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2012年9月14日 (金)

内村剛介 著、陶山郁朗 編集・構成                『内村剛介著作集 第6巻 日本という異郷』            (恵雅堂出版刊・12.3.30)

 全七巻の著作集もようやく第六巻へと到達した。日本をめぐる情況論(1960~1989年)と日本の思想家、作家に触れた文章群で構成されている。内村剛介にとって、日本という「国」は、相対化した視線を射し入れることによって、しばしばジャパンと見做されるものであった。  
 衝撃的な著書『生き急ぐ』で、ことさら、十一年間にわたる“スターリン獄の日本人”として内村を捉えがちだが、1934年、高等小学校卒業後、十四歳で生地・栃木県那須郡境村を離れ、姉夫婦が居住する満州へと向かい、以後、56年の帰国まで、二十二年間、わが日本国を不在にしていたことになる。ラ―ゲリーでは「国家」と否応なく対峙し、帰国してからは、「くに」、「国」、「クニ」といったことどもの狭間で、複層的に絡み合いながら、異和なる故郷と対峙していかなければならなかったといっていい。
 中野重治についての文章を引用してみる。
 「『くに』を中野に見ると心が和む。『くにへ帰る。帰省する』というときの『くに』は中野の身についている。その中野が『国』を語るのを見ると、こんどは、そぐわないものを感じてしまう。国民とか国家という語にはめこまれている『国』はコムニスト中野がすなおに口にすべきものではないといった考えがわたしにはあるからだろう。(略)コムニスト中野は『クニ』をイメージしていないと『国』も『くに』もさまにならない。」
 ここで、例示される「クニ」は、内村がいうところの「ジャパン」に通底いくものだ。そして「くに」と、「国」を串刺しにするかのような「クニ」という視線は、内村にあっては、「国家」をも異化させていくことになる。
 五木寛之に対して、内村は率直な共感を表明する。五木は、1932年福岡県で生まれ、直ぐに朝鮮半島へと移住し、終戦後、平壌から福岡へと引き揚げるという体験を持っている。平壌で妻と離別し、やがて北朝鮮の新政権によって拘束・逮捕され、収容所を転々とした内村が、五木に共感を寄せるのは必然的なことだといえる。
 「五木少年にとって『日本』はダブルトーキングとしてあらわれる。純粋にイデオロギーとしての『日本』、つまり日本国家がそのひとつ。ステートとしての日本がそれだ。次には半ば実存的、半ばイデオロギー的なものとしての『日本』。これはカントリーとしての『日本』だ。ところがこのカントリーとしての『日本』も彼自身にとってカントリーである朝鮮を前にして色あせる。(略)戦争に日本が敗れて多くの日本人が引き揚げてきた。日本イデオロギーの強さと、それに見合う日本人の実存の弱さを示すものがこの『引き揚げ』である。戦争の一つや二つに負けたくらいでは引き揚げたりしないのが大陸の諸民族である。彼らはステートの敗亡におつきあいはしない。彼らは自己のカントリーにロイヤリティを示す。(略)みずから帰ってきた故郷ではないのだ、日本は。したがって五木は“故郷”のあしらいをことさら冷たいとも思わない。泣きごとを言わないのではない。泣きごとが出てこないのである。みじめな単細胞ジャパンがそこにあえいでいたからだ。だがこのあえぎはやがてなくなる。日本は朝鮮戦争をクッションにして回生する。ほかならぬ朝鮮。五木の実存的故郷。(略)五木は世界に向けて流れ出す。(略)五木はコロンである。コロンであることを自覚せざるをえない。(略)コロンの眼は割かれた者の眼であるが、そしてそれだけに哀愁をたたえた眼であるが、弱くはない。ジャパンにとってそれはむしろ勁い眼であろう。」
 長々と引いてみたが、これは、五木少年に仮託して、わが内村の心情を吐露したものだとわたしには思える。いわゆる引き揚げ者、つまり外地で育ったものを、植民地への入植者の意味を持つコロン (仏・colon)として捉えていく内村の思いは、鋭角的だ。それは、「くに」や「国」を「コロン」によって相対化し、ステートとカントリーの狭間を往還するジャパンの実相を炙り出していくことだといえばいいだろうか。
 「白鳥においては、美ではなくてまず理が問題なのだ。あえて言うなら、美しくない生は生きるに値しないなどということは白鳥の目にはまやかしである」と正宗白鳥を捉える内村は、埴谷雄高に対しては、次のように述べていく。
 「埴谷は幻想発生の一点を押えようとはしない。彼は有限であるべき(略)闇を無限大に拡げ、この闇の中へ足元を見せずに消えて行く。彼を導くものは形而上の美であって、ぼくらのあさましい実存ではない。」
「形而上の美」や「美しくない生は生きるに値しない」というのは、「まやかしである」ということへの論拠は、ぼくらの「実存」が“あさましい”からだともいえる。
 「コロン」や「クニ」がそうであるように、「ぼくらのあさましい実存」こそが、ステートとカントリーを擬装する「国家」や、「ジャパン」とは、けっして同化せずに、それらを無為なものと見做していく手立てなのだという強い思いを、内村剛介は、たえず抱いていたはずである。

(『図書新聞』12.9.22号)

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2012年9月 7日 (金)

石井輝男・福間健二 著『完本 石井輝男映画魂』        (ワイズ出版刊・12.5.1)

 石井輝男(1924~2005)は、わたし(たち)にとって、『網走番外地』シリーズ(65年から67年にかけての10作品があり、65年の第三作『望郷篇』は、シリーズ最高傑作と誰もが認めるところだ。口笛を吹きながら登場する杉浦直樹がじつにいい)や、その後の、いわゆる異常性愛路線ものといわれる『徳川女刑罰史』(68年)、『徳川いれずみ師 責め地獄』(69年)、そして、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(69年)といった作品世界を描出した映画監督ということになる。わたしは、さらに、『緋ぢりめん博徒』(72年)や『ポルノ時代劇 忘八武士道』(73年)も付け加えておきたいし、先行する世代にとっては、新東宝における『黒線地帯』(60年)や『黄線地帯』(60年)といったラインシリーズということになるはずだ。本書の元版(92年1月)が刊行されたのは、ちょうど、二十年前になる。当時、石井輝男のインタビュー集が一冊になって出たこと自体、わたしにとっては、ほとんど、“事件”といってよかった。そして、なによりもこの中で、「つげさんの作品はほとんど読んでいます」、「つげさんの作品をすごく哲学的に解釈するとか、むずかしい批評があるでしょう。でも、つげさんの書いたものを読むと、ご本人はそういう意識じゃなくて、これは私の頭の中にあったモヤモヤを描いただけだと、そう言っているところで、つげさんがスッと近づいてくるんですね。きっとそうだな、嘘じゃないなというような気がするんですね」、「いつか死ぬまでに、つげさんで一本撮ってみたいなって」、「『ゲンセンカン主人』を、つげさん自身を主人公にしてやりたいなあって思ってるんです」と石井輝男がつげ義春に対して熱く語ったことによって、わたし自身、石井輝男と近接していく関係になったことは、いま思い返してみれば、奇跡のような機縁だったといっていい。
 本書の元版が刊行後、石井輝男にとって十四年ぶりの劇場公開作品となる映画『ゲンセンカン主人』(93年)が実現する。本書は、その作品についてのインタビューが第六章として新たに配置され、フィルモグラフィーのコンプリート版が増補されたことによって、完本とする所以である。
 『ゲンセンカン主人』以後、つげ義春の弟・つげ忠男の原作でワイズ出版が制作した『無頼平野』(95年)を、続いて念願の『ねじ式』(98年)を石井プロダクションの制作として撮り、オウムやMによる幼女殺害事件、和歌山カレー事件などをモチーフにした『地獄』(99年)に続いて撮った『盲獣VS一寸法師』(01年、一般公開は04年)が監督作品として八十四本目にあたり、それが最後の作品となってしまった。七十歳近くになってから、九年ほどの間に五本の作品を創り上げた映画的膂力は、まさしく映画魂と称するにふさわしいといえる。
 本書の映画『地獄』の解説文の中で、「心情右翼の石井監督」と記されているが、わたしは、その冠し方は、あまりに安直過ぎて首肯できない。戦時中、航空隊の写真班として召集された石井は、聞き手の「戦争はどうだったんですか」という問い掛けに対して、半年間のことだったようだが、「僕が見てきたかぎりでは、もうひどいもんだったですね」と答えている。どうひどかったのかといえば、こうである。
 「飛行機はどんどん逃げて本土へ帰りましたね。ヤマトダマシイもくそもありゃしないんですね。」「キレイゴト書いているのとはまったく違うところを見ましたからね。軍人に対する不信感はありますね。でも、深刻な感じじゃなかったです。いくら軍国主義教育受けていても、あの現実の中に入ったら、みんな転向してますよ。」「戦争から戻って、東京の焼け野原に立っても、あんまり心配しなかったですね。ええ、力まなかったですね(笑)。しかたがないと、なるようにしかなんないと思ってました。」(「序章」)
 わたしは、こう述べていく石井輝男の心情を、「明るいニヒリズム」と捉えてみたい気がする。同時期の太宰治もそうだったが、現状に対して否定的な思いを持ちながらも、視線は、とりあえず前へと向かう、そのことは、培われてきたリベラルな感性と、イノセントな倫理性のようなものから来ているのだと見做してみたい。例えば、「政治的なことはもう最初から切って、やってる」(「第二章」)とか、「虚構と現実をすぐ直結して見られるのはちょっとかなわないな」(「第四章」)という考え方は、偽善的なもの(特に擬制左翼)、キレイゴト的なものに対する、センシブルな憤怒だといえる。オウムからシンパシーを寄せられた(本人から聞いたことだが、機関紙誌類が頻繁に送られてきたらしい)にもかかわらず、『地獄』で、徹底的に否定しようとしたことは、ある意味、象徴的でもある。際物的とでもいえるモチーフの採り方を“新東宝的手法”と見られがちかもしれないが、〈戦争〉を通過した世代の独特な感性(あえてそれをイノセントな倫理性と見做す)が、現実における際物的世界を虚構化させながら解体したいという美意識の発露へと結実していったのだといいたい。
 そういう意味でいえば、「つげさんがスッと近づいてくるんですね。きっとそうだな、嘘じゃないなというような気がする」と石井輝男が率直に共感を表明して、つげ義春の世界を石井輝男の映画世界として構築していった『ゲンセンカン主人』から『無頼平野』、そして『ねじ式』へと至る階梯は、最も濃密に映画魂が発揮された場所であったことになる。

(『図書新聞』12.9.15号)

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