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2010年2月27日 (土)

菅野修・うらたじゅん・山田勇男他 著                       『幻燈 10』(北冬書房刊・09.11.23)

 漫画・劇画作品のアンソロジー集として98年に創刊された『幻燈』は、ほぼ、年一回のペースで刊行されてきた。昨年の3月に第9集が、そして11月に区切りとなる第10集の発行と、初めて年二冊が出されたことになる。しかも、いままでにない300頁を越える重厚な一冊となった。『幻燈』は、六十年代後半期の『ガロ』、『幻燈』と同じ北冬書房が出していた『夜行』(全20集・72~95年)の表現世界を継承していこうとするものだ。端的にいえば、『ガロ』66年二月号に発表され、わたしたちに大いなる衝撃を与えた、つげ義春の「沼」以後の劇画世界を見通すことのできる表現水位に連なっていくことを意味しているといっていい。
 マスメディアのなかで多産され続けてきた漫画作品は、売上の低迷と差し迫る閉塞的な時代情況とともに作品性の深度に翳りが見えてきた現在、商業主義とは一線を画す『幻燈』に参集した作家たちの作品は、いかなる世界を放射しているのだろうかということが、差しあたってわたしの関心事である。そして、表現することの実際は、現実的なことどもを忌避してはありえないということも含みながら、本集の作品群を渉猟していくと、やはり、うらたじゅんの作品へと真っ先に視線を向けざるをえなくなる。ここ数年、『幻燈』誌上で発表されたうらた作品のなかでも、本集に発表された「夏の午後には」は、際立った物語性を表出させて、またあらたな段階へとうらたじゅんの世界は達したといえるような気がする。「いつかひとりぼっちの/おばあさんになったら/夏の午後には/レースのカーテンを/編もう」と、表題を明示した白地の扉の右上に並んで配置された言葉たち。“いつか”、“なったら”ということは、“ならない”、“なれない”かもしれないということを暗示していると考えていい。この扉のエピグラフだけで、わたしは、本作品が含意するところのものを過剰に受けとめてしまったかもしれない。しかし、そうではない。扉の次の頁を開くと、水着の少女が下方に描かれている。そこに「もう老いて/泳ぐことができないが/はじめて海で/泳いだ日のことは/今でもおぼえている」と記している。作品中、唯一、顔の表情を明快に描かれている場所だ。次の見開きでは、記憶の物語を断片化しながら画像と言葉たちは、陰影に満ちて流れていく。このことはすなわち、わたしたちが郷愁というセンチメンタリズムに浸ろうとすることに対して、時間を断絶するかのように強く拒否していることを示している。続く見開きには、「夜の日課は/朝の楽しみを/作ること」と、「私はあと/どれくらい/生きられるの/だろうか」が、対角線上に配置されていく。そして「秋が来ても/冬が来ても/レースのカーテンは/いつもきれいに/洗濯しておこう」と記し、向日葵の種が寂しく点在する画像が置かれる。こうして終景では、力強く咲き誇る向日葵の大輪が描かれていく。この終景には作者の強い意志のようなものが喚起していると、わたしは直截に理解した。自分のいまある場所をしっかり見据えながら、未知の時間性を想起させるうらたじゅんの物語性は、ジャンルを越えて際立っている。
 いまわたしたちは、どんな場所にいるのだろうかと問うてみる。個と共同性の間隙を浮遊し彷徨し、現在というものを見通すことのできない様態のなかにいるといえるのではないだろうか。その様な情況を切開していくためには、物語の力(反制度)を対置すべきだというのが、わたしの考えだ。物語の力とはなにか、それは現実の生活感から湧き出す豊穣な想像力を源泉とする強い意志である。数年前、フリーターの惨憺たる現状と来るべき貧困社会を憂えて、“希望は戦争”と諧謔化した若いライターの文章が、センセーショナルな波及を生起したことがある。そのライターの言葉は、結局、制度の中から生まれた言葉でしかないといっていい。わたしたちは、現実からただただ圧迫感を受苦するだけでは、なにごとも見通すことはできないということを銘すべきである。
 もう一編「嵐々電々」は、記憶の遡及によって、現在の孤立感を象徴化している秀作だ。
 菅野修は、変わらぬ物語力を強固に保持し続けている作家だ。「性と生活」における、圧倒する画像の迫力は、根源的だ。エロスの只中で、シャネルのバックを懇願する妻に対して、「おい/お前 それは/生活必需品/なのか」「本当に必要な」「生活必需品なのか」と激しく発する夫の言葉と表情がすごい。その後の三頁にわたる夫の表情と佇まいとの落差が、代行表象的に現在を鋭く撃っていると見做すことができる。
 以下、それぞれに視線を向けたい欲求を抑えながら、主な内容を列記しておく。
 おんちみどり「古本海岸」、角南誠「彼女の思い出」、藤宮史「或る押し入れ頭男の話・箱舟」、斎藤種魚「タスケ」、西野空男「走馬燈」、永井サク「行ってきます」、片桐慎二「背中」、海老原健悟「香り」、木下竜一「意識」、山羊タダシ「灰と煙」、ネズ実「きれ間」、甲野酉「三人」、小林坩堝の詩「街」「さよなら夢幻島」、天野天街と山田勇男との対談「無意識の世界と夢―少年王者舘公演『夢+夜』にふれて」、金ゐ國許「アクチュアリティと無化―少年王者舘『夢+夜』を観て」、小林坩堝と山羊タダシとの対談「高橋和巳の現在」。
 さて、ここ数年、『幻燈』に参集する作家たちによって様々な漫画誌が創刊されている。西野空男は、自らの編集で『架空』を二号まで刊行し、今春、装いも新たに、斎藤種魚とともに、一年間限定で『月刊 架空』を出す。斎藤種魚と山羊タダシ編集によって三号まで刊行した『走馬燈』は、同じく今春、山羊タダシ単独編集となって第四号が刊行予定、Website「高田馬場つげ義春研究会」を運営している金ゐ國許編集の『別冊 架空[特集・木下竜一 冬の時代]』は、昨夏出され、引き続き『別冊 架空』の刊行が企図されている。作品的には個へとやや内閉的になっていく傾向を持っている作家たちが表現の共同性を模索していることに注目していきたい。

(『図書新聞』10.3.6号)


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