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2011年4月15日 (金)

「情況」的場所へ(11)―浮遊する〈かくめい〉―

 永田洋子の〈死〉が、伝えられた。享年65ということになる。長らく闘病していたことを知っていただけに、とくに衝撃を受けるようなことはない。むしろ、連合赤軍の最高幹部の二人の〈死〉の間に、三八年という時間性が横たわっていることが、少なからず感慨を覚える。思えば、わたしにとって、森恒夫の〈死〉は、鮮烈な印象とともにあった。73年一月一日の夜のことだった。わたしはテレビで、『緋牡丹博徒・お竜参上』(70年・東映、監督・加藤泰)が放映されていたのを見ていた。当時は、もちろん、DVDやVIDEOが、一般家庭で普及している時代ではない。映画館での再上映も、限られたものでしかなかったから、好感を抱いた映画作品がテレビ放映されて再見できることは、またとない機会だった。この映画作品には、お竜(藤純子)と青山(菅原文太)の今戸橋での別れという印象深い場面があるのだが、その場面になった時、突然、ニュース・テロップが流れたのだ。それは、森恒夫の獄中での自死(享年28)を伝えるものだった。まさしく「死という別れ」ということになる。一連の連合赤軍事件というものの残滓が、まだ、生々しく、漂っていた時だったから、わたし(たち)の衝撃は、大きかった。それにしても、この局のテレビ・プロデューサーは、なぜ、あえて、この抒情性が溢れる場面で、森の自死のニュース・テロップを流したのかと、思ったものだった。幾らか、強引にわたしなりの感慨を述べてみるならば、加藤泰の描く「橋」が、一人の若者の自死を情況の深奥へと架橋させて欲しいという思いを込めたのだといっていいような気がする。
 その時間帯、別番組を見て、森恒夫の〈死〉を知った人も、当然多くいる。歌謡番組のなかで、そのことが報じられたのを見た時のことを、吉本隆明は、次のように記している。
 「年頭、テレビの歌謡番組を視かかっているとき、連合赤軍の森恒夫が独房で自殺したことが報じられた。司会の前田武彦は、芸能アナウンサーが紙片をみながら、それを知らせ終わったとき、〈この連中は死ぬときまで嫌味だねえ〉と口走った。一瞬、時間が尖り、そして次の瞬間には、新年歌謡番組おあつらえの雰囲気にかえった。しかし、前田のような男に、一瞬、〈私怨〉を想起させ、芸能界の寄生虫である分限を忘れさせた、だけでも森恒夫の死は〈嫌味〉ではない。人間は他者を、党派は、別の党派の、思想にたいして拒絶反応を示す自由をもっている。(略)芸能ガキを相手にタクトを振るのを商売にしている前田武彦にも、森恒夫の、新年おめでた最中の自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある。しかし、この権利は、商売自体が〈嫌味〉である前田武彦の存在を、正当化しはしないのである。/森恒夫が、首を吊って死んだ。この〈事実〉だけが重要なのだ。決して〈死〉が重要なのではない。」(「情況への発言(一九七三年六月)」―『「情況への全発言」全集成1』所収)
 わたしは、マエタケのつまらない司会による番組を見なかったことがつくづくよかったと思う。吉本は、他者に対して「拒絶反応を示す自由を」誰もが有するという前提で、「前田武彦にも、森恒夫の」「自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある」と見做しているが、わたしには、マエタケの「嫌味だねえ」という語感に含まれているものは、たんなる拒絶反応を超えたものが感じられてならないのだ。明らかに、彼ら(森や永田)の壮絶な内部抗争に対する表層的な嫌悪感が、そこにはある以上、その表層性を剥ぎ取りたい欲求をわたしは抑えることができないのだ。
 「永田死刑囚は84年7月に脳腫瘍と診断され手術を受けた。06年3月には再手術を受けたが昏睡状態となり、同年5月に八王子医療刑務所に移された。約1年後に東京拘置所に戻されたが、脳萎縮の状態だった。今年1月下旬に多量の嘔吐とともに血圧や心拍数が低下。酸素吸入などをしていたが、今月5日午後に心停止状態になり、夜に死亡が確認された。」(「毎日新聞」11年2月7日付・朝刊)
 永田洋子の〈死〉もまた、ひとつの〈事実〉に過ぎないとしても、この五年ほどの時間性は、どんな断面を切り取ることができるのだろうかと考えてみる。「脳萎縮の状態」は、他者の視線から推察しうる問題ではないし、例えそのような状態の人と対峙したとしても、言葉を繕うことは困難なことだ。面会に行った元メンバーの板東國男は、「脳腫瘍の悪化で、面会しても誰が来たのか分らないほどだった」が、意識がある時は、「連合赤軍の問題の総括は、まだまだ終っていない。もっといろいろな問題を考えなければならない」といっていたという(「東京新聞」同日付・朝刊)。しかし、彼らの革命運動の総括は、彼ら自身によってなされるためには、余りの時間性が経過しすぎている。いささか、諧謔的にいうならば、〈革命〉は、既に〈かくめい〉となって浮遊していることを自覚すべきなのだ。ところで、わたしは、永田個人への関心をこれまでほとんど向けることはなかった(だから、永田の獄中での手記『十六歳の墓標』や、『続十六歳の墓標』は、まったく読んでいない)。だが、彼女が獄中で描いていたイラストを“乙女チック”であることに、着目して、永田の心奥に切迫していった大塚英志の著作『「彼女たち」の連合赤軍』(96年刊)を後発世代からの〈総括〉として、率直に評価しながら受け取ったといってもいいのだが、そこで述べられていることで、わたしなりに、喚起させられたことは、高校時代に『源氏物語』の読者会をしていたことと、そのためだったのか、獄中で永田は大和和紀の『あさきゆめみし』から模写していたということだった。だからといって、わたしは、大塚のように女性性の問題へ分け入っていくことはしたくないのだ。むしろ、『源氏』と永田との意外な邂逅にこそ、関心を抱いてしまうといっていい。正直にいえば、わたしは『源氏』を活字(原文はもとより訳文も含め)で読むことに頓挫した方だ。結局、旧知の源氏学者・藤井貞和が推奨する『あさきゆめみし』(全13巻)を読んで、『源氏』を理解したつもりでいたし、漫画作品としても、『あさきゆめみし』が湛えている豊穣さに圧倒されたことは確かであった。いま、ここで『源氏』論をする余裕はないが、例えば、山岳アジトでの女性活動家たちへの「性」をめぐる追求と、『源氏』に共感していた永田というように、短絡的に繋げて、訳知り顔で分析することもしたくはない。ただ、永田洋子が『源氏』に関心を抱いていたということだけに、ひとつの類推を収斂させたいだけなのだ。それは、太宰がいうような、〈革命〉と、〈かくめい〉の差異から生ずる空隙とでもいうべきことの問題に関わっていくことでもある。
 「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。」(太宰治「かくめい」)
 チュニジアやエジプトで、市民による反政府デモによって、二十年、三十年という長期独裁政権が崩壊したことを、メディアは革命と称して報道している。思い起こせば、一昨年のわが国の政権交代を革命とする錯誤した言説が、メディアなどに流れたものだった。わたしは、チュニジアやエジプトの叛乱の実態を、メディア媒体でしか知らない。だから、エジプトに関していえば、アメリカが素早くムバラクに引導を渡したこと、軍部中枢が暫定的とはいえ権力を掌握したことなどから、これは、革命でもなんでもなく、ただの政変ではないのかといいたくなるのだ。かつて、といっても四十年以上前、内村剛介は、「革命の名に値する革命をわれわれはまだ持っていない」と述べたことがある。それは、いまでも、同じだなとわたしは思っている。せめて、革命ではなく、〈かくめい〉という場所へ、到達できないものなのかと、夢想する自分がいる。

(『月刊架空』11年1月号)

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2011年4月 8日 (金)

イブン・イスハーク著 座喜純・岡島稔 訳・解説        『預言者の生涯 第二巻―イスラーム文明を創造した男の物語』(ブイツーソリュージョン刊・11.2.25)

 9.11同時多発テロから、十年が経過した。当時、イスラーム原理主義の組織、アルカーイダが引き起こしたとされ、わたしたちは、イスラーム教、イスラーム世界をめぐって、すぐさま関心を向けざるをえなかったといっていい。すでに、イスラエル・パレスチナ紛争というものが、何十年にもわたって、対峙情況が続いていたことを考えてみれば、アラブ・イスラーム世界は、政治的問題が宗教的位相と複雑に錯綜した断面というものを見せていることに、思い巡らすことは必然的なことであった。イスラーム教は、キリスト教、仏教と並んで世界宗教のひとつと見做されているわけだが、わたしたちは、そこに擬似的な文明性を偏在させ、イスラーム圏を後進域へ斥けてしまう視線を対置してしまっているといわざるをえない。例えば、9.11テロを予見したといわれたハンティントンの『文明の衝突』(96年刊)では、西欧文明対イスラーム文明、あるいは中華文明との対立・衝突を示唆していくものであったが、そもそも文明という概念自体、現在では破綻してしまっているにもかかわらず、そのような視線は、相変わらず欧米世界の優位性を潜在させたものでしかないのは、明らかである。わたしの少なからず知りえたイスラームとは、自爆テロを果敢に決起するといった苛烈な心情を胚胎していることに、その核心があるのではなく、ウンマという理想の共同体を描出していることにある。つまり、「『ムハンマドのウンマ』こそ神の下した真理を正しく地上に具現するものであり、正義の行われる理想社会の実現を目指し、神のよしとする祝福された聖なる共同体として、その全人類的使命が強調される」(平凡社刊『新イスラム事典』)というものだ。唯一神・アッラーフに絶対的服従を信とするイスラームならではの、ひとつの方位ともいえるし、イスラームが世界宗教とはいえ、場所性が西アジアから北アフリカへと連結していることに、そのことの証左を示しているといっていいかもしれない。
 本書は、アッラーフの啓示を受けて、神の使徒・預言者としてイスラームを説いたムハンマド(わが国では、マホメット、モハメッドなどと呼ばれてきたように、アッラーフも、アラーといった方が馴染み深い)の、八世紀に著された最古の伝記であり、アラビア語原典からの完全邦訳版である。ただし、わたしたちが、通例考える伝記とは、明らかに異貌な表出を湛えていて、いうなれば、伝承譚の集成といった色彩を放っている。訳者による第一巻での解説によれば、「それまでのアラブ史は」、「口承伝承を残すことによって形成されてきた」のだが、「イスラームの出現」によって「口承ではなく、文字として記録することが不可欠とな」り、「歴史の蓄積、継承、伝達において、アラブ民族の知的能力を飛躍的に向上させ」、「口承伝承から記述伝承へと、パラダイムの転換が起き」たという。わが国に視線を戻してみるならば、天皇伝ともいえる〝記紀〟が編纂されたのが、奈良時代であり、本書の原典が著された時期に照応していくことになるのだが、たんなる偶然なのだろうか。そのことを比較対照するのは、とりあえず留保するとして、本書へと分け入っていくならば、第二巻では、預言者となったムハンマドが、マッカ(メッカ)に住むクライシュ族との軋轢から、マディーナ(メディナ)へと移住し、先祖伝来の偶像崇拝を信ずるクライシュ族との三度の戦いを経てマッカを制圧し、イスラームの聖地とするわけだが、その最初の戦いである“バドルの戦い”までを描いている。そして、イスラームを異端視されるプロセスで、徐々にムハンマドの預言者としての膂力が輝いていく様が、伝承の断片を重層化させていくことによって、効果的に描出していく。象徴的なのは、ユダヤ教との確執の変遷だ。ムハンマドが、マディーナで、「ムハンジルーン(引用者註=ムハンマドとともにメッカからメディナに移り住んだ信徒たち)とアンサール(同=ムハンマドの教えに共感したメディナの住民たち)の関係を定め、その中でユダヤ教徒と友好的な協定を結」んだ文書には、「ユダヤ教徒は、信徒と共に戦うとき、戦費を分担しなければならない。アウフ族のユダヤ教徒(彼らの奴隷を含む)は、信徒と一つの共同体である。ユダヤ教徒にもムスリムにもそれぞれの信仰があり、それぞれの奴隷と個人の裁量があり、安全が保障される。しかし不正と罪を犯す者については、彼ら自身と彼らの家族を害することになる」とある。しかし、やがて、「神が御自分の使途を、ユダヤの子孫からではなく、アラブの子孫からお選びになったので、その事実に対する嫉妬、憎しみ、敵意から、ユダヤ教のラビたち(同=イスラーム教のウラマーと同じ宗教指導者・知識層)が使徒ムハンマドに敵対し始めた」ため、伝承者の言葉として、ユダヤ教徒たちは、「背信的で嘘を言う邪悪な民である」と述べられていく。「一つの共同体」であった友好的な関係から、敵対する関係になっていくプロセスが、既に八世紀に著したイスラームのテクストに記述されていることを知って、あらためて、イスラエル対アラブ・イスラーム間に横断する深い基層の亀裂に思いを馳せざるをえない。

(『図書新聞』11.4.16号)

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