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2010年11月10日 (水)

書物の海へ                                 【〈ロシア的〉な愛という沈黙――『物語』】

 パステルナーク(1890~1960)の散文小説『物語』を前にして、様々なことどもが想起されてくる。これもまた、記憶の断片をひとつずつ採り出しながら、述べていくことになる。三十六年前(そんなにも、時間は経過したのかと思う)、本書の翻訳者・工藤正廣から送られてきた私家版『ドクトル・ジヴァゴ(第一部・一章)』の冒頭の数行に接して、わたしは鮮烈な印象を受けたことを未だ忘れずにいる。それはこんな言葉たちで綴られていく。

 「すすみ行きすすみ行き、そして〈永遠の記憶〉を歌い、そして立ち止まると、その野辺送りの歌を足たちが馬たちが、さっと吹く風たちが、惰性のままに歌い続けているようだった。通行人は行列に道をあけ、花輪をかぞえ、十字を切った。」

 この私家版が出された時、一人の翻訳家によって、既に『ジバゴ』は刊行されていた。この後、別の翻訳者によって新訳版が出た。しかし、冒頭の部分を比較しただけでも、工藤版がいかにパステルナークの詩的物語世界を見事に表現しきっているのか、わかるというものだ。わたしは、何度、「すすみ行きすすみ行き、そして〈永遠の記憶〉を歌い」という詩句を諳んじたことか、さらには、ロシア的大地を思い、ナロードについて思念を巡らしたことか、といま思い出されてくる。
 私家版『ジヴァゴ』をわたしたちに示した時点で、既に工藤は、『わが妹人生 1917年夏』(72年・鹿砦社刊)を翻訳刊行していた。以来、四〇年近くに渡って、パステルナークのほとんどの作品(詩・小説)を翻訳してきたのだ。その膂力に、ただただ脱帽するしかない。そして、いま、『ジバゴ』に先行すること三十年近く前、1929年に書かれた『物語』が、初めて訳出された。本書には訳者自身による詳細な解説が付されているから、いまさら、わたしのようなものが、貧弱な想像力で言葉を重ねることは、避けるべきかもしれない。とはいえ、この中篇作品が持っている濃密な世界の一端でも伝えることができればと思い、叙述していくつもりだ。作品の時制は、ふたつ。1916年(ロシア革命の前年)と1914年(第一次World War開戦の年)だ。16年の初め、主人公のセリョージャが、ウラルのソリカームスクにいる姉のナターシャの元へ訪れたところから、“物語”は、始まる。やがて、セリョージャは夕食前に仮眠する。夢うつつに過去の記憶が蘇るかのように、章を改め14年の時制が描かれていく。モスクワの大学の最終試験に合格したセリョージャは、「息抜き」と「自分をちがった状態に置くことに」(『物語』・27P)するために、フレステレン家で家庭教師をすることになった。そこで、侍女をしている牧師だった夫を一年前に亡くしたばかりのデンマーク人女性・アリルドに出会うことになる。年長とはいえ知的なアリルドに、セリョージャは直ぐに好意を寄せていく。やがて、夏の暑さを避けるためソコーリニキ公園に、二人は出かける。

 「そのうちに日が暮れた。アリルドはさかんに英語で喋りまくり、その英語に答えるセリョージャだったが、それもぜんぶうまい具合にいった。(略)二人は他の散策者たちとは瞭っきり違っていた。木立の中に群れていたすべてのカップルの中で、このカップルは夜の到来になによりも不安そうに対応し、あたかも夜が踵を接して追いかけて来たとでもいうように、その夜から逃れようと突き進んでいた。彼らが振り返ったときは、まるで夜の追跡の速度に合わせようとしているかのようだった。行く手に、二人が踏み込んだすべての小道の上に、何やらもっとも年古りたものの存在が松林全体になって伸びていた。これが二人を子供に変えた。二人はときには互いに手と手をとりあい、またときには困惑して手を離した。時々、自分自身の声を確かめて彼らは立ち止まった。」(46~47頁)

 このシークエンスは、「二人はときには互いに手と手をとりあい、またときには困惑して手を離した」といった、瑞々しさと清冽さが溢れる男女のイノセントな通交を描写しているといってもいいのだが、むしろ二人に潜在する心的な揺らぎを見事に風景化して描出しているといった方がいいかもしれない。牧師の妻だったアリルドは、同じようにセリョージャに対して好感を持っていたとしても、「愛」というかたちへは抑制せざるをえないのだ。一方、セリョージャは、アリルドに対して、どのように「愛」へと自分の思いを連結すればいいのか分からないでいる。ソコーリニキ公園の「夜」は、二人の「愛」をめぐる心的象徴として描かれているのだ。だが、セリョージャは、このソコーリニキ公園の「夜」の出来事を思いに秘めながらも、トヴェルスカヤの御者街(いわゆる娼婦街)に通い詰めてしまう。そして、アリルドや娼婦をしている女性たちを救わなければならないと、確信していく。変革の意志は、「愛」によってなされるべきだという、イノセントな情念とでもいっていいものが、ボルシェヴィキ革命以前には、ありえたのだというように、セリョージャの思いが描かれているとわたしは捉えてみたい。そして、ついに、セリョージャはアリルドに直接的な「愛」を告白する。しかし、アリルドは、冷静に対応する。彼女は、フレステレン家を辞めて、別の家庭に職を見つけたために、出発しなければならなったのだ。一時的に友人の所に身を寄せたアリルドを必死になって、セリョージャは探し当てる。

 「彼(引用者註=セリョージャ)は、アンナ(引用者註=アリルド)が都市の朝であることが、どんなに辛く困難かを見ていた。つまり、自然がもつ超自然的な尊厳は彼女にどんなに高くつくかということだった。自然は沈黙のまま彼のいる前で美しく見え、彼に助けを呼び求めていなかった。」(101頁)

 自然の沈黙は美しい、いや、沈黙ということが自然の美しさを引き寄せるといっていいかもしれない。セリョージャのアリルドに対する愛は、まさしく〈ロシア的〉、つまりは〈ナロード的〉だといえる。例え、二人の〈愛〉が結実しなかったとしてもだ。

※ボリース・パステルナーク著、工藤正廣・訳『物語』(未知谷刊・10年8月20日、四六判・192頁、原書・01年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

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