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2010年4月15日 (木)

「情況」的場所へ(2) ―アジアのなかの劇―

 かつて、わたし(たち)は、ロシア革命以後の情況をスターリン主義体制に特化して、旧ソ連を理想社会のヴィジョンを放棄した国家と見做していた。一方、中国(北京政府―そもそも大陸中国と台湾を別々の行政区とすべきであるというのが、わたしの考えである。つまり、台湾は沖縄と同じ意味で、大陸や列島とは別の古層の時間性を持った場所であると捉えられるからだ)に対しては、中ソ対立に象徴されるように毛沢東主義は、スターリン主義の二の舞いにはならないという思い込みをしていたといえる。
 66年に生起した中国の文化大革命は、当時、わが国の左翼的知識人や新左翼運動の担い手たちに大きな衝撃を与えた。それは、反権力闘争が純化したかたちだと見えたからだった。後に、「反」を冠することなど到底できない、ただの権力間闘争に過ぎなかったことが露呈するのだが、あの高橋和巳(林彪事件が発覚する以前の71年5月に亡くなる)でさえも、アナーキーな大衆運動だとして最大評価していたのだ。当時、中国文学者の竹内好が一切、文革に対する論評をしなかったのが、わたしには強い印象で残っている。文革を率先して担い毛沢東に次ぐ地位を確立したかに見えた林彪の謎の死(71年9月)、鄧小平の失脚と復活の繰り返しという中国共産党内部の権力図式の不可思議さ、天安門事件(89年6月)ならびに、執拗なチベット弾圧を象徴とする少数民族、周辺民族に対する圧制、これらのことを勘案して、わたしたちは現在、なんの躊躇もなく中国を覇権的で帝国主義的国家だと称することにしている。
 「旧ソ連邦とは異なり、中国は閉鎖的な国家資本主義(毛沢東時代)から輸出を重視した新自由主義モデルへと上手く変化した。中国は、その急速な経済成長と安価な商品――中国共産党が管理している――のおかげで、二〇一〇年までに世界最大の製造力を持ち、米国を追い越すと考えられている。/この資本主義的急成長は、労働者階級と農民の残忍な弾圧を背景に築き上げられた。ストライキは非合法であり、反体制派は殺害され、トップ二〇%の世帯が都会の総収入の四二%を獲得している一方で、二〇%貧困者はたった六%しか獲得していない。(略)中国は、アパルトヘイト時代、南アフリカの解放運動やジンバブエのような近隣諸国の解放運動に資金提供していたにも関わらず、南アフリカと内密に貿易していた。」(ウォルト/シュミット「中国はアフリカの新しい帝国主義権力なのか?」訳・森川莫人―『アナキズム 9号』07年5月)
 このような中国に対する露呈のさせ方は、マスメディアや表層的な政治経済的な言説のなかからは、絶対に出てこないといえる。この論稿は、南アフリカのZabalaza無政府共産主義者連盟の機関紙『Zabalaza』七号(2006年12月)に掲載されたものだ。かつて、中国内で激しい抗日運動が展開されたわけだが、いまでは、アフリカにおいて中国帝国に対する抵抗ムーブメントが生起しつつあるという、逆説を生み出していることになる。
 中国の驚異的な経済成長は、国内的な労働力の安価(搾取)もあるが、そもそもわが国はもちろんのこと先進諸国の企業群の生産拠点を広大な場所と多大な労働力を提供することによって、次々と受け入れていったからなのだ。これは、ある意味、現在版租界主義だといっていい。日清戦争(1894~5年)後、台湾が日本へ割譲され、さらに欧米列強国の居住地を容認することで、都市地域の活性化を成し遂げていったことにそれは通じるということだ。対外的には植民地であっても、租界もしくは租借地であることによって自国の行政権は間違いなく定立しているのだという論理は、海外企業の生産工場で産出されたものであっても自国製品であるという国内向けのアナウンスをすることで大国意識発揚をするということを意味する。
 現在、中国において最も高度に発展した都市は、上海であることは、誰も認知しうることだ。1920年代から30年代にかけての租界都市上海は魔都と呼ばれていた。上海は、イギリス、アメリカ、フランス、そして日本が居留地としていたが、ここ数年の中国、韓国の映画作品だけでも、この時期を扱ったものは、ほぼ、抗日パルチザンを主題としている。幾つか作品を挙げてみるならば、ロウ・イエ『パープル・バタフライ』(03年)アン・リー『ラスト、コーション』(07年)ユ・ヨンシク『アナーキスト』(00年)などがそうだ。
 ここではアジアにおける不可思議な劇を見せられることになる。むろん、わたしは、日本軍、日本人は、紛れもなく上海の人たち、あるいは中国人にとって侵略者であることを否定するものではない。しかし、欧米諸国人も厳密にいえばそうであるにもかかわらず、そのようには描かれないし、語られることはないということに、わたしは、不可思議さを抱かざるをえないのだ。日本軍、日本人は、横柄で残虐的だったが、欧米諸国人は、中国の人々に対しては親密的な振る舞いをとっていたからだといったことに起因するわけがない。中国側のしたたかな戦略が見え隠れすると捉えた方がいい。
 1939年という時制で始まるひとつの物語がある。湊谷夢吉の「魔都の群盲」がそうだ。既に戦時下の情況にある時代(日本軍の満州侵略は31年であり、いわゆる日中戦争が開始されたのは、1937年であった)を活写したこの作品は、主人公を飄々とした日本人画家にしたことによって、陰惨な抗争情況を脱構築して、わたしたちにアジアというものがほんらい内包する緩やかな時間性といったものを感受させることになる。作品集『魔都の群盲』に収載された他の作品、例えば、「満州バニシング」、「アヤカシの大連」にも共通していえることだ。この類稀な湊谷夢吉の作家性は、ある種のリアリズム的手法に満ちていながらも、どこか、浪漫的な雰囲気を醸し出して、夢幻の世界へと誘うかのようだ。しかし、それにしても、湊谷夢吉には抜きさしならないアジアへの憧憬というものが、潜在している。この憧憬感は、わたし自身にもあるのは否定しない。肥沃ではない土地を持つ極寒の満州国が理想の場所と想起した思念に似て、そこでは、逆説的なインターナショナリズムとナショナルな感性の空隙を照射していくかのような視線を包有している。
 「魔都の群盲」では、魔都・上海を描出することを主意としていない。そこに登場する人物たちは、なにか崇高な理念を追い求めて混乱の情況の只中に身を置いているというわけでもない。極めて密室劇のように展開していくこの作品が、北一輝の肖像画を配置する皇道派グループの挫折と背走を描いていると見ていくならば、アジア的な暗渠とでもいうべき位相がそこでは濃密に瀰漫していると捉えることができる。いずれにしても、杉浦元少佐を中心とした作品中の皇道派グループの末路は、次のようにいえるものだ。
 「同じ理想に基づいて結社し理想家が懸命にその理想の現実化を考え、ある程度の勢力となって理念が実現しそうになったとき、ひょいと気付いてみると、その集団は、集団が膨張し権力に近づいたという正にそのことによって醜悪な誹謗と猜疑の坩堝と化しているのだ。」(高橋和巳『堕落』)
 あの時代のアジア―日本の騒乱を遠望すれば、欧米列強に翻弄されながら、アジアを後進性と見做し、急激な欧米化(重工業化路線の推進と軍事増強路線の拡大)、つまりやがては欧米に追いつき、さらには超脱していくことが先進性を獲得していくことになるのだという錯誤が、理想を「醜悪な誹謗と猜疑の坩堝」のなかへと貶めて、悲惨な情況を作りだしてしまったといえる。現況の対アメリカ、対EUといった相貌を見せる鳩山提唱の中国―韓国―日本を結ぶラインも、極めて危うい構想でしかない。アジアは欧米の時空間とは、ひと括りにすることはできない独特の時間性と空間性(共同性)を有しているのだ。とりあえずは、そのような前提に立つことが重要なのだ。

(『月刊架空』10年5月号)

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