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2012年3月 9日 (金)

保阪正康 著『農村青年社事件                 ――昭和アナキストの見た幻』(筑摩書房刊・11.12.15)

 「農村青年社事件」と聞いても、おそらく、多くの人にとっては、未知のことに違いない。アナキズム運動史に関心を持ったとしても、「農村青年社事件」に対して深く視線を這わせることは、あまりないように思える。わたし自身が、そうだった。それは、大杉栄の虐殺、そのことへの叛撃として決起されたギロチン社事件を経て、アナキストたちの反抗のムーブメントは退潮期へと入っていったからだ。もちろん、それは、時代が昭和期となってナショナリズムの台頭と戦争の影が勃興し出したことと、無関係ではない。労働者組織による運動にも限界が見えてきた時に、都市部からの決起を企図した無政府共産党と、疲弊しつつある農村部を救済することを希求して結成された農村青年社は、ある意味、わが国におけるアナキズム思想の未成熟さからくる矛盾を象徴していたと、わたしは考えている。例えば、マルクス主義陣営の講座派と労農派の対立と同じ様に、西欧型革命理念を移入したことによる、アジア的な構造との溶接の困難さを払拭しえないまま、行動理念としたことによる破綻といいかえてもいい。わたし自身、権藤成卿の農本主義的な思想の基層にアジア的なアナキズムとでもいえるものを抽出しようとした経験からいえば、バクーニンやクロポトキンの思想と権藤的農本主義を繋げていくことは、戦後的時空の位相を組み入れることによって、どうにかその端緒へと至るといったプロセスを経なければならなかった。本書の著者が、農青社のメンバーは、意識的に天皇制の問題との対峙を回避していたと好意的に解しているが、わたしは、そうは思わない。石川三四郎や岩佐作太郎がそうだったように、西欧的理念を日本型革命理念として移植していくには、対権力という現実的なことではなく、理念として天皇制の問題を迂回(ということは、無意識のうちに組み込まれていくことを意味する)せざるをえなかったと思われる。それは、北一輝が直面したことと、パラレルな関係といえなくもない。
 さて本書は著者が長年、構想を温めていたものを、三十年近い時間を経て、ようやく結実させた渾身の仕事である。農青社の主要メンバーの四人のうち三人への丹念な取材・インタビューは、著者であったからこそ、彼ら彼女らが胸襟を開いて応答したものだといい切れる。「農村青年社事件を最後として、戦前のアナキズム活動は終熄してしまった。(略)無政府共産党事件、農村青年社事件等の人々もその多くは戦後のアナキズム運動とは無縁に終わってい」(秋山清『日本の反逆思想』)ったことを考えてみれば、著者の取材に応じた宮崎晃、八木秋子、事件の資料集編纂に膂力を込めた星野凖二の三人の「農村青年社事件」以後の時間性に対して、不思議な感慨を覚える(もう一人理論的な支柱だった鈴木靖之は、著者が取材を始めた時点で亡くなっている)。
 事件を本書では、第一幕と第二幕というように分断させて、著者は捉えていく。確かに、劇における幕間のようなものが、事件には横断しているからだ。
昭和六(1931)年に農青社は結成される。そして翌年、運動資金獲得のための窃盗行為が発覚して、刑事事件として処理され、そこで「実質的にその活動は停止」したことになる。ここまでが第一幕である。やがて、無政府共産党事件(農青社のメンバーとは何人かが繋がりを持ってはいたが、まったく別の運動体として、昭和九年に設立)を発端として、昭和十一(1936)年、「功名心に逸る検事」によって、「長野県下で検挙が始まり、設立メンバー四人も検挙され、彼らに同調していたとして全国規模で三五〇人が検挙され」、アナキストに対して初めて治安維持法が適用され、三〇余名が起訴されたのが、第二幕としての事件劇ということになる。まさしく、それは、当事者たちも予想できなかった第二幕劇であった。だからこそ、著者の眼は、当然ながら辛辣になる。
 「確かに農村青年社事件は検事団の功名心によってフレームアップされたとはいえ、逆にいえばそのことによって宮崎は戦後になって『治安維持法の網にかかったアナキスト』という勲章を手にいれたのではなかったか。」
 「全体に指摘できるのだが、農村青年社の法廷は思想犯を裁く、あるいは国事犯を裁くという緊張感に欠けているように思える。(略)確かに信州で何らかの行動(それを地理区画運動と称したのだが)を起したいとの願望をもっていた。(略)しかしだからといって彼らにはそのための行動計画があったわけではなかった。」
 これらの指摘に、わたしもほぼ同意したいと思う。フレームアップされたアナキスト弾圧といえば、幸徳秋水らの大逆事件を真っ先に例示できるが、だからといって、その思想性が軽視されていいわけではない。権力側の犯罪捏造(それは、現在においても依然、連綿として続いている)を徹底的に断罪すると同時に、権力側に危機感を抱かせた思想の根拠を再度、分析して再構築していくことも、後代のわたしたちに課せられた仕事だと思う。
 とすれば、近代天皇制生成時の大逆事件と、戦争の時代を予兆させる昭和十年代初期の農村青年社事件には、権力犯罪という共通項はあっても、おおきな差異の位相を見てとれるはずだ。「ごく平凡な、そして生真面目な青年たちのその運動の中に当時の社会環境や生活模様がすべて凝縮されていた」わけだから、著者も述べるように、「昭和史の中でどのように語り継ぐべき」かということが、切実なものになっていくといっていい。

(『図書新聞』12.3.17号)

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