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2012年7月28日 (土)

【一句観賞】清水昶「残菊の心のなかに鬼が棲み」

 六十年代末、詩集『少年』で颯爽と登場した清水昶は、戦後詩というカテゴリーを越えて現代詩を斬新に切開していった初めての詩人だったと、わたしは思っている。それは、時間性を切断させるのではなく、連続したものとして、しかも戦後詩の深奥に戦前期の思想の根源を見据え、それを透徹することによって現代詩としてあらたに構築していったことを意味している。
 「魂のバリケード舌つまる口/青草生える沈黙のなかで/荒涼としたたたかいがはじまった」(「魂のバリケード」)
 「火のように呼ぶ太陽に殺(そ)りあがる一日の目覚めに/憎しみを持つ少年になった」(「少年」)
 「ナイフのようにわが冷肉につきたてたまま/死ぬならば/神無月の朝に死ぬ」(「眼と銃口」)
 これらの詩の持つ鮮烈さは、清水昶に内在する、深淵なる抒情性によるものだ。五五七のリズムによって醸し出される「魂のバリケード舌つまる口」、直載に発せられる「憎しみを持つ少年」や「神無月の朝に死ぬ」は、屹立している。
 清水昶は、現代詩と決別し、2000年6月からインターネット上で「俳句航海日誌」と題し、俳句作品を発表していった。その数、三万句以上にも上る。掲句は、最初期の作品である。「残菊」という美的なるものに傾く心性を、「鬼」というメタファーによって相対化しようとする意志が、作者の内奥に生起することに、わたしは、共感したい。「俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問」いたいと述べながら、俳句を作り続けた清水昶は、昨年六月三十日に急逝した。享年七〇だった。

(句紙「夜河」第拾参號・12.8.1)

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2012年7月20日 (金)

「情況」的場所へ(12)―共同幻想としての3.11―

 3月11日、午後2時46分に起きた巨大地震(マグニチュード9.0、最大震度7)とその後に派生した様々な出来事を、いったいどのような言葉で表したらいいのかと、いまだに逡巡している。メディアは、菅が宣した名称に準じて、東日本大震災と称しているが、そのような括りで、この間のことを包括して捉えられるわけではない。ただ、こういうことはいえるはずだ。多くの人たちの生命が失われ、いまだ多くの行方不明者がいて、十万人以上の人たちが生活を簒奪され、困苦的避難状態を強いられている。にもかかわらず、わたしたちは、福島第一原子力発電所事故がもたらした放射能汚染とさらなる余震に怯え、パニック状態に陥り、食料品や生活必需品を大量に買占めるというおぞましい光景を目にすることになる。一方で、菅政権と勝俣を筆頭とした東京電力幹部たちが政権延命と責任回避に奔走した結果、事故収束に向けての方策が、後手、後手になるといった大失態を演じている。いまとなっては、唐突な計画停電と海江田に大停電になると警告させたことは、原発事故への視線を逸らす意図(原発の必要性を誇張する意図もそこには、当然、含まれる)があったといわねばならない。そして、復旧、復興に向けて、“がんばれ、ニッポン”などという空疎なスローガンでナショナルなエモーションを喚起しようと連日、東電の謝罪広告(膨大な広告費を使ってメディアからの批判を封じ込めようとしているのだ。福島の地元紙は、東電の謝罪広告を拒否するという毅然とした態度を表明している)とともに、メディアを席巻する。原発事故の収束がいまだ不分明な状態にも拘らず、東芝、日立やフランス、アメリカの原発関連企業が、廃炉事業利権に群がっていく。これらの皮相なる事態を露出させたことの意味は確かに大きいといわざるをえない。被爆国でありながら国策として原発建設を推し進めてきた、わが国の政官業癒着構造に楔を打ち、原発廃絶(それは、核廃絶と同義でもある)への道筋をつけられるかは、圧倒的大多数の人たち(つまり、わたしたち)の覚醒(CO2を排出しないクリーンエネルギーであるというレトリックや、原発がなければ、電力供給量が補えないとするデマゴギーを見通すこと)なくしてはありえない。大きな代償といえるが、そういう意味でいえば、今回の原発事故を奇禍とすべきなのである。しかし、わたしは、いいようのないもどかしさを払拭できないでいる。それは、精神的被爆現象とでもいえる情況が、共同幻想のように覆いつくしているからだ。わたしは、原発危機に対する視線と被災地で困苦的状態を強いられている人たちへの視線は、等価でなければならないし、パラレルな関係だと思っている。菅政権に象徴されるように、軸足は原発に傾斜し過ぎて、救援・救済対策は、明らかな遅滞状態を呈していることは、許されないことなのだ。メディアは、被災地の情況を、辛抱強く頑張っているなどと捉え、美談のように報じているが、それは、表層的なことでしかないのは明らかだ。従来からの反原発論者たちは、鬼の首を取ったように、放射能による人体への影響を強調してみせる。二十年、三十年先に発ガンの可能性がありますよと煽る(政府や保安院、東電が繰り返す、ただちに人体に影響はないという言い方と、それもまたパラレルな言説といえそうだ)。確かに、そのような論調に異を唱えるつもりはないが、現実に十万人以上の人たちが、明日の生活の展望も開けないでいる事実を考えてみれば、住食が保障されながら、放射能汚染の危機感にパニックになっている場合だろうかと疑念を抑えることができない。
 津波に流されて瓦礫化した街々の映像を見て、終戦直後の情況と同じだと感想を述べる人たちが多くいたように思う。しかし、それは、まったく違う情況認識だといっていい。45年8月6日や9日のヒロシマ・ナガサキ、さらには15日も含めて、それらと2011年3月11日は、まったく別次元の事象として捉えるべきである。むしろ、95年1月17日に起きた阪神・淡路大震災と、二ヵ月後の3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件に照応していくと見做した方がいい。地下鉄サリン事件と福島原発事故は、確信犯的事件・事故とでもいうべきものであり、どんな事由にせよ、電源が遮断されるという事態が、電気ガス業界のなかで突出して第一位の売上高を誇る電力会社の現場で起きることは、あってはならないことなのだ。それは、電力会社としての存立性そのものを問われるほどの根源的欠陥である。“想定外”の大規模な地震や津波だったなどということは、当然、理由にはならない。利益追求に走る東電経営者の確信犯的な保守機能整備の怠慢といえる今回の事故(昨年6月にも電源トラブルの事故を起こしている)は、むしろ事件と称すべきものであり、東電による福島住民に対する無差別放射能テロである。その限りにおいて、東電とオウムは同じ位相にあることを示しているのだ。
 しかし、いま、わたし(たち)が、無能無策な菅政権や東電、原発関連会社に対する憤怒を発し続けたところで、事態が穏当に収束されていくわけではない。まず、恐怖、狂乱の共同幻想から、個々の観念を解き放ち、はやくリアルな現在という場所に立たなければならない。そのうえで、冷静に見据えるべきことを定めていくのだ。この混乱する情況が、どのような着地点となるのか、つまり、さらなる格差拡大を助長していくことになるのか、被災地が相互扶助的なコミューンとして再生していくのかを、見通すべきだと思う。
 TBSの報道キャスター、金平茂紀は、いち早く、被災地に入り、現状を次の様にリアルに報告していた。
 「取材で入った宮城県南三陸町で見た風景。山間部にまで何隻もの漁船がすさまじい津波によって打ち上げられていた。津波によって押し上げられた瓦礫は、漁船の網やウキ、昆布、ブラジャー、蛸の死体、アルバム、茶碗、材木、泥を巨大な渦のなかで撹拌したように、あり得ない無秩序な塊となって、堆積していた。人の姿がみえない。1万7千余の町の人口の半分の安否がわかっていないのだという。津波によって町は壊滅していた。(略)気象庁の大津波警報の第一報の記録が残っている。岩手3メートル、宮城6メートル、福島3メートルとある。実際の津波はそれをはるかに超える大津波で、町の設営した防波堤、防潮堤、水門を破壊して突き進み町を飲み込んだ。気象庁の予知には限界があった。結果的に言えば、自然を甘く見ていたと言わざるを得ない。だが、『想定外』という言葉は何の説明にもなっていない。(略)福島第一原発の事故はこれまで世界で起きた原発事故のなかでも最悪級に近い様相を呈している。原子力工学とか原炉設計とか、『原発に詳しい』専門家、学者たちが僕らのテレビ局のスタジオにやってきた。(略)危機が深刻化し、発電所近辺で放射線量が基準を超えるような事態になったあとも、それらの人々は『ただちに健康に害を及ぼすような量ではない』『全く健康には問題がない』などと繰り返していた。彼らにも家族がいるだろうに。(略)『御用学者』『御用マスコミ』をつくりだしたのは僕ら自身だ。原発の安全性については長く異議申し立てが行われていた事実が厳然としてある。(略)何人かのメディア学者や小説家がパニックに陥り、関西地方に家族ともども避難した。(略)16日からの来日公演ステージをやりとげたシンディ・ローパーの方がよほど偉い。(略)この事態に誰が何を言い、どのような行動をとるか、僕らはしっかりと見よう。誰が本物で誰が偽物かを凝視しよう。」(「私たちは大震災と原発惨事のさなかで何を考えるべきなのか?」―『THE JOURNAL』11.3.21)
 金平の思いを援用していうならば、わたしたちは、あらためて、何が本当のことなのか、何が虚妄なことなのかをしっかり、見据えることだ。
 果たして、この先、わたしたちに3・11以後の世界を、リアルなものとして掴みえるだろうか。いや、掴んでいかなければならないのだ。        (11.4.20・記)

(※本稿は、『月刊架空』11年2月号(通巻13号)掲載のために上記日付に執筆したものだ。3.11直後に記したわたし自身の考え方を込めたものになる。『月刊架空』11年2月号(通巻13号)は、一年以上の空白を経て、先ごろ発刊されたが、なんの連絡もないまま、本稿は掲載されなかった。編集発行人は長すぎる時間の幅を勘案して掲載しなかったと思われるが、わたし自身、時間の経過に耐えうるものと考え、ここに掲載する)

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