« 2010年9月26日 - 2010年10月2日 | トップページ | 2010年11月7日 - 2010年11月13日 »

2010年11月 6日 (土)

髙德 忍 著                                  『対立と対話――「いじめ」の問題から「対話」の教育へ』                (つげ書房新社刊・10.4.30)

 「いじめ」問題は、依然、現在においても、難題性を持ったものとして在り続けている。たんに、家族関係と教育現場だけの問題に収斂させるには、あまりにも、深層部分が拡張されてきてしまったからだ。しかし、発端は、学校であることには変わりはないが、その教育現場も、「校内暴力」といわれた時代から、内閉化、陰湿化していく「いじめ」が横行する時代のなかで、右往左往しながら浮遊し続け、変容してきたといえる。その変容の様を、長年、高等学校の教育現場に身を置いてきた著者は、「市場原理が導入され」たことによる後退として捉えている。
 「教育改革により学校教育は、完全なサービス業となり、学校の中に消費者中心の市場原理が導入されることで、生徒、保護者は、サービスを受ける側の『顧客』となった。学校での生徒の問題行動は、サービスを提供する側の教師だけの問題になって、生徒にとって不利益だと思われる、校則違反に伴う特別指導では、親の協力は得られなくなった。それどころか親は、塾や予備校と比較して、学校のサービスの質の悪さを批判するクレーマーと化した。その結果、小学校では『学級崩壊』、中学校では『校内暴力』、高校では『私語』や『授業崩壊』が問題になり、精神疾患での教師の休職が増加した。」
 これは、結局、「ゆとり教育」の導入の失態も含めて、「学級崩壊」や「校内暴力」といったことへの対策が、表層的なところでしかなされていないことの証左だと思う。つまり暴力行為と犯罪行為、あるいは、いじめと例えば恐喝といった犯罪行為との境界を、精査することなく、なるべく、極小な現象に押し込めようとした結果だと見做していいのではないか。
 本書の表題は「対立と対話」であるが、そもそものこの対称的な言葉(わたしは、対立と対話はけっして対立する関係の言葉ではなく、対称性を持ったものだと考えている)が発生するのは、関係性が表象される場ということになる。関係性のなかにあって、わたしたちが、なんの齟齬もなくスムーズに通交しうるかといえば、大人社会であっても、それは至難なこととなる。インターネット(パソコンや携帯)の急激な普及によって、子供同士の関係といえども、大きく変容してきているのは確かだ。まずは、携帯を持つことが関係性を取り結ぶことの前提であるとすれば、携帯を持つことを是としないわたしなどは、いち早く排除される側になってしまう。
 「学校の中でも、(略)『平等』が、『集団性』『同質性』として形式的に解釈され、それが中心的価値基準となり、『みんな仲良く』『みんなと同じように……』と、思いやりや協調性を重視した教育活動が行われていくと、そのことがかえって生徒一人ひとりに異質性(差異性)へのこだわりを持たせることになる。/私はそのことを、現在の学校教育の抱える問題として『平等のパラドックス』(略)と呼んでいる。『みんなと同じでないから……』『みんなと同じことができないから……』といった差別感や優越意識は、排他的で制裁的な感情を生じさせる。」
 「校内暴力」や「いじめ」の淵源を、ひとことでは、いい表わすことはできないとしても、著者のいう「平等のパラドックス」は、核心的な視線だと思う。関係性や共同性というものは、同等性や均一性を意味するわけではない。一人ひとりが違う、差異があるという個体性を汲みいれて、はじめて成立つのが、関係性や共同性というものである。差別意識や優越意識が排除する感性を醸成させていくのだとしたら、それは、そもそも関係性というものが転倒していることになる。そしていま、ますます、関係性は転倒したかたちで拡張しているといえる。
 学校などの直接的な場での「いじめ」から、パソコンや携帯上の、つまりIT上での「いじめ」が、現在では頻繁に起きていて、子供たちが自殺する契機にもなっている。ブログへの陰湿で中傷的な書き込み、いわゆる掲示板などでのいやがらせといったことは、拡大化する一方だといっていい。著者がいう「平等のパラドックス」は、いまやIT世界で現出しているといってもいいのだ。
 「『場の空気』を読むために『ノリ』『ぼかし表現』『フリ』などのやさしい関係が、集団への同調圧力として働いているために、その閉塞感が、現実の格差社会の中で『自分だけが何か損をしている』『仲間はずれされている』『悪口を言われている』『自分だけが負け組みである』などの、さまざまな被害妄想を生じさせる。(略)またそれが単なる妄想でなくても、思い込みから、妬み、嫉み、ひがみなどの感情を生じさせ、『ネットいじめ』に発展する。」
 「対立はするが対話が成立しない」関係性が、「いじめ」を増長させるとしても、だからといって「対立をさけ対話が成立しない」関係性というものも、「いじめ」やさまざまな問題を現出させうると著者はいう。「対立と対話」は、わたしならある種の往復運動のようなものであると考える。関係性を繋ぐ機縁として、「対立」から、「対話」への通交は、現在の子供たちをめぐるアポリアを切開する糸口になるはずだと、本書を読み終えて感じたことだ。

(『図書新聞』10.11.13号)


| | コメント (0)

2010年11月 5日 (金)

「情況」的場所へ(8)―排除の暴力―

 東京・渋谷駅近くのJR山手線沿いに渋谷区立宮下公園がある。七十年前後、ここは、新左翼諸派の集会によく使われていた。以後、近年まで様々な運動系の集会が開かれている。わたしのような、都心の公園を散策するといった機会を持たないものにとって、宮下公園とはそんなイメージとしてあるのだが、もちろん、公園である以上、憩いの場所であることには変わりはなく、例え、野宿者(ホームレス)が棲みつくようになったからといって、いわゆる公共の場所であることは、確かなのだ。ところが、公園の老朽化ということで、渋谷区によって改修計画が起きたのはいいのだが、財源のないことを理由に、グローバル企業のNIKEに、「命名権の売却」という転倒した施策を決定して、「宮下NIKEパーク」という有料施設のある公園を開設することになった。このことは、どう考えても公共の空間を、「命名権」というレトリックを使って一私企業に「売却」したに過ぎないことを意味する。いまここで、詳細に述べることはしないが、区並びに区議会が不透明なプロセスで、そのことを決定したことが、最も重大な問題だといわねばならない。もちろん、そのプロセスの基層には、野宿者を公園から排除したいという判断があることは間違いないのだ。しかも、これまでそのプロセスをまったくといっていいほど、マス・メディアで報道されることがなかった宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、渋谷区による行政代執行を強行した日の9月24日当日、テレビ、新聞でいっせいにアリバイ的な報道をし出した。もちろん、ほとんどの論調は、反対派の根拠が分からないといった皮相な前提で、しかも、これで野宿者(ホームレス)が棲みついていたため行きづらかった公園に、家族連れで行けることが可能になったなどと、排除の論理を露呈したものであった。そして、もっとも許されざることは、当日の新聞記事に載っていた渋谷区長の談話である。以下、記事とともに引いてみる。
 「大手スポーツ用品メーカー『ナイキジャパン』による(略)整備計画に反対運動が起きて着工が遅れている問題で、渋谷区は二十四日、反対する団体が公園を違法に占拠しているとして、団体が設置したテントなどを強制撤去する行政代執行を実施した。(略)区は昨年八月、ナイキジャパンに、通称『宮下NIKE(ナイキ)パーク』とする命名権を十年間にわたって年間千七百万円で売却。同社が数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園に改修整備する契約を同社と結んだ。(略)これに対し、同会(引用者註=『みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会』)が『公共空間の企業化』『野宿生活者の排除』などと訴え、公園内にテントを張って監視を始めたため着工を見合わせてきた。(略)区によると、公園内には行政代執行の対象からは除外している同会以外の路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第、着工する見込み。/桑原区長は行政代執行について『けじめをつけるのが私の仕事。区関係者以外の人が集まってきて、「われらの公園だ」というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない』と説明している。」(「東京新聞」9月24日付夕刊)
 「区関係者以外の人が集まってきて、『われらの公園だ』というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない」と述べる渋谷区長は、明らかな矛盾に陥っている。ここでは区立公園だから、区民以外、公園を使ってはいけないということを明言しているのも同然なのだ。さらにいえば、反対派の人たちの中にあたかも区民が参加していないごとく断定して喧伝するのもおかしい。また、記事中にある、「路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第」ということは、どういうことを意味するのだろうか。明らかに強制退去以外、ありえないではないか。また、「数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園」とはどんなものなのかは、すぐにでも、想像できることだ。それは、緑生い茂る公園とは、かけ離れたものになるのは、明白だ。公園自体は、無料で入れるなどとテレビのコメンテーターは、当日の放送で、詭弁を弄して発言していたが、施設自体、有料ならば、「区民」に開放されて「使える公園」とは、程遠いものだというしかないだろう。周知のように、NIKEは、スポーツシューズを中心にした売上で、急成長したグローバル企業だ。急成長した事由には帝国化した簒奪方法があったといっていい。商品デザインに関しては自社でするが、生産に関しては自社工場を持たず外部工場に委託するという方法をとっている。特に、東南アジアなどの海外工場に関しては、まるで植民地支配(だからこそ、わたしは帝国化と称したいのだ)のごとく劣悪な労働環境を強いているのだ。帝国化した企業(グローバル企業)であるNIKEが目論む宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、公園の公共性を考えているわけではなく、企業利潤を追求しているに過ぎないことは、誰の眼にも明らかなはずだ。これは、野宿者排除という渋谷区の目論見と、NIKEの目論見が合致したことを意味する。渋谷区長があからさまに「区民が使える公園」といった時、そこに棲む野宿者排除を意識下に置いたものだといっていい。しかし、それは、同時に、公園というものに付帯する、開かれた共同性(公共性をもっと拡張していえば、そうなる)ということを地域行政責任者自らが否定したことにもなるのだ。いったい、排除という論理、論拠はどこからやってくるものなのだろうかと、この渋谷区長の発言から考えてみるならば、明快に権力意識の発露だといっていいと思う。それは、かつての成田新空港建設をめぐっての三里塚闘争を想起してみるならば、行政代執行という排除の暴力は、まさしく、権力による暴力というしかないことが自明のことのように浮き上がってくるはずだ。
 「暴力における私の定義は、権力と権力を守る合法主義、それが暴力の根源である、ということに帰着する。」
「暴力とは、法に守られた権力者が民衆に向かって敢えて加える圧迫の手段そのことである。」(秋山清「『暴力』考」―『反逆の信條』所収、北冬書房刊・73年)
 これは、行政代執行という排除の暴力を的確に捉えるための視線だといっていい。もとより、秋山清のこの論旨は、国家や権力に潜在する暴力の位相を切開するためのものであり、国家や権力に対する民衆の抵抗が、仮に暴力的表象を発生させたとしても、それを暴力とは呼ばないという、極めて先鋭的な視角をもったものなのだ。そこで、わたしは、排除の暴力と抵抗の暴力というものをめぐって想いを巡らしたくなった。そのためのテクストは、白土三平の代表作『カムイ外伝(第一部)』である。集中「下人」という作品がある。追手との死闘によって、目が見えなくなった抜け忍・カムイは、とある村落の住人に行き倒れのなか、助けられる。子供たちは、新しい家族が出来たと喜んだのも束の間、親たちにとっては、労働力の担い手としてしか扱うつもりはないのだ。だが、村落の他の住人たちは、カムイが貴重な労働力であることを知って、各家を順番に下人として働かせることにする。過酷な環境に置かれたカムイだが、追手から逃れながら生き続けていくことよりも、下人として定住することの方がまだ、納得しうることだと考える。だが、やがてそうした転倒の安住は瓦解することになる。弱者としての下人だったカムイが強者であることが分かると村人たちは、村落の救済者であるにもかかわらず、恐れおののいてしまうのだ。わたしなら、村落民から下人のように扱われるカムイを、現在の野宿者像に敷衍させたくなってくる。ここでは、排除の暴力と抵抗の暴力をめぐってアンビバレンスな世界を露出させている。排除という行為にあるものは、間違いなく暴力ではあるが、抵抗の中にあるのは、存在の哀しみという感情的暴力なのだということを、『カムイ外伝』の中の一篇「下人」は指し示していることになるのだ。

(『月刊架空』10年10月号)

| | コメント (0)

« 2010年9月26日 - 2010年10月2日 | トップページ | 2010年11月7日 - 2010年11月13日 »