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2010年11月27日 (土)

西野空男 編集・発行(編集・斎藤種魚、甲野酉)                         『漫画雑誌 月刊架空』(セミ書房刊・毎月発行)

 漫画家・西野空男(『幻燈』を中心に作品を発表、作品集に『幸福番外地』)が、独力で『漫画雑誌 架空』を刊行したのは、いまから四年前のことだった。創刊号が06年12月、第二号は08年4月に発行された。かつての『ガロ』を想起させる表紙デザインは、ひとつのオマージュと志しの証しだったといっていいと思う。第二号には、「平成二十四年九月十日次号発行編集/平成三十八年迄(数年ごと 全十二巻発行)」と記されてあった。しかし、西野はひとつの決断と決意を持って、『架空』の月刊化を企図した。本年の四月発行の四月号(通巻第三号)から、一年間限定で来年の三月号まで計十二冊発行することにしたのだ。題して、『月刊 架空』である。
 「私が『ガロ系』と呼ばれる表現に後戻り不可能なところまでのめり込んだのは、私自身が漫画を描き始めた2000年前後の時期だ。それ以前も漫画は描いていたのだが、自分が描きたい事がなんだかわかっておらず、2000年前後に、なんとなくわかってきて、それらしき漫画が描けるようになったのである。しかしそれを示す的確な言葉はなく、はっきりとした定義のない『ガロ系』という言葉に依存することにした。(広義では『ガロ系』、狭義では『つげ義春以後』と名のった。)その後、西野空男として、どうにかこうにか10年間、生き続けてきた事になるが利益の観点から見れば、未だ存在していないともいえる。しかし現在、私は私自身の犠牲において、少なくとも『ガロ系』へのファイデリティ(忠誠)を獲得したのだと確信している。つまり『ガロ系』が引きずる表現上の問題を、自分の問題として考え、表層的であれ『漫画雑誌 架空』として捉えていると思っている。」(西野空男「制作まで」―『月刊 架空』四月号)
 わたしは、西野のオマージュと志し、決断と決意に対して、無条件で共感を表明したい思いを有しながら、どこかで、留保したい感慨もまたあることに気付いてしまう。リアルタイムで『ガロ』に接していなかった西野のファイデリティ(忠誠)の心性が分からないではない。だが、ひとことで、『ガロ系』と断じてしまうことの危うさを思わざるをえないからだ。『ガロ』は、わたしが中学三年の時に創刊している。わたしが、『ガロ』を手に取るようになったのは、数年後、高校生の時だ。白土三平の「カムイ伝」が連載しているのを知ったからである。そして、その過程で、つげ義春、つげ忠男、林静一の作品と出会うことになる。やがて、つげ義春が作品を発表しなくなった時、わたしのなかで、『ガロ』は、遠い存在になっていったといえる。誤解を恐れずにいえば、『ガロ』は、一貫した編集方針があったわけではない。多くの編集者の出入りがあり、七十前後の時代情況や八十年代の消費社会の到来といったことにまったく影響を受けずに来たわけではないのだ。だから、わたしのなかでは、ひと括りに『ガロ系』と捉えることに、強い異和感がある。西野空男が、『ガロ系』というものを表現の根拠にしたいというのはいい。だが、本来、表現というものはどのような形容も必要ではない。西野空男の表現は、紛れもなく西野空男の表現でしかないのだから、『架空』は、現在の困難な漫画表現のなかで、鮮烈に屹立していけばいいし、屹立していけるはずだと、わたしはいいたい。
 既刊の十月号まで掲載された漫画作品の作家名を列記すれば以下のようになる。西野空男、斎藤種魚、甲野酉、うらたじゅん、おんちみどり、まどの一哉、キクチヒロノリ、手栗天狗郎、西間木隼人、野間真治、高木ひとし、山坂ヨサンセン、浅田拓、高橋学、三好吾一、屋我平勇、三本美治、香山哲、大西真人、鳥子悟、炭子部山貝十、小野原教子、藤田みゆき、斎藤潤一郎、川勝徳重、くるみみどり、砂糖ヒロタカ、ピーター・ラリー、花崎五郎、かなしきじゅんこ、黒川じょん、安倍慎一。他に、「月刊ガロ目次録」、ガロの編集者だった高野慎三へのインタヴュー「高野慎三を原ねる」、金ゐ国許「つげ義春をマップする」、拙稿「『情況』的場所へ」などの連載がある。九月号で月刊化六冊目となった。いよいよ折り返しだ。
※セミ書房=〒146-0085大田区久が原4丁目13-8青木コーポ101(Websiteは、http://www.geocities.jp/bbtu
geken/0wk00.html)

(『図書新聞』10.12.4号)

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2010年11月10日 (水)

書物の海へ                                 【狂気の母型――『ポル・ポト――ある悪夢の歴史』】

 記憶の中にある断片は、当然のように時間の経過によって、変質していったり、薄らいでいくものだ。自分自身の体験に根ざした記憶ではなく、なんらかのかたちで得た知識や情報ということであれば、なおさら記憶は曖昧な領域へと押し込められていくことになる。七十年代中頃に生起したカンボジアでのクメール・ルージュ(カンボジア共産党)による政権奪取によって、多くの都市生活者が過酷な農業従事者として地方へと強制移住させられるということが、行なわれた。その後、よく知られているように二百万近い人々が死亡させられる(“虐殺”といいかえてもいい)ということが判明し、スターリン主義や毛沢東主義の変種として、ポル・ポト(1925~98、本名はサロト・サル)によって主導された擬似革命は徹底的に断罪されたわけだが、では、なぜ、そのようなことに至ったのか、そもそも、ポル・ポトとは何者なのかといったことが、未明のまま、いつしか、それらのことは、わたしたちの記憶の奥底へと沈潜していったといえる。一年ほど前、わたしは、ロン・ノル政権下の技術官僚だった著者(ピン・ヤータイ)が、クメール・ルージュによって二年間の苦闘に満ちた生活を強いられた後、タイへ脱出するまでを記述した本(『息子よ、生き延びよ――カンボジア・悲劇の証人』。原書は、七九年フランスで刊行)を読む機会があった。強制移住させられただけでなく、家族と切り離されて、居住する場所を転々とさせられながら過酷な労働を強いられるという、壮絶な内容を持ったものだった。しかし、この本は、あくまでも、体験記であって、クメール・ルージュの組織的実態を解析しようとしたものではない。もちろん、断片的なことは窺い知れるとしてもだ。数ヶ月前、元BBCのジャーナリストだったという伝記作家フィリップ・ショートの『毛沢東』が、翻訳刊行されたのを知った。ユン・チアンの『マオ――誰も知らなかった毛沢東』と比較してどうだろうかと逡巡していたところ、同じ著者によるポル・ポトの評伝があったので、まず、先にそれを読んでみようと思っていた時に、偶然にも、新聞紙面の「元最高幹部4人を起訴―ポル・ポト派虐殺特別法廷」という見出しの記事が、目に入ってきた。

 「カンボジアの旧ポル・ポト政権(1975~79年)時代の大量虐殺を裁く特別法廷は16日、ポト派ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表議会議長(84)ら、同派の最高幹部だった4人を大量虐殺や戦争犯罪、人道に対する罪などで起訴したと発表した。(略)ポト派政権支配で、政権中枢にいた4人に初めて、法の裁きが下されることになった。」(「毎日新聞」・9月17日付朝刊)

 続けて記事では、「政権トップ抜きで」、しかも、「無罪を主張して協力を拒んでいる」とされる「4被告(引用者註=他に、イエン・サリ、キュー・サムファン、イエン・チリト)の役割や責任をどう認定するのか」、「検察側はより困難な立証を迫られる」だけでなく、「被告はいずれも高齢で、審理は時間との闘いとなる」としている。さらに、わたしもそう思うのだが、「多数の理不尽な死へのポト派政権誕生のきっかけをつくり、さらに同派を延命させた国際社会の責任は、問われることはないままだ」と記事は最後をそう結んでいる。例え、一国内のこととはいえ、一部の狂信的な政治家や思想家にだけ、その責務を負わせるのは、確かに間違いだ。カンボジアの地理的歴史的経緯やアメリカ、フランス、中国、ベトナム、タイといった国家群の覇権主義による政策的責任(特に、中国共産党、ベトナム共産党とは、トライアングル的な関係で、この二つの強国の共産党の思惑にクメール・ルージュが翻弄されたのは確かである)、そして、なんといっても鵺的政治でカンボジアを迷走させ続けてきた国王(国家元首)シアヌークの存在も、問題視しなければ、ポル・ポト派による大虐殺という大罪は、ほんとうの意味で裁くことはできないといえる。そのようなことを考えながら、フィリップ・ショートによる評伝を読んでみた。個人評伝というよりは、ポル・ポトを基軸としたフランス統治下からの独立以後、クメール・ルージュ崩壊までを詳細に描出したドキュメント・カンボジア史といった内容を持ったものだといっていい。1950年代前半、ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サムファンら後に、クメール・ルージュを領導していくことになる若者たちは、フランス留学時代にマルクス・レーニン主義の洗礼を受けて帰国した。著者は、「サルと仲間たちがのちにクメール・ルージュの悪夢のもととなる思想の基礎を築いたのはモスクワでも北京でもなく」(『本書』・七五頁)、パリだったと述べる。それでも、若きポル・ポトは、最初の「二年間、目立たずに控えてい」て、「自分の立ち位置を見いだして」おらず、「自分は何もせずに、自信たっぷりの活動的な仲間たちにただ流されていただけだ」(100~101頁)ったようだ。その後、マルクス主義理論ではなくスターリン主義と出会ったことが、大きな転機になったという。また、ロシアのアナキスト、クロポトキンの著書『フランス大革命』(「ルイ十六世に対抗した一七八九年の革命」について論じられたもの)が、若きポル・ポトに感銘を与えたというのは、皮肉なエピソードだともいえる。著者は、「封建的な王国」、つまりカンボジアで革命を起こすためのテクストとして捉えていたと見ている。理論的な破綻は、後々にまで継承されたとしても、誰もが、青春期というものは、大きな意味を持つことになる。ポル・ポトにとっても、フランス留学時代、最も、清冽な時期だったといえるだろう。そして、六十年代、ポル・ポトは、共産党のなかで主要な地位を獲得していく。その中心的な理念は、次のようなものであった。

 「サロト・サルは毛沢東と同じく、革命の真実は『人民から人民に』もたらされると考えていた。そして二人とも農民階級をロマン主義的に美化していた。(略)だが毛沢東の革命的ロマン主義は現実を認識することによって、少なくとも理論上は緩和された。(略)サロト・サルと仲間たちは、こんなことはまったく考えなかった。かれらにとって重要なのはビジョンでありひらめきだった。毛沢東が、高度に発達した哲学的議論の伝統をうけつぐ非常に論理的な文字社会の申し子であるのに対して、サルの文化遺産は、超越的な上座仏教と、分析ではなく啓示から真実を得るク・ルー(精霊使い)に導かれた非論理的な口承伝統だった。」(220~221頁)

 ポル・ポトの理念の基層には、「超越的な上座仏教」と「非論理的な口承伝統」があると指摘する著者の見方は、その後の急進的な農本的共同体主義革命に通底していくものがある。内閉した統治形態と、錯綜させた指導システムは、例えば、強制移住させられた人々に対して、しばしば「アンカ」(組織という意味のようだ)からの指示だといって、ある種の「超越的な」命令を兵士たちが下すことをピン・ヤータイの著書では明らかにしているように、啓示的なコントロールというものを巧みに導入していたといえる。しかし、そもそも資本主義分析に対するマルクスの哲学的理論をエンゲルスやレーニンが革命理念に変質させて、さらには権力論を不問にしてしまったことからくる、錯誤というものが今日のいわゆるマルクス主義の破綻があるとわたしは思っている。また、プロレタリア階級とか労働者階級という概念が措定されるためには、ある程度の工業化社会が成立した段階でなければ、有用性を持ちえないにもかかわらず、ロシアにしても、中国にしても、そしてもちろん、カンボジアも、農業主体の産業構造のなかで、急激な社会主義革命を実践しようとしたところに、理想とは程遠い専制政治を生み出すことになったといっていい。
 それにしても、フィリップ・ショートの『ポル・ポト』は、詳細で緻密であればあるほどに、やや不満な部分が残ってくる。政権周辺への取材や調査、分析は、かなり徹底的に行なわれているのだが、ピン・ヤータイ(彼の記述が、どこまで詳細に、かつ確かなものとして伝えられているのかは判断できないとしても)のような経験をした人たちからの、発言がほとんど採集されていないからだ。評伝というものは、双方向の記述があって初めて、その対象となるべき人物像が、浮かび上がってくるはずだ。例えば、「クメール・ルージュ政権によるのちの行き過ぎた行為のほとんどをさかのぼると、その原因の一部となっているのは、カンボジア人の本質的な欠陥を克服するには、非常に厳しい包括的な全体主義的専制しかないという発想だ」(333頁)というのは、あまりに、粗雑な論及に思える。これは、後に発生する政権内部の粛清に対しても述べていることなのだが、権力を掌握していくプロセスというものは、いかなる場合においても、「包括的な全体主義的専制」にならざるをえないのは、自明なことだし、恐怖権力行使の前では、誰もが主体性を抑制せざるえないものだ。「本質的な欠陥」に、収斂させていくのは、あまりにも皮相すぎる。

 「ポル・ポトたちがその(引用者註=75年)春に承認したのは、現代初の奴隷国家だった。(略)ポル・ポトは、難民らがのちに『壁のない牢獄』と読んだ社会的および政治的な構造にカンボジアの国民を幽閉し、国民を文字通り奴隷化した。人々は幹部に命じた作業をどんな内容でも報酬なしで遂行させられ、失敗した場合には配給の差し止めから死刑におよぶ罰を受けるおそれがあった。食糧と衣服は理屈の上では国家から支給された。しかし賃金は存在しなかった。(略)新体制の受け止められ方は地域や地区、村によって大きく異なったのも事実だ。一部の地区の幹部は寛大だったが、厳しい地区もあった。だがいずれにせよ、人民――奴隷――に口を挟む余地はなかった。『上層部』が決めたことであれば、どんな寛大さや厳しさにも耐えるしかなかったのだ。」(444~445頁)
 「ポル・ポトが気にかけたのは人々の苦しみではなく、食糧の欠乏がかれらの労働力を落としかねないという事実だった。」(469頁)
 「ポル・ポトの革命の特異性は、クメールの根元にあった。/『物質的・精神的私有財産』の破壊は、革命の衣をまとった仏教的な超越だった。人格破壊とは非現実の達成だった。『唯一の真の自由』について、研究書類には次のように書かれている。『それはアンカの指示――その記す内容やおこないに従うことにある』。ブッタと同じく、アンカはつねに正しかった。その叡智を疑うことはつねに誤りだったのだ。」(484頁)

 私有財産の否定、貨幣の廃止、家族性すらも解体させていくという“革命”戦略は、あまりに拙速過ぎたといえる。しかも、強制移住というまさしく奴隷のような扱いをする強引さも含めて、あまりに稚拙で粗雑な理念の実行だ。いずれ破綻するのは目に見えていたといえる。著者が、「革命の衣をまとった仏教的な超越」と指摘するように、パラドックスとしていえば、シアヌークという存在が、鵺のように在り続けてこられたのは、共同的敬意の対象としての超越的な王だったからに他ならない。クメール・ルージュだけでなく、フランスも、独立後の諸政権も、絶えずシアヌークを象徴権威として利用し、自分たちの権力行使の補完力としてきたといえる。時に、シアヌークが、象徴ではなく実体的権威を求めすぎて時々の政権と確執を生み、それが、政治の不安定さを生起させ、必然的に、カンボジア民衆に圧制を強いていくことになっていっても、そのことは続いていった。

 「もっとも不気味だったのはポル・ポトの沈黙だ。かれが、『静かに座ったまま返事をしない』場合、それは政治的失墜の前兆だった。ポル・ポトが信頼する人間に対しては、許容範囲が珍しく広げられた。だがいったんポル・ポトの心に疑惑の種が根づいてしまうと、それを止める手だてはなかった。」(514頁)
 「クメール・ルージュの政策は、最後までまったく変わらなかった。シアヌークの安全の確保や、ポル・ポトをはじめとする指導者らの保護の優先は、数ヶ月前にヌオン・チェア(引用者註=「毎日」の表記ではチア)が説明した方針の実践に過ぎなかった――『メンバーを失っても指導部を維持すれば、引き続き勝利をおさめることができる』。(略)それでも1979年の1月に民主カンプチアを崩壊させた最大の理由を一つだけ挙げるとすれば、それは指導部が秘密主義にこだわったことだ。」(602~603頁)

 クメール・ルージュが、政権を掌握する過程で、指導部として前面に出ていたのは、イエン・サリやキュー・サムファンであった。ポル・ポトやヌオン・チェアは、後方にいてその存在すら明らかにしていなかった。秘密主義というならば、ポル・ポトの存在自体が、そうだったということになる。権力集中(個人であれ、一部の集団であれ)主義というのは、自分たち以外の存在は、すべて敵ということにならざるをえない。つまり、政治における権力の源泉は、《やつは敵だ。やつを殺せ。》という埴谷雄高の言説に尽きる。
 カンボジア民衆に家族の靭帯性の忌避を強いておきながら、自らは、85年に六十歳にして三七歳年下のメアスと再婚する。そして翌年、娘・シットが誕生している。指導部はプノンペンから敗走し、山岳部の拠点を移すも、政権再奪取の道筋が見えないまま、ポル・ポトは、97年7月、フン・セン新政権の意向に沿った大衆集会に連行され、終身刑を宣告される。心不全で死に至ったのは98年4月15日だった。「遺体はごみと車のタイヤの上で火葬に付された」という。「イエン・サリのようにポル・ポトと決別した人間でさえ、その最後のみすぼらしさに衝撃を受けた。だがこれはポル・ポトの統治の犠牲になった百五十万のカンボジア人にもたらされた死と比較すれば、はるかに穏やかな死に方だった」(668頁)と、著者は述べて、この評伝を閉じている。

※フィリップ・ショート著、山形浩生・訳『ポル・ポト――ある悪夢の歴史』(白水社刊・08年2月10日、四六判・896頁、原書・04年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

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書物の海へ                                 【はじまりのフーコー――『カントの人間学』】

 フーコー(1926~84)は、初期の代表作として知られる『狂気の歴史』(61年刊)を最初の著作としているのだが、これは、ソルボンヌ大学の文学博士号取得のための主論文(論文名は『狂気と非理性』)であった。この時(61年)、主論文の他に、副論文の提出も義務付けられていたのだ。フーコーが提出した副論文は、カント(1724~1804)の『実用的見地における人間学』(1978年刊)の「翻訳、序論、及び注記」であった(フーコーは64年に、『人間学』の仏訳を出版しているが、「序論」は著作として出版していなかった)。本書は、その中の「序論」にあたる、原題「カント『人間学』への序論」の翻訳である。例えば、晩年の代表作『性の歴史Ⅰ 知への意志』(76年刊)では、ニーチェからの影響を強く受けていることが窺い知れるのだが、フーコーにとって、意外なテクストと思われるカントに対しては、やはり、ニーチェに導かれるようにして関心を向けてきたようだ。訳者の王寺賢太は、フーコーは、『狂気の歴史』以後、「怒涛の勢いで、私たちには周知の数多くの著作を発表していった。起伏の激しいその行程が、『知』から『権力』へ、そして『自己』へ、という断続的な問題設定の変更を伴うものであったことも、比較的よく知られているだろう。(略)『カントの人間学』を読む者には、それらフーコーの試みのすべてが、この小さな書物にあらかじめ孕まれていたように映るかもしれない。(略)だとすれば本書は、カントの『人間学』への、あるいはカント哲学一般への特異な序論であるばかりか、フーコーがその後とりくむ膨大な仕事への序論であり、プログラムなのである」(「訳者解説」)と記している。
 確かに、カントの『実用的見地における人間学』への微細な解読を基軸としながらも、フーコーが表出する言葉、思惟、理念といったものは、後年の仕事の源泉が潜在していると見做せる場所が、多位相に渉ってあるといっていいかもしれない。

 「哲学は普遍性の境位にあり、それに対して医学の次元はつねに特殊性として位置づけられる。哲学は医学にとって不可欠で、指示を与えることのできない地平をなしていて、健康と病の諸関係の全体はそのなかに包摂されるのである。たしかにこの優先権は、人間の直接的な願望の序列を問うときには隠されてしまう。(略)無条件な願望も生の次元においては二次的である。健康な状態で起こる自然死など存在しない。それを感じずにいたとしても、病はそこにある。病とはなしにすますことのできない『死の種子』なのだ。」(『カントの人間学』・51~52頁)

 哲学と医学を連結させて論及するここでは、『臨床医学の誕生』(63年刊)を想起しうるような言説を展開していると捉えることができる。「死の種子」とは、『人間学』とは別の場所で提示した、カント晩年の概念であるが、フーコー的概念に転換されたかのようなイメージを、わたしたちは抱くことになる。死というものの不可避性を、どう乗り越えることができるのかという命題は、しかし、老いや病(必ずしも密接な関係ではないとしても)という現象とそれにともなう時間性を逸脱してまで解析しうることではない。フーコーは続けていう。「老いとはその(引用者註=統御しえないことの)しるしであり」、「身動きもままならなくなることを示している」(55頁)と。不可避性は、不可避性としてそのままのかたちで受容することによってしか、死と向き合うことはできないのかもしれない。

 「人間学とは、意味がはっきりしていたりいなかったりするこの出来合いの言語の解明である。その出来合いの言語によって、人間は事物の上に、また人間同士のあいだに、交換と相互性と物言わぬ理解からなる網を広げる。この網を通してかたちをとるのは、精神の共同体(シテ)でも自然全体の所有でもなく、世界のなかにある人間のあの普遍的な住処なのである。」(123~124頁)
 「人間学の観点からすると、モデルとなる集団は家族でもなく国家でもなく、『食卓を囲む集いTischgesellschaft』なのである。実際、この『食卓を囲む集い』は、それ独自の規則を守っている時には、普遍性の個別的イメージのようなものではないだろうか。誰も自分が特権的だとか孤独だとか感じることはなく、話をする者もしない者もみな語られる言葉の主権に共通にあずかるのである。(略)言語の地平では、諸個人が力や権威の介入も、断念や譲渡もなしに複数の自由を分節化し、ひとつの全体を形成する可能性が成立する。『一緒に食事をする者 convivium』の共同体では、話すことによって彼らの自由が互いに出会い、おのずから普遍的なものとなる。各人は自由でありながら、全体性の形式のなかにある。」(129~130頁)

 カント晩年の哲学的理念をこのようにフーコー流に解読されていくと、まさしく、「はじまりのフーコー」が、スリリングに現れてくるかのようだ。そして、『人間学』に啓発されて、フーコーの関係性(共同性)をめぐる認識展開が、このようになされていることに、注視せざるをえない。「人間は事物の上に、また人間同士のあいだに、交換と相互性と物言わぬ理解からなる網を広げる」という位相から、「言語の地平では、諸個人が力や権威の介入も、断念や譲渡もなしに複数の自由を分節化し、ひとつの全体を形成する」という位相へと繋がる思考のプロセスは、言葉の持つ可能性を関係性(共同性)のなかに見ていることが、鮮烈な印象を与える。後年、もう少し錯綜化させ、深化させた幾つかの層へと分散する方法へと展開されていくことを思えば、ここでは、意外なほどに明快に論じていることが、そのような感受とならざるをえないのだ。特に、「家族でもなく国家でもな」い「『一緒に食事をする者 convivium』の共同体」という概念は、これまでのフーコーからは、遠い表象である。だからこそ、ある種、プリミティブなイメージともいえる、ここでの関係性(共同性)の展開は、フーコーにあっては、その後、再構築して思考されねばならないエレメントのひとつになっていったのは、当然のことだったといっていい。

 「ニーチェの企ては、人間についての問いかけの増殖について終止符を打ったものとして理解しうるだろう。(略)『人間とは何か』という問いが哲学の領野のなかで辿った軌跡は、その問いを退け、無力にする、ひとつの答えにおいて完結する。すなわち、超人。」(161頁)

 こうして、結語は、ニーチェに誘われながら、「超人」へと至っていき、フーコーの仕事は、この後、過激に、大著『言葉と物』(六六年刊)へと加速化していったのだ。

※ミシェル・フーコー著、王寺賢太・訳『カントの人間学』(新潮社刊・10年3月25日、四六判・232頁、原書・08年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

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書物の海へ                                 【〈ロシア的〉な愛という沈黙――『物語』】

 パステルナーク(1890~1960)の散文小説『物語』を前にして、様々なことどもが想起されてくる。これもまた、記憶の断片をひとつずつ採り出しながら、述べていくことになる。三十六年前(そんなにも、時間は経過したのかと思う)、本書の翻訳者・工藤正廣から送られてきた私家版『ドクトル・ジヴァゴ(第一部・一章)』の冒頭の数行に接して、わたしは鮮烈な印象を受けたことを未だ忘れずにいる。それはこんな言葉たちで綴られていく。

 「すすみ行きすすみ行き、そして〈永遠の記憶〉を歌い、そして立ち止まると、その野辺送りの歌を足たちが馬たちが、さっと吹く風たちが、惰性のままに歌い続けているようだった。通行人は行列に道をあけ、花輪をかぞえ、十字を切った。」

 この私家版が出された時、一人の翻訳家によって、既に『ジバゴ』は刊行されていた。この後、別の翻訳者によって新訳版が出た。しかし、冒頭の部分を比較しただけでも、工藤版がいかにパステルナークの詩的物語世界を見事に表現しきっているのか、わかるというものだ。わたしは、何度、「すすみ行きすすみ行き、そして〈永遠の記憶〉を歌い」という詩句を諳んじたことか、さらには、ロシア的大地を思い、ナロードについて思念を巡らしたことか、といま思い出されてくる。
 私家版『ジヴァゴ』をわたしたちに示した時点で、既に工藤は、『わが妹人生 1917年夏』(72年・鹿砦社刊)を翻訳刊行していた。以来、四〇年近くに渡って、パステルナークのほとんどの作品(詩・小説)を翻訳してきたのだ。その膂力に、ただただ脱帽するしかない。そして、いま、『ジバゴ』に先行すること三十年近く前、1929年に書かれた『物語』が、初めて訳出された。本書には訳者自身による詳細な解説が付されているから、いまさら、わたしのようなものが、貧弱な想像力で言葉を重ねることは、避けるべきかもしれない。とはいえ、この中篇作品が持っている濃密な世界の一端でも伝えることができればと思い、叙述していくつもりだ。作品の時制は、ふたつ。1916年(ロシア革命の前年)と1914年(第一次World War開戦の年)だ。16年の初め、主人公のセリョージャが、ウラルのソリカームスクにいる姉のナターシャの元へ訪れたところから、“物語”は、始まる。やがて、セリョージャは夕食前に仮眠する。夢うつつに過去の記憶が蘇るかのように、章を改め14年の時制が描かれていく。モスクワの大学の最終試験に合格したセリョージャは、「息抜き」と「自分をちがった状態に置くことに」(『物語』・27P)するために、フレステレン家で家庭教師をすることになった。そこで、侍女をしている牧師だった夫を一年前に亡くしたばかりのデンマーク人女性・アリルドに出会うことになる。年長とはいえ知的なアリルドに、セリョージャは直ぐに好意を寄せていく。やがて、夏の暑さを避けるためソコーリニキ公園に、二人は出かける。

 「そのうちに日が暮れた。アリルドはさかんに英語で喋りまくり、その英語に答えるセリョージャだったが、それもぜんぶうまい具合にいった。(略)二人は他の散策者たちとは瞭っきり違っていた。木立の中に群れていたすべてのカップルの中で、このカップルは夜の到来になによりも不安そうに対応し、あたかも夜が踵を接して追いかけて来たとでもいうように、その夜から逃れようと突き進んでいた。彼らが振り返ったときは、まるで夜の追跡の速度に合わせようとしているかのようだった。行く手に、二人が踏み込んだすべての小道の上に、何やらもっとも年古りたものの存在が松林全体になって伸びていた。これが二人を子供に変えた。二人はときには互いに手と手をとりあい、またときには困惑して手を離した。時々、自分自身の声を確かめて彼らは立ち止まった。」(46~47頁)

 このシークエンスは、「二人はときには互いに手と手をとりあい、またときには困惑して手を離した」といった、瑞々しさと清冽さが溢れる男女のイノセントな通交を描写しているといってもいいのだが、むしろ二人に潜在する心的な揺らぎを見事に風景化して描出しているといった方がいいかもしれない。牧師の妻だったアリルドは、同じようにセリョージャに対して好感を持っていたとしても、「愛」というかたちへは抑制せざるをえないのだ。一方、セリョージャは、アリルドに対して、どのように「愛」へと自分の思いを連結すればいいのか分からないでいる。ソコーリニキ公園の「夜」は、二人の「愛」をめぐる心的象徴として描かれているのだ。だが、セリョージャは、このソコーリニキ公園の「夜」の出来事を思いに秘めながらも、トヴェルスカヤの御者街(いわゆる娼婦街)に通い詰めてしまう。そして、アリルドや娼婦をしている女性たちを救わなければならないと、確信していく。変革の意志は、「愛」によってなされるべきだという、イノセントな情念とでもいっていいものが、ボルシェヴィキ革命以前には、ありえたのだというように、セリョージャの思いが描かれているとわたしは捉えてみたい。そして、ついに、セリョージャはアリルドに直接的な「愛」を告白する。しかし、アリルドは、冷静に対応する。彼女は、フレステレン家を辞めて、別の家庭に職を見つけたために、出発しなければならなったのだ。一時的に友人の所に身を寄せたアリルドを必死になって、セリョージャは探し当てる。

 「彼(引用者註=セリョージャ)は、アンナ(引用者註=アリルド)が都市の朝であることが、どんなに辛く困難かを見ていた。つまり、自然がもつ超自然的な尊厳は彼女にどんなに高くつくかということだった。自然は沈黙のまま彼のいる前で美しく見え、彼に助けを呼び求めていなかった。」(101頁)

 自然の沈黙は美しい、いや、沈黙ということが自然の美しさを引き寄せるといっていいかもしれない。セリョージャのアリルドに対する愛は、まさしく〈ロシア的〉、つまりは〈ナロード的〉だといえる。例え、二人の〈愛〉が結実しなかったとしてもだ。

※ボリース・パステルナーク著、工藤正廣・訳『物語』(未知谷刊・10年8月20日、四六判・192頁、原書・01年刊)

(『風の森 第14号』10.11.10)

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2010年11月 6日 (土)

髙德 忍 著                                  『対立と対話――「いじめ」の問題から「対話」の教育へ』                (つげ書房新社刊・10.4.30)

 「いじめ」問題は、依然、現在においても、難題性を持ったものとして在り続けている。たんに、家族関係と教育現場だけの問題に収斂させるには、あまりにも、深層部分が拡張されてきてしまったからだ。しかし、発端は、学校であることには変わりはないが、その教育現場も、「校内暴力」といわれた時代から、内閉化、陰湿化していく「いじめ」が横行する時代のなかで、右往左往しながら浮遊し続け、変容してきたといえる。その変容の様を、長年、高等学校の教育現場に身を置いてきた著者は、「市場原理が導入され」たことによる後退として捉えている。
 「教育改革により学校教育は、完全なサービス業となり、学校の中に消費者中心の市場原理が導入されることで、生徒、保護者は、サービスを受ける側の『顧客』となった。学校での生徒の問題行動は、サービスを提供する側の教師だけの問題になって、生徒にとって不利益だと思われる、校則違反に伴う特別指導では、親の協力は得られなくなった。それどころか親は、塾や予備校と比較して、学校のサービスの質の悪さを批判するクレーマーと化した。その結果、小学校では『学級崩壊』、中学校では『校内暴力』、高校では『私語』や『授業崩壊』が問題になり、精神疾患での教師の休職が増加した。」
 これは、結局、「ゆとり教育」の導入の失態も含めて、「学級崩壊」や「校内暴力」といったことへの対策が、表層的なところでしかなされていないことの証左だと思う。つまり暴力行為と犯罪行為、あるいは、いじめと例えば恐喝といった犯罪行為との境界を、精査することなく、なるべく、極小な現象に押し込めようとした結果だと見做していいのではないか。
 本書の表題は「対立と対話」であるが、そもそものこの対称的な言葉(わたしは、対立と対話はけっして対立する関係の言葉ではなく、対称性を持ったものだと考えている)が発生するのは、関係性が表象される場ということになる。関係性のなかにあって、わたしたちが、なんの齟齬もなくスムーズに通交しうるかといえば、大人社会であっても、それは至難なこととなる。インターネット(パソコンや携帯)の急激な普及によって、子供同士の関係といえども、大きく変容してきているのは確かだ。まずは、携帯を持つことが関係性を取り結ぶことの前提であるとすれば、携帯を持つことを是としないわたしなどは、いち早く排除される側になってしまう。
 「学校の中でも、(略)『平等』が、『集団性』『同質性』として形式的に解釈され、それが中心的価値基準となり、『みんな仲良く』『みんなと同じように……』と、思いやりや協調性を重視した教育活動が行われていくと、そのことがかえって生徒一人ひとりに異質性(差異性)へのこだわりを持たせることになる。/私はそのことを、現在の学校教育の抱える問題として『平等のパラドックス』(略)と呼んでいる。『みんなと同じでないから……』『みんなと同じことができないから……』といった差別感や優越意識は、排他的で制裁的な感情を生じさせる。」
 「校内暴力」や「いじめ」の淵源を、ひとことでは、いい表わすことはできないとしても、著者のいう「平等のパラドックス」は、核心的な視線だと思う。関係性や共同性というものは、同等性や均一性を意味するわけではない。一人ひとりが違う、差異があるという個体性を汲みいれて、はじめて成立つのが、関係性や共同性というものである。差別意識や優越意識が排除する感性を醸成させていくのだとしたら、それは、そもそも関係性というものが転倒していることになる。そしていま、ますます、関係性は転倒したかたちで拡張しているといえる。
 学校などの直接的な場での「いじめ」から、パソコンや携帯上の、つまりIT上での「いじめ」が、現在では頻繁に起きていて、子供たちが自殺する契機にもなっている。ブログへの陰湿で中傷的な書き込み、いわゆる掲示板などでのいやがらせといったことは、拡大化する一方だといっていい。著者がいう「平等のパラドックス」は、いまやIT世界で現出しているといってもいいのだ。
 「『場の空気』を読むために『ノリ』『ぼかし表現』『フリ』などのやさしい関係が、集団への同調圧力として働いているために、その閉塞感が、現実の格差社会の中で『自分だけが何か損をしている』『仲間はずれされている』『悪口を言われている』『自分だけが負け組みである』などの、さまざまな被害妄想を生じさせる。(略)またそれが単なる妄想でなくても、思い込みから、妬み、嫉み、ひがみなどの感情を生じさせ、『ネットいじめ』に発展する。」
 「対立はするが対話が成立しない」関係性が、「いじめ」を増長させるとしても、だからといって「対立をさけ対話が成立しない」関係性というものも、「いじめ」やさまざまな問題を現出させうると著者はいう。「対立と対話」は、わたしならある種の往復運動のようなものであると考える。関係性を繋ぐ機縁として、「対立」から、「対話」への通交は、現在の子供たちをめぐるアポリアを切開する糸口になるはずだと、本書を読み終えて感じたことだ。

(『図書新聞』10.11.13号)


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2010年11月 5日 (金)

「情況」的場所へ(8)―排除の暴力―

 東京・渋谷駅近くのJR山手線沿いに渋谷区立宮下公園がある。七十年前後、ここは、新左翼諸派の集会によく使われていた。以後、近年まで様々な運動系の集会が開かれている。わたしのような、都心の公園を散策するといった機会を持たないものにとって、宮下公園とはそんなイメージとしてあるのだが、もちろん、公園である以上、憩いの場所であることには変わりはなく、例え、野宿者(ホームレス)が棲みつくようになったからといって、いわゆる公共の場所であることは、確かなのだ。ところが、公園の老朽化ということで、渋谷区によって改修計画が起きたのはいいのだが、財源のないことを理由に、グローバル企業のNIKEに、「命名権の売却」という転倒した施策を決定して、「宮下NIKEパーク」という有料施設のある公園を開設することになった。このことは、どう考えても公共の空間を、「命名権」というレトリックを使って一私企業に「売却」したに過ぎないことを意味する。いまここで、詳細に述べることはしないが、区並びに区議会が不透明なプロセスで、そのことを決定したことが、最も重大な問題だといわねばならない。もちろん、そのプロセスの基層には、野宿者を公園から排除したいという判断があることは間違いないのだ。しかも、これまでそのプロセスをまったくといっていいほど、マス・メディアで報道されることがなかった宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、渋谷区による行政代執行を強行した日の9月24日当日、テレビ、新聞でいっせいにアリバイ的な報道をし出した。もちろん、ほとんどの論調は、反対派の根拠が分からないといった皮相な前提で、しかも、これで野宿者(ホームレス)が棲みついていたため行きづらかった公園に、家族連れで行けることが可能になったなどと、排除の論理を露呈したものであった。そして、もっとも許されざることは、当日の新聞記事に載っていた渋谷区長の談話である。以下、記事とともに引いてみる。
 「大手スポーツ用品メーカー『ナイキジャパン』による(略)整備計画に反対運動が起きて着工が遅れている問題で、渋谷区は二十四日、反対する団体が公園を違法に占拠しているとして、団体が設置したテントなどを強制撤去する行政代執行を実施した。(略)区は昨年八月、ナイキジャパンに、通称『宮下NIKE(ナイキ)パーク』とする命名権を十年間にわたって年間千七百万円で売却。同社が数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園に改修整備する契約を同社と結んだ。(略)これに対し、同会(引用者註=『みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会』)が『公共空間の企業化』『野宿生活者の排除』などと訴え、公園内にテントを張って監視を始めたため着工を見合わせてきた。(略)区によると、公園内には行政代執行の対象からは除外している同会以外の路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第、着工する見込み。/桑原区長は行政代執行について『けじめをつけるのが私の仕事。区関係者以外の人が集まってきて、「われらの公園だ」というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない』と説明している。」(「東京新聞」9月24日付夕刊)
 「区関係者以外の人が集まってきて、『われらの公園だ』というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない」と述べる渋谷区長は、明らかな矛盾に陥っている。ここでは区立公園だから、区民以外、公園を使ってはいけないということを明言しているのも同然なのだ。さらにいえば、反対派の人たちの中にあたかも区民が参加していないごとく断定して喧伝するのもおかしい。また、記事中にある、「路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第」ということは、どういうことを意味するのだろうか。明らかに強制退去以外、ありえないではないか。また、「数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園」とはどんなものなのかは、すぐにでも、想像できることだ。それは、緑生い茂る公園とは、かけ離れたものになるのは、明白だ。公園自体は、無料で入れるなどとテレビのコメンテーターは、当日の放送で、詭弁を弄して発言していたが、施設自体、有料ならば、「区民」に開放されて「使える公園」とは、程遠いものだというしかないだろう。周知のように、NIKEは、スポーツシューズを中心にした売上で、急成長したグローバル企業だ。急成長した事由には帝国化した簒奪方法があったといっていい。商品デザインに関しては自社でするが、生産に関しては自社工場を持たず外部工場に委託するという方法をとっている。特に、東南アジアなどの海外工場に関しては、まるで植民地支配(だからこそ、わたしは帝国化と称したいのだ)のごとく劣悪な労働環境を強いているのだ。帝国化した企業(グローバル企業)であるNIKEが目論む宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、公園の公共性を考えているわけではなく、企業利潤を追求しているに過ぎないことは、誰の眼にも明らかなはずだ。これは、野宿者排除という渋谷区の目論見と、NIKEの目論見が合致したことを意味する。渋谷区長があからさまに「区民が使える公園」といった時、そこに棲む野宿者排除を意識下に置いたものだといっていい。しかし、それは、同時に、公園というものに付帯する、開かれた共同性(公共性をもっと拡張していえば、そうなる)ということを地域行政責任者自らが否定したことにもなるのだ。いったい、排除という論理、論拠はどこからやってくるものなのだろうかと、この渋谷区長の発言から考えてみるならば、明快に権力意識の発露だといっていいと思う。それは、かつての成田新空港建設をめぐっての三里塚闘争を想起してみるならば、行政代執行という排除の暴力は、まさしく、権力による暴力というしかないことが自明のことのように浮き上がってくるはずだ。
 「暴力における私の定義は、権力と権力を守る合法主義、それが暴力の根源である、ということに帰着する。」
「暴力とは、法に守られた権力者が民衆に向かって敢えて加える圧迫の手段そのことである。」(秋山清「『暴力』考」―『反逆の信條』所収、北冬書房刊・73年)
 これは、行政代執行という排除の暴力を的確に捉えるための視線だといっていい。もとより、秋山清のこの論旨は、国家や権力に潜在する暴力の位相を切開するためのものであり、国家や権力に対する民衆の抵抗が、仮に暴力的表象を発生させたとしても、それを暴力とは呼ばないという、極めて先鋭的な視角をもったものなのだ。そこで、わたしは、排除の暴力と抵抗の暴力というものをめぐって想いを巡らしたくなった。そのためのテクストは、白土三平の代表作『カムイ外伝(第一部)』である。集中「下人」という作品がある。追手との死闘によって、目が見えなくなった抜け忍・カムイは、とある村落の住人に行き倒れのなか、助けられる。子供たちは、新しい家族が出来たと喜んだのも束の間、親たちにとっては、労働力の担い手としてしか扱うつもりはないのだ。だが、村落の他の住人たちは、カムイが貴重な労働力であることを知って、各家を順番に下人として働かせることにする。過酷な環境に置かれたカムイだが、追手から逃れながら生き続けていくことよりも、下人として定住することの方がまだ、納得しうることだと考える。だが、やがてそうした転倒の安住は瓦解することになる。弱者としての下人だったカムイが強者であることが分かると村人たちは、村落の救済者であるにもかかわらず、恐れおののいてしまうのだ。わたしなら、村落民から下人のように扱われるカムイを、現在の野宿者像に敷衍させたくなってくる。ここでは、排除の暴力と抵抗の暴力をめぐってアンビバレンスな世界を露出させている。排除という行為にあるものは、間違いなく暴力ではあるが、抵抗の中にあるのは、存在の哀しみという感情的暴力なのだということを、『カムイ外伝』の中の一篇「下人」は指し示していることになるのだ。

(『月刊架空』10年10月号)

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