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2011年1月29日 (土)

つげ忠男・菅野修・うらたじゅん他 著『幻燈 11』               (北冬書房刊・10.11.15)

 漫画・劇画作品のアンソロジー集『幻燈』の第11集が、一年ぶりに刊行された。なによりも、つげ忠男の61頁にも及ぶ新作「曼荼羅華綺譚」を発表したことは、ひとつの“事件”だといってもいい。この作品は、「Websiteつげ忠男劇場」に01年発表されたものを前半部として、『幻燈 第8集』(08年1月刊)に28頁分掲載された。本集掲載の作品は、その後半部・完結編ということになる。よく知られているように、つげ忠男は、貸本漫画歴数年を経て、八年ほどのブランクの後、『ガロ』(68年12月号)誌上にて、「丘の上でビンセント・ヴァン・ゴッホは」という作品で漫画家としての再スタートをした。そしていま、四十年後の新作でも、モチーフは、ビンセント・ヴァン・ゴッホである。この符号は、何を意味するのだろうか。もちろん、ゴッホという存在性にまつわる際立つ才能そして狂気といったイメージが、つげ忠男という作家性と共鳴しあうからだといえなくもない。本書収録の原マスミとの対談で、つげは、「思い切り遊んでいます。もうべたべたに遊んじゃおうかと思って」(「『幻燈展』トークイベント・つげ忠男の世界『曼荼羅華綺譚』にふれて」)と述べている。もちろん、ここでつげが述べる「遊ぶ」ということは、独特の抑制したいい方だといっていい。例えていえば、ゴッホに皮膜のように覆い被さっている狂気・才能、そして死というものを戯画化というよりも遊戯化して描出するということを意味していると、わたしには思われる。釣り場を探して彷徨っていた男が、風変わりな男女三人と出会い邂逅していく物語であるが、淡々と男と三人の通交が描かれながら、奇妙な三人の関係性が徐々に露になっていくというものだ。やがて寺の住職と同居する女性の二人は、火災によって焼死し、ゴッホのように耳を切り取ってしまった絵描きの青年が一人残されたところで、物語は閉じていく。まるで、「性」と「死」をめぐって戯れるかのように、つげ忠男の筆致が自在に遊戯しながら、作品は表出されていると感受できる。そして読後、不思議な心地よさのようなものを湛えていることに気づかされるのだ。
 うらたじゅんの「ホットケーキ」もまた、まるでつげ忠男に呼応するかのように、自在な遊戯性というものを醸し出している。ミホという少女の母が、誕生日のケーキを買うために本を売るところから始まり、結局、ケーキは買わずに、屈託なく快活にホットケーキを作って誕生会に来たミホの友人たちに振る舞う。一転して、ミホの友人のユカリに焦点を当て、ミホの母とは好対照と思われるユカリの母を登場させる。そんな母の子であっても、快活に犬を散歩に連れて行くユカリを追って作品は終えている。そこでは、隠されエピソードとしてミホの母の行動があるのだが、貧しいもの・富めるものという差異を、肩に力を入れることなく無化していく試みを、この作品はしている。そしてやはりいいようのない心地よさを感じさせるのだ。
 ネズ実の「夜の光沢」は、これまでの作品とは違い、ベタを多用し、空白とのコントラストが、画像から動態感を放出している、力感溢れる作品だ。
 角南誠の「水辺の憂うつ」は、孤独な少女と少年と犬をめぐる寂寥感湛えた作品だ。犬を捨てざるをえない少年、なぜか、少年と犬に関わる少女。河岸の橋の下での通交。いつもの作品同様、静謐に淡々と物語は進んでいく。しかし、少女が妊娠していること、自分の身の処し方に悩みながらも、犬を保健所に通報して処理を付託することによって、やがて自分の身も結着させることを暗示させながら、雨が降りしきる場面で終えている。少女(この作品では、少年が中学生なら、高校生のはずだ)は、少年に比べれば、いつでも大人なのだ。しかし、それでも、イノセンスな時期であることには、変わりはない。生命あることへの慰藉、そして不安・恐怖というものは、現在という時空において、誰にとっても依然、難題性から逃れることはできないものだといっていい。
 西野空男の「トンマな肉屋」は、不安神経症的迷宮の世界を遊戯していく。そう、この作品もまた遊戯だ。何かから逃れようとして隘路に入り、またそこから這い出ようとして、迷宮を彷徨う。電車はその象徴的なモメントだ。甲野酉の「甘い女」では、男女間における遊戯的迷宮を衝撃的に描出していく。男に寛容的に振る舞う女の深奥は、ここでは少女性のままの迷宮世界の母型であり、女の寛容性に甘える男の存在は、少年性(幼児性)から抜け出ることなく迷宮世界をただ漂流するだけだということになる。とすれば、「水辺の憂うつ」の少女と少年は、不安なる関係性の迷宮のとばくちにいることの予兆が示されているといっていいかもしれない。
 他に菅野修「こころにちょっと悩みのある人々に」、山田勇男「燃えるようなオレンジ色の閃光で囲まれた青い横顔」、藤宮史「或る押入れ頭男の話・街のなか」、おんちみどり「昨日の床」、海老原健吾「Mは自分の名を嫌う」、斎藤種魚「橋役人」、金ゐ國許「困惑の正体としての不愉快~少年王者館『ガラパゴス』雑感」が、収載されている。
 
(『図書新聞』3000号―11.2.5号)


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2011年1月22日 (土)

わが「演歌」考―藤圭子から椎名林檎まで

 わたしにとって、「歌」といえば、なぜか「演歌」のことを、すぐに思い浮かべてしまうのだ。だからといって、洋楽やポップな歌が嫌いなわけではないし、特に、ジャンルに拘ってこれまで「歌」を聴いてきたわけでもない。たぶん、自分のなかでは、いわゆる既存の「演歌」というカテゴリーを想起しているのではなく、「演歌」的なるものに魅せられているのかもしれない。ならば、「演歌」と「演歌」的なるものは違うのかと問われそうだが、わたしのなかでは、それは、似て非なるものなのだ。暴論を承知でいえば、山口百恵(特に宇崎竜童の楽曲)や中島みゆきの歌をわたしは、「演歌」として、つまり「演歌」的なるものとして聴いてきたといってもいい。このわたし自身の拘りを幾らかでも、素描していくことが、本稿の試みであり、そのことによって、もしかしたら、「歌」に潜在しているはずの“何か”を採り出すことができるのではないかと思っている。
 わが国の歌謡曲史などというやや大げさな視線から述べてみれば、古賀政男による楽曲を古賀メロディーと称して「演歌」の原型のような捉え方をされてきた。そして古賀政男が、幼少期から青年期にかけて日本統治下にあった朝鮮半島で暮らしたことが、朝鮮の音曲の影響を受けたことを根拠に、「演歌」は、「怨歌」であるとか、「艶歌」といった言葉に置き換えて、解説されてきたように思う。わたしは、日本の文化や生活が、半島や大陸の影響を受けずに、独自のものとして構築してきたなどというつもりはないのだが、だからといって、その影響を強調するあまり、定型的な位相へと押し込めてしまうことを避けたいと考えている。例えば、美空ひばりが歌う『悲しい酒』(66年・作詞、石本美由紀)を古賀メロディーの代表曲として、さらには美空ひばりの代表的な「演歌」として称揚されているが、わたしには同意できない。古賀政男の楽曲としては、『悲しい酒』より、『酒は涙か溜息か』(31年・作詞、高橋掬太郎)の方が遥かに優れた作品だと思うし、ひばりの代表曲は、わたしなら『哀愁波止場』(60年・作詞、石本美由紀・作曲、船村徹)を無条件で挙げたい。しかし、ここで、わたしは古賀メロディーや美空ひばりを通して「演歌」や「演歌」的なるものを述べていきたいのではない。わたしの入り口は、古賀メロディーでも美空ひばりでもないということをとりあえず前提としていっておきたいだけなのだ。わたしが拘泥する「演歌」とは、コブシやビブラートを技法とする歌唱のことを意味しない。それは、次に挙げるふたつの楽曲によって、象徴させてみたい。

 「あれは二月の寒い夜 やっと十四になった頃/窓にちらちら雪が降り 部屋はひえびえ暗かった/愛と云うのじゃないけれど 私は抱かれてみたかった//あれは五月の雨の夜 今日で十五と云う時に/安い指輪を贈られて 花を一輪かざられて/愛と云うのじゃないけれど 私は捧げてみたかった//あれは八月暑い夜 すねて十九を越えた頃/細いナイフを光らせて にくい男を待っていた/愛と云うのじゃないけれど 私は捨てられつらかった//そしてこうして暗い夜 年も忘れた今日のこと/街にゆらゆら灯りつき みんな祈りをするときに/ざんげの値打ちもないけれど 私は話してみたかった」(『ざんげの値打ちもない』70年、唄・北原ミレイ、作詞・阿久悠、作曲・村井邦彦)

 「お酒はぬるめの 燗がいい/肴はあぶった イカでいい/女は無口な ひとがいい/灯りはぼんやり 灯りゃいい/しみじみ飲めば しみじみと/想い出だけが 行き過ぎる/涙がポロリと こぼれたら/歌い出すのさ 舟唄を/沖の鴎に 深酒させてヨ/いとしあの娘とヨ/朝寝する ダンチョネ/店には飾りが ないがいい/窓から港が 見えりゃいい/はやりの歌など なくていい/時々霧笛が 鳴ればいい/ほろほろ飲めば ほろほろと/心がすすり 泣いている/あの頃 あの娘を 思ったら/歌い出すのさ 舟唄を/ぽつぽつ飲めば ぽつぽつと/未練が胸に 舞い戻る/夜ふけてさびしく なったなら/歌い出すのさ 舟唄を/ルルル・・・・・・・」(『舟唄』79年、唄・八代亜紀、作詞・阿久悠、作曲・浜圭介)

 どちらの作品も、詞が阿久悠であることは、偶然に過ぎない。ペドロ&カプリシャスの『ジョニィへの伝言』(73年)の作詞で、わたしは、初めて阿久悠の詞に注目したのだが、詞のイメージとして、かなり違うものを漂わせている前記ふたつの歌は、阿久悠の優れた力量と多彩さを持った才能を思わずにはいられない。『ざんげの値打ちもない』は、物語性を持った詞が、感性を揺さぶる。村井邦彦の曲調も、語り言葉をうまくメロディーに乗せることに成功している。『舟唄』は、どうだろうか。「酒」、「涙」、「女(娘)」といった「演歌」の典型的な詞語を駆使しながらも、『ダンチョネ節』を織り込むことによって、ある種のフォークロア的世界を現出させている。これは、不思議に思うことなのだが、「演歌」に対する率直なイメージとして、「暗い」、「内閉的だ」といったことが、よくいわれてきた。『悲しい酒』はまさしくその典型といえそうだなのが、『ざんげの値打ちもない』も、『舟唄』も、一見、そのような雰囲気を漂わせていながら、どこかアクティヴな位相(生への無意識の発露)を、有しているとわたしには思えるのだ。例えば、八代亜紀の『舟唄』は、中島みゆきの『歌姫』(82年)に通底するものがある。悲哀感のなかにありながらも、自らの立ち位置を見定めようとする方位を内在させているといえばいいだろうか。つまり、「窓から港が 見えりゃいい/はやりの歌など なくていい/時々霧笛が 鳴ればいい」といった必ずしも内閉していかない発露が、そのように感受させている気がしてならない。
  「情念」という言葉があり、わたし自身、その言葉にかつてはいいようのない拘りを抱き続けたことがある。「演歌」的なるものと「情念」が響き合うことは否定しないが、どこかで、「情念」といういささか過剰な思いを昇華させたいということを考えるようになった。だから、『ざんげの値打ちもない』のモチーフを“女の情念”といった位相に押し込めたくないということになる。“独白”が二月に始まって、五月、八月となり、「そしてこうして暗い夜 年も忘れた今日のこと/街にゆらゆら灯りつき みんな祈りをするとき」というのは、十二月だということが分かる。これまで、わたしのなかには、歳時記的世界というものに、どこか馴染めないものがあった。クリスマスも正月も、少年期において、心躍ることはなかったといっていい。たぶん、風土的なことが影響しているのかもしれない。わたしが生まれ育った、東北の冬の季節は、雪の白さに象徴されるような美しいものではないからだ。冒頭の「窓にちらちら雪が降り 部屋はひえびえ暗かった」は、そういう意味でいえば、「街にゆらゆら灯りつき みんな祈りをするとき」と対称性をもたらして、「ゆらゆら灯り」がついている「街」に対する根源的な疑義を表出させていると、わたしなら見做してみたい。そう、ここでは、怨念や情念ではなく、怒りのようなものを潜在させているのだ。何に対しての怒りかといえば、どうしても感応せざるを得ない「愛と云う」男と女の関係性にである。しかし、この怒りは、いずれにしても解決、解消しえないものとしてあるのだ。わたし(たち)が、生きて在る限り、忌避できないものとしてそれはあるからだ。「私は話してみたかった」ということは、そのような男と女の関係性を引き受けていくことへの、かたちを変えた表明でもある。
 思い起こせば、わたしの「演歌」や「演歌」的なるものへの関心の起点は、六九年秋から冬にかけて、浪曲師の父と盲目の三味線弾きの母を持つ、ひとりの女性歌手の〈歌唱〉によってだった。この歌い手の独特の〈声〉に魅了されたことは、確かなのだが、〈新宿〉をモチーフにした、その歌は、わたしに、前年の一〇月二一日に〈新宿〉を中心に生起した大きな渦動からの一年という時間性に潜在してきた様々な様態を仮想させ、〈新宿〉という場所が持つ情況の暗渠を切開してくれたのだ。

 「私が男になれたなら/私は女を捨てないわ/ネオンぐらしの蝶々には/やさしい言葉がしみたのよ/バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿の女」(藤圭子『新宿の女』―69年9月、作詞・石坂まさを、作曲・みずの稔・石坂まさを)

 わたしが考える「演歌」的なるものの構造とは、場所性を照射することによって、時間性を遡行し、感性の根源とでもいうべき位相を析出することだと思っている。藤圭子が歌う『新宿の女』は、まさしくわたしに、「新宿」という街の騒乱のなかにある陰影の存在といったものを意識付けさせてくれたといえる。藤圭子の独特の〈歌唱〉と〈声〉は、「バカだなバカだな/だまされちゃって/夜が冷たい新宿の女」という三番までのリフレーンが、前年に生成した大きな波動に換起された“情念”を、一年にして醒めた感性へと拡張させてきたことへの否認のベクトルを内在していたと捉えてみたいのだ。そんな、虚妄のような思い込みは、お前だけのものに過ぎないという「声」が聞こえてきそうだ。確かにそうかもしれない。だが、わたしは、たぶん、この独特の〈歌唱〉と〈声〉に、なんの外連もなく慰藉されていたのだと思う。デヴュー作の『新宿の女』から、『女のブルース』(70年2月)、『圭子の夢は夜ひらく』(70年4月)、『命預けます』(70年7月)までの一年余り、〈藤圭子的情況〉を取り込みながら、わたしは、〈外在的情況〉とともにひたすら疾走したのである。

  「『無口』という茶店のところで/乃木坂は黄昏にあう/粒になった夕陽の肩に/髪の毛みたいに闇が流れ落ちる//うまく神話に触れてきた/ふるい村の話からはじまって ちょうど/いちばん辛い暗礁の日々まで/涙ぐむ祖母の肩を抱いて/もっとその奥にある/『無口』という茶店で/慰めている」「つくられた一語に色づいた/村の妹たちに触れてきた 乳房は/森のうしろ 双が丘になった/風に揺られた神話のなかでは/概念がエロスだった/永遠という旅の途次の字画よ/そのままで どうかそのままで/こわれた村の妹たちは 都会にでて 夜ごと/『新見附』という文字に抱かれている」(吉本隆明「演歌」―詩集『記号の森の伝説歌』)

 「演歌」と題されたこの詩篇には、「乃木坂」、「双が丘」、「新見附」という地名(場所)が現われる。いわば、母なるものの祖型(祖母・村の妹たち)をそれらの地名(場所)に象徴化させている。つまり、この詩篇もまた、場所性を照射することによって、時間性を遡行し、感性の根源(母型)とでもいうべき位相を湛えている。もちろん、この詩にメロディーを乗せて歌うことはできないかもしれないが、詩語の間隙から「村の妹たち」の「声」が聞こえてきそうだ。それは、神話(伝説)という物語をかたちづくっていくことを意味している。
 藤圭子から三十年ほどの時を経て、椎名林檎が、〈新宿・歌舞伎町〉を神話化して登場した。
 椎名林檎が、新宿・歌舞伎町を、軽快に、“歓楽街”と歌った時、一九六八年一〇月二一日の出来事も含め、七十年前後の事どもが、遠く古層のなかへと押し込められていったというべきである。もちろん、それはそれでいいのだが、その時、すでに新宿は、“若者の街”でもなんでもなくなっていたわけだから、椎名林檎は、別の位相で新宿を再生させようとした、つまり神話化したと捉えられなくもない。そして、それからまた、さらに十年以上経ったことになる。時間的にいえば椎名林檎は、現在に近い場所にあるが、むしろ、椎名林檎的場所からの方が、四十年以上前のことが、見えそうな気がするから、不思議な感慨が湧いてくる。

 「蝉の声を聞く度に/目に浮かぶ九十九里浜/皺々の祖母の手を離れ/独りで訪れた歓楽街/ママは此処の女王様/生き写しの酔うあたし/だれしもが手を伸べて/子供ながらに魅せられた歓楽街」

 東京近郊(この場合、千葉・九十九里浜沿岸ということになる)から、歌舞伎町へと出立する一人の若い女性は、「バカだなバカだな/だまされちゃって」と嘆くことなく、歓楽街でまさしくアクティヴに生きていくことになる。

 「十五に成ったあたしを/置いて女王は消えた/毎週金曜日に来ていた男と暮らすのだろう/『一度栄し者でも必ずや衰えゆく』/その意味を知る時を迎え足を踏み入れたは歓楽街/消えていった女を憎めど夏は今/女王という肩書きを誇らしげに掲げる//女に成ったあたしが売るのは自分だけで/同情を欲した時に全てを失うだろう/JR新宿駅の東口を出たら其処はあたしの庭大遊戯場歌舞伎町/今夜からは処の町で娘のあたしが女王」(椎名林檎『歌舞伎町の女王』―98年9月、作詞作曲・椎名林檎、編曲・亀田誠治)

 椎名林檎の『歌舞伎町の女王』は、わたしにとって鮮烈だった。「歌唱」と「声」は独特というよりは、苛烈だ。その苛烈さが、わたしに「演歌」的なるものの世界を鮮明化させてくれた。しかも、不思議なことに、詞の構造が、吉本詩「演歌」と奇妙に照応してしまうことに、驚いてしまう。ここから先、椎名林檎論を展開していきたい欲求を抑えながら、かつては、ある種アナーキー(雑多)な街だった〈新宿〉という場所に思いを巡らしてみる。「JR新宿駅の東口を出たら其処はあたしの庭大遊戯場歌舞伎町」といえる場所は、六十年代から七〇年代、〈新宿〉の中心であった。いまでは、新宿から歌舞伎町界隈を分断するかのように、最も戦後的場所を残存させていた駅南口側も再開発が進み、サザンテラスなどという名称とともに、高度消費社会を象徴するオフィス街とショッピング街にイメージを変貌させている。もちろん、これは新宿へ都庁が移転したことと関連づけられることなのだが、西口の高層ビル群は、首都東京の象徴といえるだけでなく、いまやアジアの列島国家の象徴存在となっているといっていい。それはつまり、わが列島の祖型を覆い隠し、北から南へとつらなる共同性の連結を分断させていくことを意味する。南(福岡)から、上京し、新宿・歌舞伎町を屹立させることで、都市の構造を透徹しようとした椎名林檎は、「女に成ったあたしが売るのは自分だけで/同情を欲した時に全てを失う」という意志によって、新宿・西口の高層ビル群を相対化していく。そのような思いを抱かせる、『歌舞伎町の女王』は、わたしに、「演歌」的なるものの相貌を突きつけたのだ。

 「あたしは絶対あなたの前じゃ さめざめ泣いたりしないでしょ/これはつまり常に自分がアナーキーなあなたに似合う為/現代のシド・ヴィシャスに手錠をかけられるのは只あたしだけ」(『ここでキスして。』・99年1月)

 「約束は 要らないわ/果たされないことなど 大嫌いなの/ずっと繋がれて 居たいわ/朝が来ない窓辺を 求めているの//どうして 歴史の上に言葉が生れたのか/太陽 酸素 海 風/もう充分だったはずでしょう」(『本能』・99年10月)

 藤圭子から椎名林檎までの「演歌」的なる場所は、いまだ、わたしのなかで、浮遊し続けている。

(『塵風』第3号・11.2)

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2011年1月15日 (土)

西村賢太 著『暗渠の宿』(文庫版―新潮社刊・10.2.1)

 野間文芸新人賞を受賞した作品集(06年12月刊)の文庫版である。西村作品の文庫化は本書で二冊目となる。作品は、文芸誌デヴュー作となった「けがれなき酒のへど」(04年)と、「暗渠の宿」(06年)の二編。もはや説明するまでもなく、西村作品の世界は、帯文の惹句にもあるように、「型破りの私小説」として多くの読者を魅了している。どう「型破り」なのか。つまりは、こういうことだ。一人称文体で綴られる物語は、語り手でもある「私」の、女性に対する偏愛的な態度が、時に暴言・暴力となって現出し、自身、無垢であるべきと希求する男女の関係性を自壊させていく様が、執拗に描出されていくのだ。読み手は、「私」に対してある種の嫌悪感と蔑みに似た思いを抱きながらも、「私」が潜在させている愛(エロス)への無垢なる渇望に対し、読み進むうちにいつのまにか共感していることに気づかされてくるのだ。人は、凶暴性の裏側には、必ず無垢性と心的な弱さを抱え持っているものなのだ。西村作品の世界は、いつもそのことを微細に描出しているといってもいい。
 「けがれなき酒のへど」では、長い間“ありきたりな相思相愛の恋人”がいない「私」は、「悪所通い」によって、その心身の空隙を埋めていたのだが、やがて恵理というソープランド嬢に擬似恋人としての存在を仮託していく。その結果、百万円近い金をその女(恵理)に渡し、彼女は、「私」の前から消えてしまったのだ。それでも、「結局は自分の心身の両慾のみ満たし、埋めるだけのものとして女の人を眺めてきた、おれの賤しさへの天罰だったのかも知れない」と自戒するだけのものは、持っているのだ。それは、ある意味、矜持ともいえる、非業な死を遂げた戦前期の作家・藤澤淸造の没後弟子を自称し、個人編集による『藤澤淸造全集』を刊行するという企図を持っているからこそ、転落の境界線を、ぎりぎり踏みとどまっているからだといえる。
 「暗渠の宿」は、「三十半ばを過ぎながら」、「かつて女性と一緒の生活なぞしたことは全くない」、「私」が、初めて女と同居を始めるのだが、様々な齟齬が生じ、諍いの絶えない様が、綴られていく。「やはりこの女は、もっと私に従順であるべきだと思う」、「私の女に対する想いは、こと離れがたき点においてどこまでも不変のものであったが、女の方で時折みせる、私にとって到底慊ぬ言動も、やはり改善される風もない相変わらずのものであった」と不満を募らせていく「私」ではあったが、そもそも、彼女の親から「全集発刊資金の一部として」、三百万円の借金をし、その一部から「二人で住む部屋の初期費用」に当てているという負い目が「私」にはあるのだ。さらには、ほんらい全集刊行とは別物である淸造資料の一部として所持していた淸造の墓標を収納するガラスケースを、「女の足元に土下座して嘆願」し、六十五万円かけて購入するのだった。このような理不尽さにもかかわらず、女はともかくも「ずっと一緒にいるよ」と応えるのだが、自らの負い目を正当化するかのように、そのような従順な女の態度に疑心暗鬼になり、何時爆発するか分からない自身の凶暴性を抑えたところで物語は閉じていく。こうして男女が織り成す葛藤劇を執拗に描いて見せるところに、深い作品性を湛えているのだ。

(『図書新聞』11.1.22号)

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2011年1月 7日 (金)

「情況」的場所へ(9)―無主ということの方位―

 わたしは、九月の初めに発生した尖閣諸島での中国魚船衝突事件による様々な波動を目の前にして、奇妙な感慨を抱き続けてきたといってもいい。いまだ未詳の部分が残存している事件とはいえ、空虚なる国会という場で皮相な論議が続いていることに対して、たんなる茶番劇であるというしかないし、わが国政府や海上保安庁、検察庁の不信感漂う対応や、中国(北京政府)の高圧的な態度に対しても、わたしの関心の在り処はない。もとより、北京政府権力にコントロールされた中国国内での反日デモに関しては、論評するに価しないし、あまり重視すべきではないと思う(国内政府批判に転ずる可能性もあるといった報道には惑わされない方がいい)。現在、わが国政府の公式見解は、尖閣諸島に関して領有権問題は存在しない、つまり、わが国固有の領土だというものだ。一方、中国や台湾は、いずれも、自国の領土だとして積極的に領有権を主張しているが、ここで、極めて、アイロニカルな主張があることを、例示してみたい。中国共産党政権が領有権を主張しているからといって、わが国の共産党までもが、尖閣諸島は日本の領有が正当なのだと応酬するとは、思わなかったのだが、Net配信された記事を読むと、まさしく、そうなのだ。そしてその主張は、極めてレトリックに満ちたものだといっていい。
 「尖閣諸島(略)は、(略)いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。(略)1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。(略)所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した『先占(せんせん)』にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議をとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、『主権の継続的で平和的な発現』という『先占』の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」(「しんぶん赤旗」10.9.20付・傍線は引用者)
 「所有者のいない無主(むしゅ)の地」を、「最初に占有した」ものが、「取得および実効支配が認められ」るのだとしたら、誰でも先に収奪した場所が専制支配できるということを意味する。これは、「力」あるものが、「力」なきものを制圧しうる覇権の論理と照応していくものだ。陸地ではなく、島嶼であるからこそ、これまで、継続的に表立った軋轢が起きなかったといえるかもしれないが、陸地に跨る国境問題を考えてみればいい。最も卑近な例をいえば、中国・インド間の国境紛争だ。ヒマラヤ山脈という高地帯は、ほんらいなら、「所有者のいない無主(むしゅ)の地」であるといってもいいはずだ。にもかかわらず、いまだ、停戦状態のまま国境は画定されずにいるというのが、現状だ。
 「赤旗」の見解は、そもそも、「無主」という概念を履き違えているのだ。尖閣諸島は無人島だから無主の地であるということにはならない、むしろ、誰のものであってもいい場所であるということを前提とすべきである。わたしが、この間、抱いた奇妙な感慨とは、いわゆる領土ということへの疑念であり、その根拠となるべきことの無意味性に対してである。もう少し、直截にいうならば、わたしたちが、日々生活している場所を、わたしは、日本国の領土などと思ったことは、一度もない。たぶん多くの人々も、そうに違いない。つまり、領土問題というものがリアルなこととして生起するのは、国境という位相を契機とするからである。そして間違いなく、国境というものは恣意的なものであり、さらにいえば国際法を逸脱した国家間の「力関係」を反映したものでしかない(パレスチナ自治区の境界問題を考えてみればいい。イスラエルは、「力」によって、和解へのロードマップを無視して支配域を拡大し続けている)。
 さてここからは、「赤旗」の転倒した見解を解体していかなければならない。「無主」を「無縁」とともに、歴史的概念として、鮮烈に確定させて見せたのは、網野善彦であった。
 「農業民と非農業民の区別は、ごく自然に考えただけでも明らかといえるが、この両者の差異はより根本的には、山野河海、市・津・泊、道等々の場に対する関わり方の違いに求めるべきである、と私は考える。(略)当然、両者の利害はしばしば鋭く対立した。(略)それはまた『有主』と『無主』の対立の一面ももっていた。文字通り『無主』の山野河海が前近代には、まだまだ広大であったことは認められてよかろう。本来、耕地のひらかれた大地についてもいえることであるが、『山や川はだれのものでもない』という見方は、庶民の中に深く根づいた思想とみなくてはならない。そして市・津・泊や道・辻も、割り意識的に『無主』『無縁』と性格づけられた場であった。もちろん非農業民がそうした境界領域ともいうべき場所で生活し、生業を営むためには、そこをなんらかの形で管理、領有しなくてはならないので、これを『所有』の一形態とみることもできるが、それは否応なしに自然そのものの『論理』にできるだけそったものとならざるをえないのであり、田畠などの耕地の私有とは全く次元の異なる『所有形態』というべきであろう(略)。この意味で非農業民は、山野河海、『無主』の場の論理の代言人であった。」(『中世の非農業民と天皇』)
 最近、NHKテレビの「無縁社会」をテーマにしたドキュメンタリー番組が評判を呼んでいるようだ。そこでの「無縁」は、いわゆる格差社会から孤立化していくことの不安感を指していて(わたしなら、格差社会のなかでどうにか充足していくよりも、貧窮に向うことになったとしても、逸脱した生き方を選びたい)、負の意味を付加しているのだが、網野のいう「無縁」は、そうではない。格差社会という措定の仕方を、いまここで厳密にすることはしないが、国家や社会の構造・システムというものは、基層においては連続性・時間性を潜在させているものだ。わが国においては、天皇制的なるものが、制度としては空白化しているとしても、網の目のような瀰漫の仕方で、共同的形態に表象され続けてきたといえる。網野が思考する非農業民における「無主・無縁」ということの方位には、農業民(定住民)つまり、農耕的なるものを基層とする天皇制の様態を相対化することにあった。中世という時空間のなかで、支配体系の円環が及ばない領域、生活圏というものを措定することによって、自存していくことの位相を見通していこうとする網野の歴史性に向けた視線は、鮮烈だ。
 わたしは、片桐慎治の作品「犬になる」(『幻燈No.8』)に、接した時、いいようのない衝撃を受けた。「黒い犬」をめぐって発せられるモノローグには、「無主・無縁」を潜在させる契機があると見做したからだ。故郷を離れること(非定住者になること)によって、自らを「無主・無縁」の場所へと流離させながらも、現在という時空間のなかでは、郷愁へと反転していく不安定さを払拭できずに、見知らぬ場所を彷徨う。
 「名も知らぬ/人たちに/私は…/長いこと/手紙を届けた」「帰るのか…/もう知る人もない/海辺の町に/戻ろうか」「一度会うべき神とは/誰だろうか……」
 〈黒い犬〉は、「無主・無縁」の表象であり、〈神〉は、そのことの反照として立ちはだかっている。〈神〉を「無主・無縁」の場所へと引き寄せることはできるのだろうか。
 ふたたび、網野の言説に立ち返るならば「『山や川はだれのものでもない』という見方は、庶民の中に深く根づいた思想」であるという位相が、わたしには、普遍性を持って迫ってくる。この言説をアクチュアルなものへと揚棄すべく、わたしたちは、現在的視野を汲み入れながら、網野の思考に向き合うべきだと思う。その時〈神〉は〈無主〉となるのだ。

(『月刊架空』10年11月号)  

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