« 2011年4月3日 - 2011年4月9日 | トップページ | 2011年5月8日 - 2011年5月14日 »

2011年4月15日 (金)

「情況」的場所へ(11)―浮遊する〈かくめい〉―

 永田洋子の〈死〉が、伝えられた。享年65ということになる。長らく闘病していたことを知っていただけに、とくに衝撃を受けるようなことはない。むしろ、連合赤軍の最高幹部の二人の〈死〉の間に、三八年という時間性が横たわっていることが、少なからず感慨を覚える。思えば、わたしにとって、森恒夫の〈死〉は、鮮烈な印象とともにあった。73年一月一日の夜のことだった。わたしはテレビで、『緋牡丹博徒・お竜参上』(70年・東映、監督・加藤泰)が放映されていたのを見ていた。当時は、もちろん、DVDやVIDEOが、一般家庭で普及している時代ではない。映画館での再上映も、限られたものでしかなかったから、好感を抱いた映画作品がテレビ放映されて再見できることは、またとない機会だった。この映画作品には、お竜(藤純子)と青山(菅原文太)の今戸橋での別れという印象深い場面があるのだが、その場面になった時、突然、ニュース・テロップが流れたのだ。それは、森恒夫の獄中での自死(享年28)を伝えるものだった。まさしく「死という別れ」ということになる。一連の連合赤軍事件というものの残滓が、まだ、生々しく、漂っていた時だったから、わたし(たち)の衝撃は、大きかった。それにしても、この局のテレビ・プロデューサーは、なぜ、あえて、この抒情性が溢れる場面で、森の自死のニュース・テロップを流したのかと、思ったものだった。幾らか、強引にわたしなりの感慨を述べてみるならば、加藤泰の描く「橋」が、一人の若者の自死を情況の深奥へと架橋させて欲しいという思いを込めたのだといっていいような気がする。
 その時間帯、別番組を見て、森恒夫の〈死〉を知った人も、当然多くいる。歌謡番組のなかで、そのことが報じられたのを見た時のことを、吉本隆明は、次のように記している。
 「年頭、テレビの歌謡番組を視かかっているとき、連合赤軍の森恒夫が独房で自殺したことが報じられた。司会の前田武彦は、芸能アナウンサーが紙片をみながら、それを知らせ終わったとき、〈この連中は死ぬときまで嫌味だねえ〉と口走った。一瞬、時間が尖り、そして次の瞬間には、新年歌謡番組おあつらえの雰囲気にかえった。しかし、前田のような男に、一瞬、〈私怨〉を想起させ、芸能界の寄生虫である分限を忘れさせた、だけでも森恒夫の死は〈嫌味〉ではない。人間は他者を、党派は、別の党派の、思想にたいして拒絶反応を示す自由をもっている。(略)芸能ガキを相手にタクトを振るのを商売にしている前田武彦にも、森恒夫の、新年おめでた最中の自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある。しかし、この権利は、商売自体が〈嫌味〉である前田武彦の存在を、正当化しはしないのである。/森恒夫が、首を吊って死んだ。この〈事実〉だけが重要なのだ。決して〈死〉が重要なのではない。」(「情況への発言(一九七三年六月)」―『「情況への全発言」全集成1』所収)
 わたしは、マエタケのつまらない司会による番組を見なかったことがつくづくよかったと思う。吉本は、他者に対して「拒絶反応を示す自由を」誰もが有するという前提で、「前田武彦にも、森恒夫の」「自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある」と見做しているが、わたしには、マエタケの「嫌味だねえ」という語感に含まれているものは、たんなる拒絶反応を超えたものが感じられてならないのだ。明らかに、彼ら(森や永田)の壮絶な内部抗争に対する表層的な嫌悪感が、そこにはある以上、その表層性を剥ぎ取りたい欲求をわたしは抑えることができないのだ。
 「永田死刑囚は84年7月に脳腫瘍と診断され手術を受けた。06年3月には再手術を受けたが昏睡状態となり、同年5月に八王子医療刑務所に移された。約1年後に東京拘置所に戻されたが、脳萎縮の状態だった。今年1月下旬に多量の嘔吐とともに血圧や心拍数が低下。酸素吸入などをしていたが、今月5日午後に心停止状態になり、夜に死亡が確認された。」(「毎日新聞」11年2月7日付・朝刊)
 永田洋子の〈死〉もまた、ひとつの〈事実〉に過ぎないとしても、この五年ほどの時間性は、どんな断面を切り取ることができるのだろうかと考えてみる。「脳萎縮の状態」は、他者の視線から推察しうる問題ではないし、例えそのような状態の人と対峙したとしても、言葉を繕うことは困難なことだ。面会に行った元メンバーの板東國男は、「脳腫瘍の悪化で、面会しても誰が来たのか分らないほどだった」が、意識がある時は、「連合赤軍の問題の総括は、まだまだ終っていない。もっといろいろな問題を考えなければならない」といっていたという(「東京新聞」同日付・朝刊)。しかし、彼らの革命運動の総括は、彼ら自身によってなされるためには、余りの時間性が経過しすぎている。いささか、諧謔的にいうならば、〈革命〉は、既に〈かくめい〉となって浮遊していることを自覚すべきなのだ。ところで、わたしは、永田個人への関心をこれまでほとんど向けることはなかった(だから、永田の獄中での手記『十六歳の墓標』や、『続十六歳の墓標』は、まったく読んでいない)。だが、彼女が獄中で描いていたイラストを“乙女チック”であることに、着目して、永田の心奥に切迫していった大塚英志の著作『「彼女たち」の連合赤軍』(96年刊)を後発世代からの〈総括〉として、率直に評価しながら受け取ったといってもいいのだが、そこで述べられていることで、わたしなりに、喚起させられたことは、高校時代に『源氏物語』の読者会をしていたことと、そのためだったのか、獄中で永田は大和和紀の『あさきゆめみし』から模写していたということだった。だからといって、わたしは、大塚のように女性性の問題へ分け入っていくことはしたくないのだ。むしろ、『源氏』と永田との意外な邂逅にこそ、関心を抱いてしまうといっていい。正直にいえば、わたしは『源氏』を活字(原文はもとより訳文も含め)で読むことに頓挫した方だ。結局、旧知の源氏学者・藤井貞和が推奨する『あさきゆめみし』(全13巻)を読んで、『源氏』を理解したつもりでいたし、漫画作品としても、『あさきゆめみし』が湛えている豊穣さに圧倒されたことは確かであった。いま、ここで『源氏』論をする余裕はないが、例えば、山岳アジトでの女性活動家たちへの「性」をめぐる追求と、『源氏』に共感していた永田というように、短絡的に繋げて、訳知り顔で分析することもしたくはない。ただ、永田洋子が『源氏』に関心を抱いていたということだけに、ひとつの類推を収斂させたいだけなのだ。それは、太宰がいうような、〈革命〉と、〈かくめい〉の差異から生ずる空隙とでもいうべきことの問題に関わっていくことでもある。
 「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。」(太宰治「かくめい」)
 チュニジアやエジプトで、市民による反政府デモによって、二十年、三十年という長期独裁政権が崩壊したことを、メディアは革命と称して報道している。思い起こせば、一昨年のわが国の政権交代を革命とする錯誤した言説が、メディアなどに流れたものだった。わたしは、チュニジアやエジプトの叛乱の実態を、メディア媒体でしか知らない。だから、エジプトに関していえば、アメリカが素早くムバラクに引導を渡したこと、軍部中枢が暫定的とはいえ権力を掌握したことなどから、これは、革命でもなんでもなく、ただの政変ではないのかといいたくなるのだ。かつて、といっても四十年以上前、内村剛介は、「革命の名に値する革命をわれわれはまだ持っていない」と述べたことがある。それは、いまでも、同じだなとわたしは思っている。せめて、革命ではなく、〈かくめい〉という場所へ、到達できないものなのかと、夢想する自分がいる。

(『月刊架空』11年1月号)

| | コメント (0)

« 2011年4月3日 - 2011年4月9日 | トップページ | 2011年5月8日 - 2011年5月14日 »