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2012年3月23日 (金)

クリストファー・レイン 著 奥山真司 訳                 『幻想の平和―1940年から現在までのアメリカの大戦略』      (五月書房刊・11.8.31)

 「幻想の平和(The Peace of Illusions)」という表題に、様々なイメージが喚起される。本書の著者の分析に共感しながらいえば、第二次大戦下から今日までアメリカ国家(政府)が採り続けてきた地域外への覇権(支配)戦略は、まさしくここかしこに、幻想の平和を喧伝し続けてきたということになる。わたしは、平和という言葉にいつも胡散臭さのようなものを感じてきた。つまり、平和と戦争はコインの裏表のようなものだとわたしには思われるからだ。平和的世界を構築するというレトリックを要して、地域外国家の政府権力を解体するために侵略戦争を行ってきたのは、世界に冠たる民主国家を自認するアメリカではなかったのかといいたいからだ。本書の著者、クリストファー・レイン(1949~)は国際政治をテーマとするネオクラシカル・リアリズム学派に属するテキサスA&M大学の教授であり、本書が初めての単著であるという。「リベラリズム」と「大議論」を展開してきた、いうなれば保守的立場にある学派と見做せるようなのだが、「マルクス系や修正史観主義者、それにリベラル系などの学者・歴史家たちの理論を加えて、アメリカの帝国主義的な大戦略のメカニズム」(「訳者解説・あとがき」)を解析しているところに、本書を特異なものにしている。原著の刊行は2006年であるが、その後に生起したサブプライムローンによる経済危機を予見しているかのような情況分析と辛辣な批判を帝国アメリカに対して行っている。
 著者のアメリカの覇権戦略批判は、極めて明快だ。アメリカ外交は、他国に対して推し進めた「門戸開放政策による経済拡大策は、アメリカ軍を海外に派遣しても守らなければならないような新たな国益を生み出した」(「イントロダクション」)とする。アメリカが母国イギリスの凋落に代わって世界国家として台頭し、やがてソ連との対峙という、いわゆる冷戦構造が形成される契機を著者は、「ソ連を『脅威』として見るようになったわけではなく、(略)アメリカの政策家たちは単純に『ソ連の弱さ、節度、そして用心深さを表すサインを無視した』のだ」(「第3章 アメリカの大戦略とソ連」)と捉えていく。なるほど、「ソ連」を「北朝鮮」と置き換えれば、そのまま現在の東アジアにおけるアメリカの軍事政策に通底するといっていいだろう。そして、戦後のドイツに対しては、再統一によって巨大化することを危険と見做し、結果、分断政策をとったのは、ソ連ではなくアメリカの方だったとする。この冷戦構造分析は、本書の白眉といっていいだろう。
 ところで、国家というものは、絶えず国家間の軋轢関係を内包するものだろうか。国家がある限り、国家間戦争は生起する必然を有するものなのだろうか。このようなシンプルな問い掛けを発してしまうのは、本書のような国際関係論的視点によるアメリカの覇権戦略に対する批判をほとんど首肯しながら読み進めながらも、最後の「オフショア・バランシング」戦略を提起したところで、著者の本意は一体どこにあるのかと戸惑ってしまったからだ。精緻で見事な覇権戦略批判を展開していながら、東アジア(日本、中国、韓国、北朝鮮)に対して、些か巨視的過ぎるように思わざるをえないのだ。
 「(略)今日ではアメリカが他国の直接的に攻撃されるコストやリスクを背負ったり、彼らの海外の権益を地域的な混乱からわざわざ守るべき理由はどこにもないのだ。西ヨーロッパ、日本。そして韓国などは、自分たちの安全を自分たちだけで担うだけの経済・テクノロジー面での力を持っている。(略)『オフショア・バランシング』というのは、国防面でのすべての責任を同盟国たちに委譲することによって、自らの地政戦略的な優位を活用するものだ。(略)現在のアメリカの大戦略の推進者たちは、『アメリカが安全保障の傘をたたんでしまえば、ユーラシアに安全保障の真空地帯ができてしまい、これが〝再国家化〟を引き起こし、不安定な多極状態の復活につながる』と言って反対するはずだ。ところが皮肉なことに、アメリカの覇権的な大戦略はすでにこの面で失敗しているのだ。その理由は、アメリカが『地域安定装置』として行動しているにもかかわらず、『再国家化』は徐々に始まっているからだ。」(第8章「オフショア・バランシングという戦略」)
 ここでいう「再国家化」の国家とは、軍事的な自立国家を意味している。著者は、オフショア・バランシング戦略の先に日本の核国家化をも見据えているといえなくもない。そもそも、他国から攻撃をされるということの考え方のなかには、国家間戦争は、常に発生しうるものだという妄想の上に立っているといわざるをえないし、「核」が国際間における抑止力となっていると、現在ではいい切れないものがあるはずだ。そのことは当然、米軍の極東配置が、必ずしも「地域安定装置」として働いていないということを意味する。著者は、「アルカイダのようなテロ集団やイスラム原理主義たちの熱狂的な支持者たちを煽ったのはアメリカの『覇権』なのであり、これはアメリカ優越状態と世界的な役割に対する、一種の『ブローバック』(反動)なのだ」(「同前」)と述べているわけだから、国防や安全保障という概念自体が、そもそも幻想の所産でしかないし、軍事力の肥大が強国の存在証明とはならない時代に入ったと見做すべきなのだ。アメリカという大国を保守するために、「覇権」ではなく「自己抑制的な政策を追及しなければならない」と著者は結語していくが、9.11以後を俯瞰してみれば、既に「覇権」や「大国」という言葉は空語化してきていると、わたしならいいたい気がする。

(『図書新聞』12.3.31号)

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