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2011年1月29日 (土)

つげ忠男・菅野修・うらたじゅん他 著『幻燈 11』               (北冬書房刊・10.11.15)

 漫画・劇画作品のアンソロジー集『幻燈』の第11集が、一年ぶりに刊行された。なによりも、つげ忠男の61頁にも及ぶ新作「曼荼羅華綺譚」を発表したことは、ひとつの“事件”だといってもいい。この作品は、「Websiteつげ忠男劇場」に01年発表されたものを前半部として、『幻燈 第8集』(08年1月刊)に28頁分掲載された。本集掲載の作品は、その後半部・完結編ということになる。よく知られているように、つげ忠男は、貸本漫画歴数年を経て、八年ほどのブランクの後、『ガロ』(68年12月号)誌上にて、「丘の上でビンセント・ヴァン・ゴッホは」という作品で漫画家としての再スタートをした。そしていま、四十年後の新作でも、モチーフは、ビンセント・ヴァン・ゴッホである。この符号は、何を意味するのだろうか。もちろん、ゴッホという存在性にまつわる際立つ才能そして狂気といったイメージが、つげ忠男という作家性と共鳴しあうからだといえなくもない。本書収録の原マスミとの対談で、つげは、「思い切り遊んでいます。もうべたべたに遊んじゃおうかと思って」(「『幻燈展』トークイベント・つげ忠男の世界『曼荼羅華綺譚』にふれて」)と述べている。もちろん、ここでつげが述べる「遊ぶ」ということは、独特の抑制したいい方だといっていい。例えていえば、ゴッホに皮膜のように覆い被さっている狂気・才能、そして死というものを戯画化というよりも遊戯化して描出するということを意味していると、わたしには思われる。釣り場を探して彷徨っていた男が、風変わりな男女三人と出会い邂逅していく物語であるが、淡々と男と三人の通交が描かれながら、奇妙な三人の関係性が徐々に露になっていくというものだ。やがて寺の住職と同居する女性の二人は、火災によって焼死し、ゴッホのように耳を切り取ってしまった絵描きの青年が一人残されたところで、物語は閉じていく。まるで、「性」と「死」をめぐって戯れるかのように、つげ忠男の筆致が自在に遊戯しながら、作品は表出されていると感受できる。そして読後、不思議な心地よさのようなものを湛えていることに気づかされるのだ。
 うらたじゅんの「ホットケーキ」もまた、まるでつげ忠男に呼応するかのように、自在な遊戯性というものを醸し出している。ミホという少女の母が、誕生日のケーキを買うために本を売るところから始まり、結局、ケーキは買わずに、屈託なく快活にホットケーキを作って誕生会に来たミホの友人たちに振る舞う。一転して、ミホの友人のユカリに焦点を当て、ミホの母とは好対照と思われるユカリの母を登場させる。そんな母の子であっても、快活に犬を散歩に連れて行くユカリを追って作品は終えている。そこでは、隠されエピソードとしてミホの母の行動があるのだが、貧しいもの・富めるものという差異を、肩に力を入れることなく無化していく試みを、この作品はしている。そしてやはりいいようのない心地よさを感じさせるのだ。
 ネズ実の「夜の光沢」は、これまでの作品とは違い、ベタを多用し、空白とのコントラストが、画像から動態感を放出している、力感溢れる作品だ。
 角南誠の「水辺の憂うつ」は、孤独な少女と少年と犬をめぐる寂寥感湛えた作品だ。犬を捨てざるをえない少年、なぜか、少年と犬に関わる少女。河岸の橋の下での通交。いつもの作品同様、静謐に淡々と物語は進んでいく。しかし、少女が妊娠していること、自分の身の処し方に悩みながらも、犬を保健所に通報して処理を付託することによって、やがて自分の身も結着させることを暗示させながら、雨が降りしきる場面で終えている。少女(この作品では、少年が中学生なら、高校生のはずだ)は、少年に比べれば、いつでも大人なのだ。しかし、それでも、イノセンスな時期であることには、変わりはない。生命あることへの慰藉、そして不安・恐怖というものは、現在という時空において、誰にとっても依然、難題性から逃れることはできないものだといっていい。
 西野空男の「トンマな肉屋」は、不安神経症的迷宮の世界を遊戯していく。そう、この作品もまた遊戯だ。何かから逃れようとして隘路に入り、またそこから這い出ようとして、迷宮を彷徨う。電車はその象徴的なモメントだ。甲野酉の「甘い女」では、男女間における遊戯的迷宮を衝撃的に描出していく。男に寛容的に振る舞う女の深奥は、ここでは少女性のままの迷宮世界の母型であり、女の寛容性に甘える男の存在は、少年性(幼児性)から抜け出ることなく迷宮世界をただ漂流するだけだということになる。とすれば、「水辺の憂うつ」の少女と少年は、不安なる関係性の迷宮のとばくちにいることの予兆が示されているといっていいかもしれない。
 他に菅野修「こころにちょっと悩みのある人々に」、山田勇男「燃えるようなオレンジ色の閃光で囲まれた青い横顔」、藤宮史「或る押入れ頭男の話・街のなか」、おんちみどり「昨日の床」、海老原健吾「Mは自分の名を嫌う」、斎藤種魚「橋役人」、金ゐ國許「困惑の正体としての不愉快~少年王者館『ガラパゴス』雑感」が、収載されている。
 
(『図書新聞』3000号―11.2.5号)


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