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2011年9月25日 (日)

池澤夏樹・坂本龍一他著『脱原発社会を創る30人の提言』(コモンズ刊・11.7.15)

 3.11の東日本大震災は、想像を絶する自然災害であったと同時に、独占資本権力・東電による理不尽な原発事故という人災を露出させたことになる。それから六ヶ月以上の時間が経過しているにもかかわらず、いまだ大きな余震が発生し、復旧・復興はといえば、声だかに叫ばれながらも、遅滞した様態を依然示し続けている。そして、なによりも、福島第一原発事故による、放射能汚染並びに被曝の恐怖と終息の見通しの立たない現実というものが重くのしかかったままなのだ。たらればをいえば、きりがない。しかし、水素爆発が起きた時に、放射線予測システムSPEEDIを活用した速やかな退避勧告を福島の人たちに、なぜできなかったのかということだけは、憤りに堪えない。画期的な政権交代を成し遂げた民主党政権(菅政権)の最大の犯罪がそのことだと、敢えて、わたしはいっておきたい。
 原子力の平和利用、CO2を排出しないクリーンエネルギー、水力・火力に比べてコストが安い、しかも安全だなどといったデマゴギーを駆使して推進してきた原子力発電の虚構の神話が、ここにきて、いっきに崩壊したといっていい。わたしは、これまで原発に依存してきた社会だったとは見做してはいないが(原発に依存している社会だと、わたしたちをマインドコントロールしてきたといった方がより正確なはずだ)、少なくとも原発をめぐる「電官政学報の『ペンタゴン』(五角形)」(坂本龍一)システムが、わが国の支配体制の構造と密接にリンクしてきたことは、確かだと思っている。福島第一原発事故によって、多くの人たちが、原発に対してNoと言い出し、「脱原発社会」という方位へと視線を向け出したことは、大いに歓迎すべきことである。こうした情況のなか、本書は、様々な分野における30人の考え方を纏め、「脱原発社会」へ向かうべく刊行された提言集である。
 「脱原発社会」という時、そもそも原発とは何だったのかということに収斂せざるをえないはずだ。使用済燃料を永久的に処理が出来ない「原子力は人間の手に負えないのだ。フクシマはそれを最悪の形で証明した」(池澤夏樹)という象徴的な言辞から、「原発を推進しようというのはなぜか。(略)ひとつには、軍事目的があると思います。よく言われるように、プルトニウムを確保して、いつでも核武装できることを世界に、地域に誇示すること。もうひとつは、お金でしょう。自分たちに都合のいい法律を作って、原発を造れば造るだけ儲かる体制を整え、好きなだけ電気代と税金として国民からしぼりとり、そこにハイエナのように群がっているわけです」(坂本龍一)といった捉え方や、「原発は、その出自からして核武装を究極の目標とした軍事的装置です。平和利用は見せかけにすぎません。事実、日本は原発の運転によって核兵器の原料となるプルトニウムを大量に保有し、各国から『日本はいつか核武装する気ではないか』と懸念されています」(高橋巌)というように、「核」と「原発」はまったく同義であるということになる。この視線を前提にしない限り、「脱原発」への道筋へは辿れないといっていい。ところが、電力会社各社や原発推進派、維持派は、原発を止めると電力供給量が足りなくなるといったレトリックを弄し続けている。計画停電といった究極の恐喝手段は、もう取れないとみるや、節電を必死になって喧伝しているのが、現状だ。
 「発電所の設備能力を見るかぎり、原子力発電はいますぐ止めても困りません。(略)発電所の設備能力で見ると、原子力は全体の18%しかありません。その原子力が発電量では28%になっているのは、原子力発電所の設備利用率だけを上げ、火力発電所の多くを停止させているからです。原子力発電が生み出した電力をすべて火力発電でまかなったとしても、なお火力発電所の設備利用率は7割にしかなりません。それほど日本では発電所は余っていて、年間の平均設備利用率は48%にすぎません。(略)私が言いたいのは、電気が足りようが足りなかろうが、原発は即刻、全廃すべきだということです。(略)現在、地球温暖化問題の重要性が喧伝され、それを防ぐためには原子力が必要だなどという途方もないウソが流されています。地球温暖化、もっと正確に言えば気候変動の原因は、日本政府や原子力推進派が宣伝しているように、単に二酸化炭素の増加にあるのではありません。」(小出裕章)
 あえて極端なことをいえば、節電も、早急な代替エネルギーの構築も、とりあえずは、必要がないということになる。それでも、いままでの「暮らし方」を再考すべき段階に差し掛かっていることは、明らかだと思う。
 「一人ひとりの生き方で言えば、『農的くらし』を心がけるということです。『農的くらし』とは、くらしの場で自分の必要な食糧やエネルギーをできるだけ自給することです。(略)仮に都市に住み続けたとしても、『農的くらし』を諦めることはありません。従来の都市空間を解体し、そこに農的空間として再生させる新しいプロジェクトが、都市には必要だからです。どこにあっても、そこで最善を尽くせば、そこはその人の『故郷』になります。」(明峯哲夫)
 だからといって、ライフスタイルを何十年前かに戻すといったことを、わたしはいいたいのではない。3.11を奇禍として「身の丈に合った」(斎藤貴男)社会を再構築していくべきなのだ。

(『図書新聞』11.10.1号)

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