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2010年8月10日 (火)

「情況」的場所へ(5)―狂走の狭間で―

 いったい、この国のマス・メディアにおける一つの事へ集中した、あるいは特化させた、横並びの狂奔的報道はどうなっているのだろうかと思わざるをえない。鳩山、小沢の政治資金問題から、普天間問題までの政局報道の皮相さ、空虚さを露呈したのも束の間、今度はワールドカップ・サッカーだ。南アフリカという、長らく白人による強圧的な黒人支配を続けるという人種差別の象徴だった国家が、あたかも過去の行為が贖罪されたごとく、祭典に狂奔している。わが国のマス・メディアは、南アの過去から現在に至る時間性に対して、いっさい触れることなく、ただただ祭りに便乗し、狂奔している。しかし、現実には、さらなる差別の構造が南アでは露出しているのだ。利益を多大に得るのはFIFAに群がる利権集団(企業)だけで、現地の黒人住民(貧困層)に富が還元されることはない。スタジアムで、戦意を喪失させるかのように、奇妙な音響を鳴り響かせている楽器(ヴヴゼーラ)の八割までが、アフリカを経済的植民地化しようと目論む中国で生産されたものだ。さらには、ワールドカップ関連商品も、FIFAの認証なくしては販売することすら許されない経済統制下に置かれている。
 「政府は南アフリカの厳しい現実を覆い隠そうと努め、(略)ヨハネスブルグだけでも、住む家の無い一万五千人以上の人々とストリート・チルドレンをかき集めてシェルターに放り込み、ケープタウン市では地方自治体が、ワールドカップの虚飾事業の一部として、貧困地区とスクウォッターのキャンプから何千人もの人々を追い出した。(略)FIFAはワールドカップというブランドと、そこから生み出される商品の所有者であり、それらの商品が無認可で売られていないか国中を探し回ったり、ブランドの市場調査をしたりするために、およそ100人からなる法律家のチームを有してもいる。南アフリカやアフリカ大陸の大部分の人々は、非公式な取り引きを通して商品を購入するということや、チームのTシャツや他のスポーツ用品を得るために、400ランドを費やせる者はほとんどいないという事実にも関わらず、商品は没収されて売り手は逮捕される。ジャーナリストたちは認可条項によって効果的に口封じされ、報道機関はFIFAが不評を買うような報道ができず、言論の自由は明らかに損なわれている。/実に皮肉なのは、サッカーは元来、確かに労働者階級のものだったということである。経営者や国家に踏みにじられる生活や、日々の嫌な労働を忘れさせてくれる90分間を求める人々は、競技場で直に、安い値段で手軽に試合を見ることができた。今日の商業化されたサッカーとワールドカップは、世界および国内の小さな陰謀集団(略)に法外な利益をもたらす。」(「全ては美しい利益の名のもとに/南アフリカでの2010年のサッカーのワールドカップに関するZACF(ザバラザ・アナキスト・コミュニスト戦線)の声明」―10.6.17付『ONLINEアナキズム』掲載、訳者・I)
 わが、ジャパン・チームは、ベスト・4を目指すなどという誇大妄想を抱きながら、その前哨戦は惨敗続きで、多くの支持を失い、放送権料の還元にいそしむマス・メディアだけが勝手に盛り上がっていた。もはや誰も岡田は監督の任にあらずと思っていたにもかかわらず、苦し紛れの奇策(俊輔外しと本田のワントップ起用)があたり、決勝トーナメントへ進み、わが国は、一気に大政翼賛会状態になってしまった。
 だが、新聞報道は二、三日で終息し、テレビの報道番組でも、ほとんど取り上げられることがなかったが、わたしたちは、この間、衝撃的な事件が起きたことを忘れてはならない。
 事件をデッサンすればこうなる。6月22日午前7時40分頃、広島市にある「マツダ本社工場の東正門前で、乗用車が通勤途中の従業員2人をはね、さらに正門から侵入して9人を次々とはね」て、男性一人が死亡、一人が重体、他は軽傷だった。容疑者の男性(42歳)は、「2カ月前にマツダを解雇され、うらみがあった」(「毎日新聞」10年6月22日付・夕刊)と動機を供述していると、記事には記されていた。続報(「同前」23日付・夕刊)では、「『秋葉原のような事件を起こそうと思った』と供述していることが、捜査関係者への取材で分かった」とし、「長年にわたり派遣などの非正規雇用で職場を転々とし、2年前には自己破産するなど不安定な生活が続いていたことも新たに判明」したとしている。わたしは、事件の第一報を知った時、確かに二年前の秋葉原での無差別殺傷事件を直ぐに想起した。だが、続報によって容疑者がそのことを模倣したような発言をしたことを知って、事件が類型化していくことの危惧感を、わたしは率直に抱いたといっていい。どんな事件であっても、それぞれは個別的なものだ。類型化することによって、契機となるべき根拠が覆い隠されしまうことが、この種の事件では多々あることを知るべきである。やはり、二年ほど前に起きた元厚生官僚連続殺傷事件でも、容疑者の動機が、あまりにも空疎な事由であることが伝えられて、不可思議としかいいようがない思いをしたものだった。マツダを襲った容疑者が、僅かな期間を働いただけの勤務先にどのような怨みを抱いたのかを知るのは、困難なことだ。漠然とした《外なる世界》への不満や憤怒といったことが個々それぞれの契機となったとしても、それを狂気、狂走の結果と見做す偏見と画一的な視線をわたしたちは、排すべきである。
 「狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそなのだということなのです……。狂気それ自体の擁護弁明をするなどということではないのです。それに、結局、それぞれの文化は、それに似つかわしい狂気を持つことになるのです。」(M・フーコー「狂気は社会のなかでしか存在しない」―『思考集成Ⅰ』所収)
 狂気や狂走の契機を辛酸な境遇に求めたり、心的不安感といったことに起因すると捉えることに、わたしは与しない。例えば、フーコーの言説をわたしなりに、敷衍するならば、わたしたちは、社会という共同性の遺伝子を否応なしに共通のものとして包有している。そして、その遺伝子による行為の表出は、なにかの契機によって顕在化したり、潜在したままの様態にあるというように、それは絶えず多様性を示している。平穏な日々を送っているつもりでも、なにか理不尽な契機で、マツダの工場を襲った容疑者のような行為を表出させることは、いつでも、誰でもがありうることを、自分たちの思惟のなかに入れ込むべきだと、わたしは考える。狂気、狂走的な出来事は、対岸の事態ではない、わたしたち自身のなかに、狂気性は絶えず潜在していると思うべきである。だからその限りでは、狂気、狂走というものは、《外部》と《内部》との軋轢(関係性の不在)の表象であり、関係性を本源的に希求していくというパラドキシカルな狭間にあるものだといえるはずだ。ここで、わたしは、菅野修の近作「性と生活」(『幻燈 10』掲載)に接して、あらためて狂気、狂走の不断性を感じずにいられなかったといっていい。苛烈な言葉と先鋭な画像を重層させて展開していく、この作品では、「狂気が古来から持っていた」本源的な《力》のようなものを感受できる。主人公の男が、言葉としての会話(関係性を取り結ぶはずの契機)をめぐって独白する「会話とは/なんであるのか……」「言葉による/伝達をいう/のだろうか」「しかし言葉によって/正しく伝えられた/ことがあっただろうか」「言葉は貨幣よりも/曖昧ではないだろうか」には、言葉が、ほんらいディス・コミュニケーションとしての位相を持っていることを鮮烈に指し示している。言葉(行為)があればすべてのことが、通じ合えるというのは幻想でしかない。それは妻との性愛の只中で、シャネルのバックを懇願する妻に対して、「本当に必要な/生活必需品なのか」と罵倒することにおいても、同じことを示している。男にとって狂気、狂走は内向化しながら潜在していくことになる。

(『月刊架空』10年8月号)

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