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2012年2月10日 (金)

うらたじゅん・山田勇男・斎藤種魚他 著『幻 燈 12』           (北冬書房刊・11.11.14)

 一年ぶりに刊行された漫画・劇画作品のアンソロジー集『幻燈』の第12集は、当然のごとく、3.11の大震災によって惹き起こされた福島原発事故を投射している。福島在住の作家・斎藤種魚の新作「重力」と、唯一の文章掲載となった大麦ジョージ、大麦ロコモコの反原発デモによって違法逮捕された後、留置場に拘留された経緯を記した「5.7反原発デモ逮捕・拘留記」が、その象徴的作品だといっていい。
  「重力」は、“扉”から作者の思いを充満させた画像となっている。傾いた家の前で少女が手に〝何か〟を持って佇んでいる。月夜の上空には、ロケット弾に乗った異邦の女性を捉えている。この扉画から喚起されたのは、こういうことになる。原発とは何かを根底的に見定めない限り、事故のことも、反原発のことも、捉え切れずに霧散する可能性がある。事故が起きたから原発が駄目なのではない。原発とは核開発の擬装だったのだ。だから、異邦の女性は、戦後、核保有を先導していった欧米国家の表象ともいえる。核(原発)を保有することは、国家が怪物化していくことである。怪物とは、ひたすら強大な権力を集中しようという「神」のようなものだ。「重力」という作品に接しながら、人間が神になろうとすることを、もう一つの戦争と呼びたいと思った。斎藤は作品の最後で、「三人の神は/子どもらを/削除して/大人をすべて/神にした」と記す。
  「5.7反原発デモ逮捕・拘留記」は、詳細に述べられているだけに、警察の取り調べの空疎な実態が明らかにされていく。公務執行妨害で逮捕された二人だが、そもそもそのような理由で逮捕したところで、起訴にはできないことは、警察の方もわかっているのだ。だから、9.11デモの時の大量逮捕といい、一般市民が反原発デモに参加すれば逮捕される危険性があるという見せしめにするつもりで、横暴な行為に出るのだ。これでは、逮捕拘留されるのは、憤りに耐えないということになる。なお、二人の手記のダイジェスト版が、『アナキズム 14号』にも掲載されている。
 安部慎一・原作/西野空男・漫画「雪中記」は、『月刊架空』誌で試みられてきた共作の最新作である。現在、あと2号を予定しながら休刊状態にあるため、『幻燈』での発表となったものだ。安倍慎一の世界を西野空男の絵によって再構築されていく醍醐味を、たぶん、作り手以上に、読み手の方が感受することになるといいたい気がする。ところで、西野空男の本格的な作品集『幼年クラブ』(A5判224P・本体1400円)とともに、安部と西野のコラボレーション作品集『気分』(A5判176P・本体1200円)がワイズ出版から同時発売されたことを付記しておきたい。
 藤宮史の木版漫画は、「或る押し入れ頭男の話・公園」と「わたしのいない世界・温水池」の二作品を掲載。特に、頭男シリーズは、独特のモノローグとともに、他の追随を許さない屹立した位相を表出している。
 おんちみどり「階段町の人々・風」、山田勇男「私ノ青ヒ塔ノ中ニ誰ガイルノ」、木下竜一「胡桃だより」、甲野酉「仕掛りの家」、海老原健悟「夏至」といった『幻燈』常連作家たちの作品について個別に触れたいが、紙数の都合で、角南誠の作品「雨に濡れた慕情」に対して少しだけ言葉を添えたい。従来の作風から幾らか変換を加え、抽象度を深化させた作品となっている。たぶん、これは角南自身、無意識のうちに3.11を作品内部に包含させたことからくる転換だといえなくもない。このことが、今後の作品の新たな展開の契機となっていくことを期待したいと思う。初登場の川勝徳重の「福助小噺」という作品は、福助人形をめぐって日常の風景をさりげなく活写していく。やや丸みを帯びた描線とともに、どこか穏やかな気持ちとなって、それが、どこかで3.11への鎮魂になってくるという不思議な感慨を抑えることができない。意外にも菅野修の作品が掲載されていないが、うらたじゅんは健在だ。
 巻頭に配置された最新作「おつかい」は、病に臥した実直な父の像を前半部に置きながら、少女と父、少女と少年の峡間を交差させながら、少女が慰藉されていく様を、少女・少年期における異性間の通交として鮮やかに描いてみせる。モチーフがともすれば、自己模倣的なものになるところを、最後のカットによって、うらたじゅんでなければ描出できない秀逸な作品として提示している。長引く父の病に落ち込んでいる少女に対して、別れ際に「げんきだせよ」と懸命に、励ます言葉を発しながら、もし振り向いてくれなければどうしようといった戸惑いの表情を浮かべる少年のカットから、最後の、少女の「うん」といって力強く振り向いた表情が、この作品のすべてを包み込んでいくかのようだ。これはまさしく、柳田國男の〈妹の力〉ではないか、とわたしは思い、素直に感嘆したといっていい。

(『図書新聞』12.2.14号)

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2012年2月 4日 (土)

渡辺京二 著『未踏の野を過ぎて』(弦書房刊・11.11.25)

 このところ、渡辺京二は八十歳を超えながらも、『黒船前夜』(10年刊、大佛次郎賞受賞)以降、『渡辺京二コレクション』(全二巻)、『渡辺京二傑作選』(全三巻)をはさみながら、共著も含め三冊の新著というように著作の刊行が続いている。本書はそのなかの一著であるが、「主として世相を論じた文章を集めた」(「あとがきに替えて」)ものとなっている。3.11以後の世相に斬り込んだ書下ろし論稿を巻頭に配置し、79年から11年までに発表された文章で構成されている。およそ、渡辺京二にあって精力的な著作活動などという形容は不似合いなのだが、七十年代、わたしなども含め、熱烈な共感を表明した時期と照応させてみる時、なにがしかの感慨を抑えられずにはいられない。わたしたちもまた、それなりに年齢を重ね、世情・世相もそれなりに変容してきたことを考えてみれば、情況と相渉ることの困難さは、身に沁みてわかるつもりだ。しかし、渡辺の視線は、厳しく、一貫して揺るぎないものとしてある。
 「人間は本来、肩書きのない一個の生きものなのである。それぞれに肩書きがついて、それによって自分が何者かであるかに思いこむのは、人間社会という仕組みに組みこまざるをえないことからくる仮象であり、錯覚なのだ。老後とはその錯覚からさめるときである。(略)威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすればよく、その妨げとなるものは振り捨てればよい。自分が自分であるとは、何が自分にとってほんとうによろこびなのか、見極めがつくということだ。かくて、生きる方針はシンプルになる。格好をつける要はなく、ただ自分を正直にさらせばよいのだから。」(「老いとは自分になれるということだ」)
 「人間社会という仕組みに組みこまざるをえない」とは、かつて、「人間の共同社会があい争う利害の体系であり、その体系は契約による権利と義務により実体化され、その利害対立を判決するのは一種のゲームのルールとしての成文法であ」(「近代天皇制の神話」―『小さきものの死』所収)ったと述べていたことに通底する。「肩書きのない一個の生きもの」である限り、当然のことながら、「威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすれば」いいということになる。ともすれば、「肩書き」によって自分を表明することに比べれば、ただ「自分が自分である」ことを表明することは、大きな懸隔があり、至難に満ちているように思い勝ちかもしれない。だが、「肩書き」もまた、虚飾であり、「仮象」である以上、結局は、「自分が自分である」ことを露出していくことでしか、わたしたちの「生」は、持続せざるをえないのは自明なことなのだ。勿論、このことは、若年世代であっても、同じことだとわたしなら、付加しておきたい。
 「考えあって、私は天下国家について論じることを避けた。かわりに、街路樹や、いまの人間の表情やもの言いについて書いた。天下国家に関することよりも、その方がもっと本質的であり大事だと思うからである。このことをもって私が韜晦したり、しんどい論題を避けたりしたと思ったら大間違いだ。旧態依然たる思考枠で、左翼くずれ的情勢論を垂れ流している連中こそ犯罪的なのだ。木々が切り倒され、人びとの表情や言葉が劣性化していることは、まさにわれわれが対峙すべき時代の本質なのである。」(「未踏の野を過ぎて」)
 たぶん、渡辺は、わたしたちのような、六十年代末に生起した対抗的な運動の担い手たちに独特の視線を射し入れているはずだ。「左翼くずれ」という叙述にそのことが表れているし、次のような批判的言辞にもいえる。
 「全共闘という変種も含めて、戦後左翼の言説が八〇年代に入って失効し、影をひそめるにいたった経緯はみなさまよくご存知の通りだ。(略)戦後左翼とは、敗戦以前の日本の単純な全否定、自由・平等、民主という近代的強迫観念のやみくもな神聖化、国家・支配・権力に対する反感という点で、戦後市民主義のラジカルな一形態に過ぎない。」(「同前」)
 辛口であることは、ある種の心地よさを誘うものだ。だが、全共闘運動が左翼運動であったかというと、厳密な意味でいえば、そうではないといいたい気がする。つまり、「敗戦以前の日本の単純な全否定」をする戦後左翼とは、一線を画していたと思う。むしろ、戦後過程そのものが、戦前を隠蔽する欺瞞に満ちたものだったという捉え方をしていたと声高にいっておきたい。このことだけは、渡辺に誤解して欲しくないところだ。ましてや、「街路樹や、いまの人間の表情やもの言い」の方が、「天下国家に関することより」は、はるかに「本質的であり大事だと思う」のは、仮に「全共闘くずれ」や「左翼くずれ」であったとしても、同じ思いを抱いているはずだ。わたしたちも、六十代を超え、昔風にいえば間違いなく老後の段階へと入っているのだから。

(『図書新聞』12.2.11号)

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