« 内村剛介 著、陶山郁朗 編集・構成                『内村剛介著作集 第6巻 日本という異郷』            (恵雅堂出版刊・12.3.30) | トップページ | 中川右介 著『山口百恵――赤と青とイミテーション・ゴールドと』(朝日新聞出版刊・12.5.30) »

2012年10月 5日 (金)

佐藤裕史 著『精神現象の宇宙へ               ――〈こころ〉への知的探索の旅[慶応義塾大学講義]』      (金剛出版刊・12.7.30)

 本書は、「二〇一〇年秋から半年間、慶応義塾大学文学部人文社会学科二年生を主な対象とする『人間科学諸領域Ⅰ』」(「おわりに」)の講義を基にして編まれたものだ。精神科医の著者であればこそ、「精神への学際的接近」と副題にして、「『精神』と私たちが総称している多用(ママ)で多彩な精神現象のいろいろな側面に、さまざまな角度から光を当てて、精神現象の多様性をとらえること。そして精神のさまざまな側面に接近し理解を少しでも進める方法やその限界をみてみる。そうした試みを、学際的に、専門領域を横断しておおづかみにしてみること」(「第2講 序論『自己・精神・脳』」、ママ表記は、評者)を目指したものとなっている。著者は、書名にもある通り、本書でしばしば、「こころ」という表現をキ―ワードにして論を展開している。これは、「『こころ』=精神現象」と見做しているからであり、「『こころ』という表現が頻りに使われ」るようになったのは、「脳科学なるもので取り沙汰される明快なものの見方」への「反発があって、釣り合いをとるために『こころ』という表現が多用されるのではないか」(「第3講 近代自然科学における『こころ』」)と考えているからでもある。わたしなら、真っ先に、吉本隆明の『心的現象論』を想起して、「心的現象」としたいところだが、残念ながら本書は、吉本最大の仕事とクロスは、していない。しかし、「学際的に、専門領域を横断して」把握していく方法論は、共通のものがあったと、読後、感じたことだ。本書では文学や音楽、絵画といった領域へも横断させながら、精神現象を捉えていくのだが、土居健郎の『漱石の心的世界』を援用しながら、次のような論及していくところは、「〈こころ〉への知的探索の旅」の白眉だといってみたくなる。
  「漱石の作品を、新たな角度から、精神分析という視点で切ってみたら、それまではっきり見えなかったものが見え、作品の理解が深まる。だから精神分析は理解を深める道具、一視座の提供法であって、(略)当てものじみたことを言うのではない。(略)漱石の作品を精神分析という日本刀で切って、作者である漱石自身の相当な精神病理も見えてくるけれども、それだけなら野次馬根性の冷やかしにすぎない。漱石が自分の創作活動を通じて自分の精神的な闇に向き合って立ち直っていく様子も理解できる。(略)だからこの本(評者註=土居健郎『漱石の心的世界』)を読むと、漱石の作品の理解が深まり、漱石自身に対する敬意も深まり、精神を理解する方法としての精神分析の理解も深まる。」(「第4講 精神の研究」)
 このように、誘われていくことによって、精神という不可思議な領域が、親近なるものに思えてくるはずだ。つまり精神とは、「実体のない架空の想念や幻影で構成される仮象にすぎない」(「はじめに」)からだ。
 だが、精神科医としては抑制的で、「病気」に関して触れているのは、二か所だけである。ひとつは、「うつ病」。「うつ」のスペクトラムというのがあって、中心に「うつ病」があり、外周に、「抑うつ状態」、そしてさらに、「日常的な落ち込み」があるとする。医学的治療が必要なのは、核にある「うつ病」であるにもかかわらず、外周にある「抑うつ状態」や「日常的な落ち込み」にまで、拡大させて薬物投与の対象にしている市場経済論理を裁断していく。また、もうひとつの「発達障害」では、社会性との関連で、関係性を連結できないことへの過度な評価の陥穽を衝く。誰にでも得手・不得手というものがあるものだ。しかし、不得手なものが、社会的関係性のなかで、欠陥として露出したとき、他者は、そのような人(たち)を差異化していくことになる。
 考えてみれば、精神的現象でも、心的現象でもいいが、それは、関係性というものから生起するものである。著者によれば、サリヴァンという精神科医が、かつて、「自己とは他者の評価の集合である」といったそうだ。まさしく、これこそが、仮象の淵源であるといえそうだ。「第6講 『こころ』と文化」のなかで、「言語と非言語、メタ言語」という項目がある。そこで著者は、「言語的コミュニケーションを規定するのは非言語的コミュニケーション」だと述べている。つまり、「ことばの内容ではなくその言い方、タイミング、音調などのコミュニケーションの質」を重視することを、それは、意味している。吉本隆明は、「言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ」(「『蟹工船』と新貧困社会」)と、述べていたことを、いま、思い出す。飛躍していえば、「うつ」も「発達障害」も他者が評価したものに過ぎず、それは、所詮、仮象なんだといいたくなることを、わたしは、抑えることができない。

(『図書新聞』12.10.13号)

|

« 内村剛介 著、陶山郁朗 編集・構成                『内村剛介著作集 第6巻 日本という異郷』            (恵雅堂出版刊・12.3.30) | トップページ | 中川右介 著『山口百恵――赤と青とイミテーション・ゴールドと』(朝日新聞出版刊・12.5.30) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 内村剛介 著、陶山郁朗 編集・構成                『内村剛介著作集 第6巻 日本という異郷』            (恵雅堂出版刊・12.3.30) | トップページ | 中川右介 著『山口百恵――赤と青とイミテーション・ゴールドと』(朝日新聞出版刊・12.5.30) »