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2011年1月15日 (土)

西村賢太 著『暗渠の宿』(文庫版―新潮社刊・10.2.1)

 野間文芸新人賞を受賞した作品集(06年12月刊)の文庫版である。西村作品の文庫化は本書で二冊目となる。作品は、文芸誌デヴュー作となった「けがれなき酒のへど」(04年)と、「暗渠の宿」(06年)の二編。もはや説明するまでもなく、西村作品の世界は、帯文の惹句にもあるように、「型破りの私小説」として多くの読者を魅了している。どう「型破り」なのか。つまりは、こういうことだ。一人称文体で綴られる物語は、語り手でもある「私」の、女性に対する偏愛的な態度が、時に暴言・暴力となって現出し、自身、無垢であるべきと希求する男女の関係性を自壊させていく様が、執拗に描出されていくのだ。読み手は、「私」に対してある種の嫌悪感と蔑みに似た思いを抱きながらも、「私」が潜在させている愛(エロス)への無垢なる渇望に対し、読み進むうちにいつのまにか共感していることに気づかされてくるのだ。人は、凶暴性の裏側には、必ず無垢性と心的な弱さを抱え持っているものなのだ。西村作品の世界は、いつもそのことを微細に描出しているといってもいい。
 「けがれなき酒のへど」では、長い間“ありきたりな相思相愛の恋人”がいない「私」は、「悪所通い」によって、その心身の空隙を埋めていたのだが、やがて恵理というソープランド嬢に擬似恋人としての存在を仮託していく。その結果、百万円近い金をその女(恵理)に渡し、彼女は、「私」の前から消えてしまったのだ。それでも、「結局は自分の心身の両慾のみ満たし、埋めるだけのものとして女の人を眺めてきた、おれの賤しさへの天罰だったのかも知れない」と自戒するだけのものは、持っているのだ。それは、ある意味、矜持ともいえる、非業な死を遂げた戦前期の作家・藤澤淸造の没後弟子を自称し、個人編集による『藤澤淸造全集』を刊行するという企図を持っているからこそ、転落の境界線を、ぎりぎり踏みとどまっているからだといえる。
 「暗渠の宿」は、「三十半ばを過ぎながら」、「かつて女性と一緒の生活なぞしたことは全くない」、「私」が、初めて女と同居を始めるのだが、様々な齟齬が生じ、諍いの絶えない様が、綴られていく。「やはりこの女は、もっと私に従順であるべきだと思う」、「私の女に対する想いは、こと離れがたき点においてどこまでも不変のものであったが、女の方で時折みせる、私にとって到底慊ぬ言動も、やはり改善される風もない相変わらずのものであった」と不満を募らせていく「私」ではあったが、そもそも、彼女の親から「全集発刊資金の一部として」、三百万円の借金をし、その一部から「二人で住む部屋の初期費用」に当てているという負い目が「私」にはあるのだ。さらには、ほんらい全集刊行とは別物である淸造資料の一部として所持していた淸造の墓標を収納するガラスケースを、「女の足元に土下座して嘆願」し、六十五万円かけて購入するのだった。このような理不尽さにもかかわらず、女はともかくも「ずっと一緒にいるよ」と応えるのだが、自らの負い目を正当化するかのように、そのような従順な女の態度に疑心暗鬼になり、何時爆発するか分からない自身の凶暴性を抑えたところで物語は閉じていく。こうして男女が織り成す葛藤劇を執拗に描いて見せるところに、深い作品性を湛えているのだ。

(『図書新聞』11.1.22号)

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