令司令官だった福田雅太郎が大杉虐殺の指示をしたとして、翌年、和田は単独で福田を狙撃するも果たせず逮捕される。判決は、無期懲役。収監先は市ヶ谷から秋田刑務所へと移送される。
 和田は、明石の生まれ、十二歳で大阪へ出て、丁稚奉公をする。十三歳の時、「俳句を学び初めて錦江と号」した。十六歳の時に「俳句の熱いよいよ上り」、「号を酔蜂と改め、もっぱら碧悟桐に心酔」(以上、自作略歴)していく。
 その頃の作品に、「初蟬や草の匂ひに木の匂ひ」、「恐ろしき浪の音聞く炬燵かな」、「俺が脂も浸めよと銅貨握りたる」などがある。やがて、社会主義運動とともに、俳句から離れるが、「入獄してから、たいくつまぎれに俳句を作って見ると、また面白味が湧いて来た。このごろは、鉄窓のおかげと見えて平凡な句が嬉しい」(「碧雲暗雲」)として、俳句や短歌を精力的に作り始める。
 「愕然と夢の醒むれば大蛾かな」、「さらば鳩よ朝寒顔をこちらむけ」、「死に別れ生き別れつゝ飛ぶ雁かな」。
 掲句は、作品的には、秀でたものではないかもしれない。だが、わたしには、「雪の風」という表現に、いいようのない愛おしさを感じてならない。和田は、昭和三年二月二十日、秋田刑務所で、この句を残して自死した。

(句紙「夜河」第拾七號・12.12.1)

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2012年11月27日 (火)

水野真由美 著『小さな神へ 未明の詩学』             (上武印刷刊・12.6.15)

 水野真由美、渾身の評論集の頁を括っていくと、「『現代俳句』の曖昧さから、『戦後俳句』を引き寄せてきたが、もはや『戦後小説』も『戦後詩』も、すでに拡散している。俳句も同様であろう」(「問いつづけるために」)という文章に出会う。いまから、十九年前に発表されたものだ。わたし自身も、「戦後」という時空性に長い間拘泥してきたから、水野が示す、「戦後」に、直ぐ感応してしまったことになる。水野は、この文章の後、続けて次のように記述していく。
 「しかし『戦後文学』が、存在しなかったのでも、無意味になったのでもない。/島尾敏雄は戦後について『平和の中の主戦場』という言い方をしたが戦後俳句は『死者の記憶を担っ』て、どう転戦してきたのか。/思想としては、すでに、人間の思考の歴史を考える枠組みの、その基層の相対化さえ用意されているのだろうが、できることならせめて、わずか数十年の俳句史を捉える枠組みを作品の中から自分なりに見いだしてゆきたい。」(「同前」)
 「戦後文学」という見立てのなかで、「戦後俳句」という捉え方をしてこなかったわたしは、水野のこのような考え方に羨望を抱いた。確かに、例えば、50年に出された高柳重信の『蕗子』は、間違いなく戦時下から戦後にかけての時空性を孕んでいる。だが、「戦後俳句」という認識ではなく、「戦後詩」としてわたしは、見做していたのだが、それは、わたしの偏狭な見方だったと、いま自省している。ところで、しばしば「戦後」というものは、「戦後民主主義」といった括り方や「平和憲法」といういい方に象徴されるように、屈折のない解放感と連結してしまうことがある。そのような疑似的なものに対し、わたしは、戦後的迷宮とでも呼びたい思いを抑えることができないでいる。たぶん、水野にもそのような感慨があるに違いないはずだと、一方的に考えながら「小さな神へ」と命名された評論集を読み進めていった。
 水野は、岩片仁次の句集『死者の書』を、「第二次世界大戦以降、システムとしての大量殺戮が存在する世界を一人一人がどう生きるのかと問う、戦後文学として受け取った」(「岩片仁次の世界」)と述べているのだが、これは、水野自身の切実な自己表現に対する強い思いと意志が込められているのは、いうまでもない。自らが、なにかを表現するということは、どう生きているのかということと表裏のものだとわたしは、思う。水野が、ここであえて、「みんなが」や「わたしたちが」ではなく、「一人一人が」としたところに重大な意味が含まれている。「一人一人が」立って、「どう生きるのかと問う」ことで、「システム」というものに対して抗うことが可能となるのだ。はじめから共同性を前提とするのではなく、「一人一人が」在るからこそ、共同性はかたちづくられていくことを、わたしなら、確かなこととしたい。一人ひとりの表現者(小説家や俳人)が、いつの間にか、組織的集団性(商業誌並びに文壇や結社並びに俳壇)に絡め取られる現実をみればいい。それは、戦時下の表現者たちの悲劇と同じ位相を持つといってみたくなる。
 「人はただ生きてるだけでも決してたやすいことではないと知る大人であり、同時に理由のない透きとおった悲しみを秘めた少年であればこそ、無念の死者を忘れず、また志に拘り続け、なおかつ遊び心をも手放そうとしないのだろう。少部数の著作の中に戦後文学としての俳句がある。」(「同前」)
 岩片に対して、最後に、このような文章で結んでいく水野の視線は、熱情的であり、優しさに満ちている。戦後文学というものを考える時、わたしなら、戦争というもの、あるいは戦時下体験をいかに物語のなかへ暗喩として表象させるかということに、共感の水位を見る。声高に反戦を謳うような小説を、戦後文学いや、文学として、わたしは認めたくない。やはり、「ただ生きてる」ことは、「たやすいことではない」という思いや、「理由のない透きとおった悲しみ」を胚胎させた物語にこそ、共感したい。生者(生き残ってしまった者)の側から、死者を思うということは、「一人一人がどう生きるのかと問う」ことからしか、始まらないと思うからだ。
 坂戸淳夫に触れた論稿(「あぢさゐを立ち去る友」)では、句集間の時間性に視線を射し入れながら、作品の奥へと批評の言葉を発していく。「坂戸の紫陽花は暗い」としながら、「あぢさゐ」を織り込んだ作品から、「友の死」、「爆死の友」、「戦死の友」へと詩語を連結させ、ついには、「『立つ』友へと、より具体的に鮮明になっている」地平へと批評の言葉を降り立たせていく。戦後生まれである水野真由美は、ここで、戦時下から戦後という時空間を、現在という場所へと転換させて、自らの言葉と身体で、岩片の、坂戸の思念と同化していく。俳句という作品が、一つの共同性をかたちづくっていくことをこれは、鮮烈に示しているといっていいはずだ。
 「作品は目的であって手段ではない。批評は作品から作品への往還だと思う」(「『女性俳句アンソロジー』から考えること」)と、水野は、「女性俳句」という偏見に対し、言明していく。わたしは、必ずしもジェンダー論に与するものではないが、小説も短詩型も、女性作家ということを意識して作品に接したことはない。自分の共感する作品がまずあって、その後に作者の像を確認することになるだけだ。そこでは、性差は後付けでしかない。鷹女論をめぐる隘路といい、「女流俳人」、「女性俳句」という括り方は、そもそも意味はない。それは、俳句の世界のことだけではない、まさしく文学全体の暗渠ということになる。だから、水野真由美はこれからも、大きな障壁に対して、鮮鋭な批評の言葉を持って向かわざるをえないはずだ。

(『鬣 TATEGAMI 第45号』12.11.20)

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