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2011年12月20日 (火)

浮遊する方位――つげ義春漫画と〈酒〉的場所

 つげ義春の漫画に「西瓜酒」という作品がある。作品歴でいえば、初めて『ガロ』誌(つげ義春は、周知のように、それまでは貸本漫画を中心に仕事をしていた。『ガロ』に作品を掲載するようになってからも、しばらくは貸本漫画も並行して描いている)に発表したのが、「噂の武士」という作品で、六五年八月号であった。続いて同年十月号に掲載されたのが、「西瓜酒」であった。さらに、十二月号には「運命」が描かれているのだが、三作品とも、“時代物”である。つげ義春という作家の名を衝撃的に知らしめた記念碑的作品「沼」は、翌年の二月号誌上に掲載されたものだ(一月号には、やはり“時代物”で「不思議な絵」という作品を、三月号では「チーコ」、四月号に「初茸がり」と、この頃は、毎月のように作品を発表しているが、以後、一年近く新作は掲載されることはなかった)。
 「西瓜酒」は、浪人とおぼしき主人公の人物が、友人の住まいを訪れるところから始まる。「ケイキは/どうだ」という問い掛けに、「失業者に/ケイキも/ヘチマも/あるか」と応答するところは、時代物であるにもかかわらず、妙にリアルな描写となっている。持参した土産の西瓜を差し出すと、「おれんとこへ/来るときはな/一升ぶらさげ/て来るのが/礼儀って/もんだ」と友人はいう。それに対して、なぜ、西瓜を持ってきたのかを主人公の浪人は語りだす。夢の中で大儲けしてお金が手に入った余裕で、同じように友人の所に西瓜を持参したが、留守だったため、西瓜に儲けた小判を一枚刺して帰ったところで、夢から醒めたという。その不思議な夢を天啓として、西瓜酒を思いつき、これで大儲けができるはずだと考え、友人の下へと訪ねて来たという。そして、実際に持参した西瓜には、穴をくりぬいて、中に酒を仕込んであったのだ。これを作って売れば、大儲けできると二人は、大いに活気づき、持参した西瓜酒で、なぜか、“チャンチキおけさ”を歌いながら酔いしれていくという物語だ。ただし、最終頁の下段に、「その後の二人が/大金持ちになっ/たという話はき/かない……/なぜなら西瓜は/夏にしかとれな/いからだ」という作者のモノローグが付されている。
 後に、「西瓜酒」という作品を振りかえって、つげ義春は、「貧乏人のちょっとしたやり切れなさみたいな、やけっぱちな感じを出したかった」と述べながら、「ただふたりが騒いでいただけという作品、その方がなんか良かったと思うんですよ。あれだと、モノローグが入ったためにオチをつけたようなもんで、つまらないんですよね。あのオチがなかったら不思議なマンガになるはずだったんですけれども」(つげ義春・権藤晋共著『つげ義春漫画術・下』)と語っている。
 わたしは、「西瓜酒」という作品を前にして、かつて不思議な感慨を抱いたことを覚えている。それは、西瓜に穴を開けて、そこに酒を仕込んで、それを飲むということの、不可解さ、意外さを感じたからだ。何々酒とよく称されるものは確かにある。だが、理にかなった飲み方としてある程度、納得できるものが、ほとんどである。では、西瓜酒はどうだろうか。作中、「西瓜の/甘味と/香りが/まじって/るんだ」、「こ こんなに/うまい酒/はじめてだ」、「今度は/甘瓜を/クリ抜いて/作ってみよ/うと思う/んだ」と二人に語らせている。わたしは、『ガロ』を購読し始めたのは、高校生の時(六五年以降)であるが、「沼」には、強い印象が残っていても、「西瓜酒」という作品のことは、あまり記憶に残っていない。たぶん六八年に出た「つげ義春特集」の増刊号で、初めて接したことになったのだと思う。まだ、十八歳だったわたしが、〝酒〟のなんたるかを承知していたわけではないから、西瓜と酒のマッチングにただ不思議な感慨を抱いたとしても無理はない。もとより、漫画作品に限らず、生み出される作品が、リアルなことを基調とすべきだなどといいたいわけではないが、西瓜と酒を連結させることの意味を考えてみるならば、そこには、実体性から離れた、感覚的なイメージがより濃厚にあるのはいうまでもない。そうであれば、西瓜酒というある種荒唐無稽なイメージには、確かに、「やり切れなさ」と「やけっぱちな感じ」が、メタファーとして滲み出ていると、捉えることができるかもしれない。
 わたしが、「酒」という場所から、つげ義春漫画を遠望する時、真先に思い浮かべる作品は、「チーコ」と「もっきり屋の少女」(『ガロ』六八年八月号)である。
 「チーコ」は、漫画家の主人公と同居女性との関係性の襞を、飼っていた文鳥(チーコと名付けられている)の死を通して描出した作品だ。作中、同居女性が、酔って帰宅する場面は、二人の関係性の抜き差しならない暗渠を示して、深い印象を与えている。主人公の男が駅まで迎えに行くのだが、二時間以上待って、ついには終電の時間まで、彼女は帰って来なかった。心配しながら帰宅してみると、倒れたままの彼女がいる。男は、すかさず、女を問い詰めていく。
 「酔って/るのか」「まっ赤/じゃ/ないか」、「胸がドキ/ドキして/苦しい」「顔が/はれてる/みたいよ」、「なぜ/飲めも/しない/酒なんか」、「しかたない/わよお客/さんの/つき合いだ/もの」、「いつもは/絶対/飲まな/いくせに」、「今日は特別だっ/たのよはじめて/私を指名して/くれたお客/さんだもの」、「もの/好きな客も/いるものだ」、「その人テンデ/カッコいいんで/やんの/あんたと同い/年で車な/んか乗り/まわし/ちゃってさ…」、「それで/いままで/つき合ってたのか」、(略)「新宿へ出て/そこで飲まさ/れてそれから/少しドライブ/したのよ」、「どこ/まで」、「よく/わからない/道が暗かっ/たので」、(略)「へん/あやしい/もんだ」、「へんな/いいかた/しないで/ちょうだい」「そんなに私の/ことが気に/なるの/なら早く/お店を/やめさせ/てよ」「ほんの/一時しの/ぎと/いった/くせに」「アーッ/くやしい!」
 こうした遣り取りの後、女は布団に潜り、男は一人で食事をする。酒の勢いというものがあるに違いない。あるいは、酔ってつい本音が出るということもあるはずだ。しかし、二人のような齟齬は、嫉妬心や猜疑心を孕みながらも、対的な関係性においては、しばしば訪れるものだといっていい。齟齬を齟齬として時間性の只中に置きながら、関係は持続することもあれば、断絶することもある。ならば、酔うということは、何かを喚起してしまうことになるのかもしれない。さらにいえば、酔うということ、つまりどこかへと浮遊していく、そのことが、関係性を逸脱してしまうことの必然を内包してしまうのだといい換えてもいい。「チーコ」における二人の関係性が、ある種のシリアスさというものを潜在させているのは、酒を介在させることで、男女のエロス性をひとつのメタファーとして表出させているからだと、わたしには思われる。「いままで/つき合ってたのか」と問い詰めて、「あやしい/もんだ」という疑念を相手に突きつける。酔って帰ってきただけで、男女のエロス性を過剰に妄想して、疑心暗鬼となる男側の心性は、一方的なものであり、それは、男性自身の心的弱さの裏返しでもある。
 現在のところつげ義春作品で最も新しい「別離」(『COMICばく』八七年六月号、九月号)では、「チーコ」におけるモチーフをさらに発展させ、主人公の男の像を、徹底して内閉化へと向かわせている。家賃を滞納したため、アパートを出ることになり、二年間、「生活を共にした国子と」、別居するところから、物語は始まる。国子は、「ある会社の寮の/賄婦として/住み込むことに」なるわけだが、やがて、国子が他の男と関係したことを知り、衝撃を受け、男は自暴自棄になり自殺しようとする。睡眠薬と酒を併用すると効果があると知り、友人の馴染みの店で、コップ酒を飲ませてもらう。下宿に帰りプロバリンを八十錠ほど飲み、昏睡状態に陥る。心配した友人が、早めに発見したため、命に別状はなかったが、孤絶感は癒されることはなかった。この作品では、酒が放つ浮遊性を存在の断絶のために使われたことになる。
 「西瓜酒」のやり切れなさを漂わせる諧謔(ユーモア)、「チーコ」や「別離」のシリアスさといったものが、つげ義春漫画における〈酒〉的場所の象徴的な表象であるとしても、多くの作品で描出される〈酒〉に纏わる場面は、穏やかなイメージを喚起するものとなっている。
 「長八の宿」(『ガロ』六八年一月号)の旅館で飲む酒、「ほんやら洞のべんさん」(『同』六八年六月号)では、囲炉裏を前にして静かに酒を飲む“べんさん”、「庶民御宿」(『漫画サンデー』七五年四月十九日号)の何人かで飲むウイスキーといったことが、直ぐに想起される。また、「会津の釣り宿」(『カスタム・コミック』八〇年五月号)は、持ち込んだウイスキーを旅館の主人に飲まれてしまうというエピソードが、面白い。これらの作品は、“旅物”と呼ばれる系列の作品群であるが、空間的な拡がりによって、ある意味〈酒〉をめぐる挿話は、穏和な位相を有することになる。
 もうひとつ、つげ義春漫画において、構図的配置の〈酒〉というものがある。いずれも、作品中、極めて重要な場面として、それはあるといっていい。
 「ねじ式」(『ガロ』六八年六月臨時増刊号)では、少年が産婦人科の女医を探すため、彷徨いながら、「先生!」「シリツ/をして/下さい」というカットの次に、軍艦が発砲するという外の風景が見える部屋で、着物姿の女医は、テーブルの上に銚子と杯を起き、「ここは/男のくる所では/ありません/私は/婦人科医/ですもの」という場面がある。ここでは背景の軍艦とともに、前方にある銚子と杯の配置が、女医の存在性を際立たせていると解することができる。しかも、銚子と杯は、絵画における静物的なものとして存在化されているのだ。
 「窓の手」(『カスタム・コミック』八〇年三月号)は、主人公が上着のポケットに両手を入れながら、窓から燈台が見えるカウンターのような所に佇み、ビールかウイスキーの瓶とグラスが、「ねじ式」と同じように静物画的な置かれかたをしている。「窓の手」という作品が持つ、超現実的な基調を、このカットの中に、集約して示されているといえるはずだ。
 「蒸発」(『COMICばく』八六年十二月号)は、元越後長岡藩士ともいわれる流浪の俳人・井上井月の半生をモチーフとしている。伊那谷に流れ着いた井月が、もてなしを受けて、銚子を左手に持ち、右手の人差し指で杯を立てて、「千両/千両」という場面が、これもまた、構図的配置の〈酒〉といっていい。次のカットが、凄い。銚子を倒して酔いつぶれている井月を捉え、「だが/無類の/酒好きで/強酒では/なかったが/すぐ泥酔/し」「下痢/寝小便を/もらすことも/あった」というモノローグが付される。つげ義春が描出する井月と酒のシークエンスは、明も暗も超脱する虚無的な位相を湛えていると、わたしには思われてならない。一見、「千両/千両」と諧謔的に発する振舞いは、生と死の境界を無化する方位へと自らの感性を引き寄せていることを意味している。そして、この井月の諧謔的振舞いの描出は、辞世の句といわれている「何処やらに鶴の声きくかすみかな」の一句を見事に描出される後半部へと繋がっていくことになるのだ。
 「もっきり屋の少女」という作品の少女・コバヤシチヨジは、「沼」から始まり、「紅い花」へと至る、一連の少女像と連結している。そのことが、これまでこの作品に、多くの読者が魅了され続けてきた事由のひとつでもある。“もっきり屋”とは、一杯飲み屋といった意味あいがあるわけだが、この飲み屋をチヨジという少女が、一人で切り盛りしている健気な力強さのようなものによって、この作品を際立たせている。そして、不思議な話し方、あるいは方言が、つげ義春という作家の綺譚力によって、魅惑溢れる世界となって現出しているのだ。
「私は小さい頃に生国を離れて、耳に珍らしい他郷の言葉の中で育ったのみならず、学校や旅やまた都府の社交において、さまざまの人の物言いを比較するような機会を、誰よりも多くもっていた。単なる人生の切れ切れの知識として、これが何かの役に立つということに気づかぬ前から、方言はすでに私の一つの興味であった。」(柳田國男『方言覚書』)
 柳田の時代の「方言」は、標準語教育との確執の狭間にあった。しかし、方言とは、「さまざまの人の物言い」と捉えてみるならば、話し言葉を標準化・平準化することの意義は、「多様性」を否定していくことに他ならない。話し方、考え方は、ほんらい一人ひとりの個に由来すべきであると、わたしは思っている。もちろん、ひとつの共同性のなかに在る時、共通の言葉、共通の感性というものが内在するのは当然だとしても、言葉によるコミュニケーションとは、個から他者(たち)へと発生するものである以上、ひとそれぞれの「物言い」となるはずであり、そうであるべきなのだ。
 つげ義春は、自作を振り返りながら、作品の発露としては、方言への関心があったようだが、むしろ「言葉と意識の関係」についての思いがあったと述べている。
 「『もっきり屋の少女』は方言というより言葉についてということを考えていたんですよね。単純な言葉づかいする者の意識ですね。その事をちょっと頭において描いたんですよ。この少女が二、三度、『みじめです』、何聞いても『みじめです』っていうんです。そういう単純な言葉で自分の気持ちをあらわすということ、その辺の言葉と意識との関係みたいなことが頭にあったんですよ。(略)少女のヒントになった大多喜の宿屋の女の子なんですけど、(略)ぼくはどてらを着て寝ようとしたら、彼女がどてらを着て寝ると『切ない』って言ったんですよ。『切ない』という言葉は普通そういうところでは使わないですよ。どっちかというと哀しいニュアンスですよね。モコモコして寝苦しいという意味だったらしいのですが。/そういう言葉づかいをぼくは面白いと思うんだけれど、単純な言葉づかいですべてを表してしまうような意識、そういう言葉と意識の関係について、『もっきり屋の少女』ではわりと意識して描いたんですよね。」(『つげ義春漫画術・下』)
 ここでいう、「切ない」という発語は、言葉の持つ深い位相を象徴しているといっていい。言葉が感性(あるいは心性)を表すものだとしても、身体性と切り離しての発語はありえない。だから、古語的な世界、あるいは方言的世界というものが、言葉の発生・祖型を内包しているということを前提とするならば、この場合「寝苦しい」という意味を持つ身体的「切ない」が転じて、心的で“哀しいニュアンス”を持った「切ない」となったと考えた方がいい。そもそも、表現・伝達としての言葉とは、単純でシンプルなものであるはずだ。文字も言葉もないかたちでのコミュニケーションの方が長い時間性を有してきた人類史において、身体的表出が通交のための重要な手段であったはずだ。身体言語から表現言語への展開が、プリミティブな関係構築を徐々に解体していったと考えられる。つげがいうように、「単純な言葉で自分の気持ちをあらわす」ことこそ、むしろ、現在のような只中では切実なこととしてあるといっていいかもしれないのだ。
 「むげいの家の/お父っつあは/きぐしねくて/やんだおら」、「そんなに物の/道理がわからん/オヤジなのかね」、「きぐし/ねいです」
 旅人とチヨジとの遣り取りである。「きぐしね」とは、「気癖」の変形だろうか。気難しいとか、短気とか、ひがみっぽいといった資質を指すのかもしれないが、主人公の旅人は、物の道理がわからないことと理解していることを思えば、そういう意味なのかもしれない。物語のうえでは、「きぐしねい」父は、チヨジにとって義理の父を意味していて、実母は、“むげいの家(向かいの家)”で同居しているという設定のようだが、なぜか、もっきり屋をチヨジ一人に任せているということになる。チヨジは、そういう自分の身の上を、「私は/一銭五厘で/買われて来た/のであります」「皆んなが/そういうんで/あります」「私は/みじめな/少女です」といって旅人に語っている。もちろん、「一銭五厘で/買われ」たというのは、ひとつのメタファーだったとしても、かつて(戦前)、わが国の寒村では、頻繁にあったことなのだ。しかし、「みじめな/少女」チヨジは、健気なのだ。旅人にお酌して、「きみはなかなか/慣れた手つきを/しているね」といわせている。そして、旅人は、「コバヤシさん/一パイやり/ますか」といって少女・チヨジにお酌をする。チヨジの切り返しは、「母ちゃん/一パイ/やっか」「アハハハハ/面白い/ね」と快活だ。そして、黙って旅人の手を自分の胸へと誘っていく。吃驚する旅人は、「おいおいきみは/こんな真似をだれに/教えられたの/かね」といって怒ってしまう。チヨジは、ただ「怒った/ので/あり/ますか」と怪訝な顔をして答えるだけだ。そして「自分の/境遇を/なんとも/思っては/いないのか/ね」という問い掛けに、チヨジは「みじめ/です」という。このような応答は、どこか異郷の物語として、わたしたちに直截な共感性を迫ってきて、チヨジが住まう〝もっきり屋〟は、ひとつの理想郷のような場所に思えてくる。しかし、この作品へのつげ義春の視線は、かなり鋭角的なのだ。
 「(略)旅人として地方に出掛けて行ったとき、とても入れないんですよ。そういうことは自覚して描いていましたけれど。現実にこの少女はこの土地で生活しているわけですから。生活者ですから、『沼』とか『紅い花』の少女とちがいますよね。(略)『長八の宿』のジッさんとか『ほんやら洞のべんさん』とか、自然のままに生きている人への共感というのがあったわけですよね。『もっきり屋の少女』にきて、共感したところで所詮は自分は都会の人間であって、追い出されてしまう、入っていけないということを確認してしまったんですね。」(『同前』)
 わたしたちにとって、都合のいい理想郷のイメージは、解体されていいのだ。つげ義春は、この作品以後、一年半近く作品歴に空白をもたらしている。思えば六八年から六九年という時制に、それは照応していた。

(『塵風』第4号・11.12)

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