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2012年1月13日 (金)

高橋順一 著『吉本隆明と共同幻想』               (社会評論社刊・11.9.15)

 吉本隆明の全営為のなかから、幾つかの代表的な著書や主要概念を採り出して、それを特化しながら語ることが、果たして、吉本思想における根源的場所を十全に捉えることになるかといえば、否というべきであろう。たとえ体系的な仕事と思われるものでも、そこにはそれ以前の多様な営為が重層的に反映されているからだ。にもかかわらず、敢えて主要著書として三冊だけ挙げよと問われれば、たぶん、多くの人は、『言語にとって美とはなにか』(65年刊)、『共同幻想論』(68年刊)、『心的現象論』(『序説』71年刊、『本論』07年刊)となるはずだ。わたしなら、なんの迷いもなく『共同幻想論』、『最後の親鸞』(81年刊)を挙げ、そして、『ハイ・イメージ論』(89~94年刊)を並べたい。むろん、これは吉本の全営為と遭遇してきた過程のなかで、わたしにとって衝撃度の大きい順といった意味でしかない。
 著者は、本書に先行して『吉本隆明と親鸞』を刊行しているから、わたしの思いと交錯しているといえそうだが、もとより、「思想家吉本の真の意味での主著『最後の親鸞』」と述べているから、わたしが『共同幻想論』に対して強く傾斜してきたこととは、幾らか距離があるかもしれない。表紙や背表紙の上端に小さな文字で、「Auslegung Yoshimoto Takaakis Ⅱ」とある(ちなみに、『吉本隆明と親鸞』にはⅠと記されている)。最初の文字のAuslegungは、ドイツ語で「解釈」という意味のようだが、読解とか解読といったことを著者は、冠したかったに違いない。そういう意味でいえば、本書の構成は、「『吉本思想の公共的理解および応用』のための土台づくりを目ざしている」とする著者の考えが、濃密に反映されているといっていい。
 「『共同幻想論』の世界」と題した「Ⅳ」章へ至るまでに、敗戦期から六〇年反安保闘争時までの吉本の思想的軌跡を「マチウ書試論」、「転向論」、『カール・マルクス』、「自立の思想的拠点」などを通しながら、微細に解析されていく。例えば、「マチウ書試論」をめぐって「『関係の絶対性』は、現実に存在する関係秩序を肯定することではない。まして現実の相対性に安住することでもない。問題なのは、『関係の絶対性』という視点を導入したときはじめて正義が、より普遍的にいえば観念や理念が、現実に対して相対性を負わざるをえないことを本質的な形で自覚し認識できるということである。それは、『観念の絶対性』と『関係の絶対性』の関係が、たんなる相対性ではなく、『逆立』の関係として捉えられることを意味する」と述べながら、「吉本隆明は思想家として」、「マチウ書試論」から「自分自身の道を開始」していき、「『関係の絶対性』に真の意味で耐えることの出来る反逆思想」を模索していったのだとしている。
 『共同幻想論』のモチーフの萌芽を「マチウ書試論」における「関係の絶対性」という概念に求めていくことは、むろんわたしにも異論はない。ただし、次のような言辞へと導かれる時、そこには、すこしだけ、わたしとの乖離が生じていくように思える。
 「『関係の絶対性』の内部における幻想性と非幻想性の『逆立』の問題がもっとも集中的に現れるのが、国家の幻想性と市民社会の非幻想性の関係である。吉本の幻想論体系においてこの問題に迫ろうとしたのが『共同幻想論』であった。」
 吉本は、確か、「自立の思想的拠点」という論稿のなかで、「政治的国家」と「社会的国家」という繰り方を提示していたはずだ。そのことから類推しても、「国家の幻想性」と「市民社会の非幻想性」という対称化は、共同性の問題を突き詰めていけば、ひとつの円環へと包括されていくように思えるのだが、どうだろうか。
 本書のなかで、わたしが、最も喚起されたのは、「生(誕)」から、「死」へと至る時空間に共同幻想を措定して論及していく箇所だ。
 「(略)諸個人は、共同幻想のうちから産み出されて(生誕)、共同幻想へと還ってゆく(死)という循環の過程という形で、個体幻想を共同幻想の内部に位置づけるのである。そのことをもっともよく示しているのが死の共同幻想形態としての『他界』に他ならない。生から死へと至る個体幻想内部の時間的な過程は、『他界』という形で空間的に構造化され表象される共同幻想から来訪と帰還の過程として把握される。そしてここにおいて共同幻想と個体幻想の同調・浸蝕の採集形態が現れる。」
 そして、この「生」から「死」へと至る個体幻想と共同の幻想形態の時空間の狭間へ「対幻想」概念が投企されていくことにこそ、『共同幻想論』の最大のモチーフがあるとわたしなら考える。著者・高橋順一は次のように苛烈な言辞で「『共同幻想論』の世界」を結んでいく。
 「『共同幻想論』はなによりも国家の革命の書として読まれなければならない。私はこれまで共同幻想についてその内部に潜在する非連続的継ぎ目・転回点を探り当てることが重要だと繰り返し述べてきた。その継ぎ目こそが、共同幻想を解体・無化する国家の革命の戦略的なポイントになるからである。」
 もう何年も前のことになるが、竹田青嗣は、『共同幻想論』で展開した国家(権力)論は、現在的には有効性を逸してきていると述べていたことがある。刊行当時、リアルタイムで衝撃を受けた側から、竹田のような発言が、しばしば見られるようになってきたのは確かだ。しかし、それは、自らの立ち位置の揺らぎの証左でしかない。
 刊行されて四十三年、『共同幻想論』は、自分自身も含めて、まだまだ深奥において理解の地平を獲得したとはいい切れない〈未知〉が、依然、在り続けていると断言していい。

(『図書新聞』12.1.21号)


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