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2010年12月 3日 (金)

高本 茂 著『松下昇とキェルケゴール』                   (弓立社刊・10.9.3)

 松下昇という存在を、わたしが初めて知ったのは、六〇年代末頃、確か吉本隆明が主宰する雑誌「試行」のなかでだったと思う。括弧の中を空白にして、〈〉を多用した独特の文章が印象的であった。一度だけ松下を遠望したことがある。当然のことながら記憶は曖昧なので、高橋和巳の書誌を確かめてみると、69年5月29日という日付であることがわかった。東大全学助手共闘会議及び日大教員共闘委員会共催「全国教官討論集会」という、大学闘争(全共闘運動)に共鳴・共闘を表明した、いわゆる“造反教官”の講演集会の時であった。もちろん、わたしは、高橋和巳(この時の講演「大学闘争における文学―生涯にわたる阿修羅として」は、後に著書名となって、『生涯にわたる阿修羅として』に収められている)目当てで出掛けて行ったわけだが、松下の他に天沢退二郎や折原浩がいたと思うが、菅谷規矩雄(わたしは、八〇年代中頃、数回の邂逅を持っている)も参加していたかどうかは、覚えていない。わたしは、この時に、松下が神戸大学で苦闘していたことを認識したのか、「試行」誌上の文章で類推していたのかは、判然としないが、高橋の死を挟んで、やがて闘争の終局が訪れた後も、松下が、孤高の裁判闘争をしていたことを、伝え聞いていたのだが、積極的に発言群に注視することなく、時間は経過していった。松下の死も、なにによって知ったのかも、記憶は曖昧になっていたのだが、本書で、96年のことで、享年59であったことが、確認できた。正直にいえば、大学教師が、大学側を国家権力の代行として対抗していくことの意味に、疑念がないわけではない(著者には申し訳ないが、大学教師という有様にあまり共感できないからだ)。不当逮捕・不当解雇ということに対して闘うことを否定するものではないが、そもそも、ブルジョワ「法」に則って闘うことの矛盾に首肯できないこともある。著者は、松下の徹底的な「法」的闘争を、わたしのような偏見では捉えにくい位相にあることを提示しながら、見事に切開している。
 「松下氏は無罪を求めるどころか、より重い極刑を要求している。これは完全に〈確信犯〉の論理である。もちろん改悛の念などかけらもない。また、第1審の最終意見陳述において法廷の裁判官たちを最も凍りつかせたのは『有罪に確信と責任を持つなら罰金刑ではなく懲役刑を選択せよ、執行猶予は不要、実刑は恐れていない』(略)という発言であった。」
 これは、ブルジョワ法を解体しようとする、松下なりのひとつの方位といえなくもない。このことは、さらに苛烈な闘いの相に見ることができる。松下は法廷の場で、裁判官目がけて〈卵〉を投げつけるという行為をしている。このことをめぐって、著者はこう述べていく。
 「卵は何の喩であるのか。それは国家の幻想性を粉々に打ち砕く〈詩〉だった。法も国家も法廷も、人びとの幻想が生み出した産物にすぎない。場所や建物という物質的基盤や暴力装置を有しながらも、法廷の威信や裁判官の権威などの本質は、すべて張り子のトラにすぎなかったのである。(略)彼にとって卵とは国家にむかって書かれた一行の〈詩〉であった。」
 著者は、本書で、「19世紀半ばのデンマークで、国家と並ぶほどの威勢を持っていた『国教会』の堕落を果敢に攻撃し」、「孤立無援の闘いの中に果てた」哲学者キェルケゴールと「常に単独者とし闘って」いた松下昇を重ね合わせながら論及し、さらには著者と松下の通交も織り込みながら、六〇年代の反権力闘争をもう一度、照射する試みを行なっている。
 さて、ここからは、わたしが本書(著者)に向けて、最も、言及したいことだ。そうした試みの書は、あまたあるにもかかわらず、本書が、わたしに共振してくるのは、松下が著者や北川透(わたしもまた、著者と同じように、『〈像〉の不安』や『〈幻視〉への旅』に大きな影響を受けたが、後年、大学教授となって転進していったのは驚いた)、芹沢俊介(たぶんわたしは、著者以上に芹沢とは親近の関係だったことがあるから理解できるが、松下の芹沢への反応は過剰すぎると思うし、明らかに誤解を湛えている)といった人たちとの通交において軋轢を生んでしまうことの“哀しさ”である。著者は松下との往還をめぐって、後悔の思いを吐露しているが、著者の松下への対応は間違っていなかったと思う。なぜなら、例え、〈国家権力〉を撃つために、〈法〉制度や権力を支えるシステムに対抗して法廷闘争を領導していったとしても、共同幻想としての〈法〉を超克することはありえないのではないかと、わたしはやはり考えざるをえないからだ。おそらく、そうしたジレンマを一番よく理解していたのは、松下自身だったと思う。闘争のプロセスのなかで、退避したり、停止したりしながら、向こう岸へ少しずつ、歩を進めていくことは、ジレンマを相対化していくことの切実な方途となるはずだった。しかし、芹沢や、著者が決別する契機となった滝沢克己への過剰な反応も含めて、松下はただひたすら、対抗してくると思われるものは、すべて全否定するかのように、拙速に前進していくことのみを自らに課したであろうことを思えば、早すぎる死とともに、そこに松下の“哀しみ”の所在を、わたしは、見ないわけにはいかない。

(『図書新聞』10.12.11号)

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