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2012年1月27日 (金)

渡辺京二、津田塾大学三砂ちづるゼミ 著                 『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(亜紀書房刊・10.9.29)

 徹底討論とか鼎談とはいわずに、「会いに行く」という表記は、いくらか戸惑いを抱かせる。しかも、「会いに行く」相手が渡辺京二となれば、なおさらその思いが強くなってくるといっていい。東京の大学に在学している学生たちが、熊本に在住する渡辺京二となんらかの応答をしに、出向いていくのだから、確かに「会いに行く」でもいいとは思うのだが、なにか釈然としないのだ。しかし、読み進めていくうちに、戸惑いが、徐々に氷解していった。人と人は会うことによって醸成されるものがある。本や映画、絵画といったものから、大いに啓発されるとしても、それと同じように、あるいは、それ以上に、人と人が出会うことよって喚起されるものは大切なことである。だからといって二十代の学生が、八十歳の経験豊かな人と応答するから、いいという表層的なことをいいたいのではない。『神風連とその時代』や『北一輝』、『日本コミューン主義の系譜』といった著書を持つ渡辺京二だからこそ、その出会いというべきものが、至福の時となるはずだとわたしには思われるからだ(残念ながら、彼女たちの入り口は、『逝きし世の面影』なのだが)。
 渡辺はこの場所では、極めて、抑制的に語っていく。それでも、要所では言葉やさしくも直截に述べていくところが、本書のいわば読ませどころとなっている。
 開巻、いきなり「子育て」についてのやりとりだ。「子育ては福祉の対象?」というテーマで卒論を書き上げた学生が、「子どもが好きで、かわいいなと思うんですが、でも、実際の子育ては大変だと言われていて、なんでそんなに大変なのかというところに疑問を持った」と述べていくのに対して、渡辺は「そんなの結婚してみたらいっぺんでわかるよ」と、見方によっては、セクハラ的な応答をする。もちろん、「親と子の関係、日本人の子育てのあり方」といった問題へと敷衍させていくのだが、他の参加者から、「結婚して子どもを産んだら、そこでキャリアが止まってしまうのではないか」と心配する女性もいるのだという発言があり、渡辺は、「女性も子育てをしてせっかくのキャリアを途中でやめたくないと言う。やめていいじゃないですか。でも僕は役所に入ったら、絶対出世なんかしたくないですよ。出世したって何がいいのか」と述べていく。わたしもまた、この渡辺のキャリアや出世なんて関係ないよという見方に同意する一人ではあるが、しかし、子どもを産み育てるということが、人間にとって自明のことであるのかどうかという問いは、ここでは、保留にされているという気がする。いまは、男性の側にも育児休暇を認める会社もあると聞くが、まだまだ現状では、圧倒的に女性側に子育ての負荷(そういういい方を敢えてしてみたい)がある以上、少子化対策が福祉としての対象となっていることと相俟って、ことは、そう単純ではないようだ。
 続けて、「学校は権力装置か」、「『発達障害』という名前をつけることによって忌避される問題」、「帰国子女における帰属意識」、「国際協力に対する考え方」、「社会福祉、看護系への就職における障壁」、などがテーマとして応答されていく。津田塾大学多文化国際協力コース・三砂ちづるゼミの生徒と卒業生たちが二日間にわたって、渡辺京二と過ごした時間を纏めたものが、本書の成り立ちである。だが、最後に配置された、渡辺の長い発言のなかにある次の様な箇所が、彼女たち、あるいは、現在の若い人たちが置かれている情況的な難渋さを切開していく手立てのための視点を語っていて印象的だった。
 「人間というものは、何も社会から必要とされるとか、社会のために役立つとか、そのために生きてるんではない。せっかく生んでもらった自分のこの生命というものを、生き延びさせていくということが、それ自体で、価値があることなんですね。だからそれを一番に考えればよろしいと思います。(略)みんな一人一人生きたい、生きたいと思っている存在である。だとすると、お互いのそれぞれの思いをどう生かすかが問題ですね。(略)他者との関係をどうしていったらいいのかということは、思想の問題であると同時に、実践の問題である。(略)ごく一番最初にやるのは、自分は生きてよいのだということ。自分があってこそ他者が出てくるということ。自分がなくて他者、社会のためにとか、人のために役立つとか、そんなことはないの。まず自分をよく生かしなさい。」
 三砂ちづるには申し訳ないが、わたしには、どうしても「多文化国際協力」なるテーマが分からないというか、あまり身近には思えないのだ。いま、大学の学科を見ていけば、「国際」と冠するものが多いような気がする。そうしないと学生が集まらないとも聞く。既に、グローバリズムというものが、虚妄なものであったことは明白である。それでも、新たな国際関係の構築をと指向していくことの是非は、初めからわたしのなかにはない。渡辺が力説しているように、なによりも、身近な関係性の方が、はるかに切実なことであると、わたしもまた思い続けている一人だからだ。

(『図書新聞』12.2.4号)

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