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2010年11月 5日 (金)

「情況」的場所へ(8)―排除の暴力―

 東京・渋谷駅近くのJR山手線沿いに渋谷区立宮下公園がある。七十年前後、ここは、新左翼諸派の集会によく使われていた。以後、近年まで様々な運動系の集会が開かれている。わたしのような、都心の公園を散策するといった機会を持たないものにとって、宮下公園とはそんなイメージとしてあるのだが、もちろん、公園である以上、憩いの場所であることには変わりはなく、例え、野宿者(ホームレス)が棲みつくようになったからといって、いわゆる公共の場所であることは、確かなのだ。ところが、公園の老朽化ということで、渋谷区によって改修計画が起きたのはいいのだが、財源のないことを理由に、グローバル企業のNIKEに、「命名権の売却」という転倒した施策を決定して、「宮下NIKEパーク」という有料施設のある公園を開設することになった。このことは、どう考えても公共の空間を、「命名権」というレトリックを使って一私企業に「売却」したに過ぎないことを意味する。いまここで、詳細に述べることはしないが、区並びに区議会が不透明なプロセスで、そのことを決定したことが、最も重大な問題だといわねばならない。もちろん、そのプロセスの基層には、野宿者を公園から排除したいという判断があることは間違いないのだ。しかも、これまでそのプロセスをまったくといっていいほど、マス・メディアで報道されることがなかった宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、渋谷区による行政代執行を強行した日の9月24日当日、テレビ、新聞でいっせいにアリバイ的な報道をし出した。もちろん、ほとんどの論調は、反対派の根拠が分からないといった皮相な前提で、しかも、これで野宿者(ホームレス)が棲みついていたため行きづらかった公園に、家族連れで行けることが可能になったなどと、排除の論理を露呈したものであった。そして、もっとも許されざることは、当日の新聞記事に載っていた渋谷区長の談話である。以下、記事とともに引いてみる。
 「大手スポーツ用品メーカー『ナイキジャパン』による(略)整備計画に反対運動が起きて着工が遅れている問題で、渋谷区は二十四日、反対する団体が公園を違法に占拠しているとして、団体が設置したテントなどを強制撤去する行政代執行を実施した。(略)区は昨年八月、ナイキジャパンに、通称『宮下NIKE(ナイキ)パーク』とする命名権を十年間にわたって年間千七百万円で売却。同社が数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園に改修整備する契約を同社と結んだ。(略)これに対し、同会(引用者註=『みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会』)が『公共空間の企業化』『野宿生活者の排除』などと訴え、公園内にテントを張って監視を始めたため着工を見合わせてきた。(略)区によると、公園内には行政代執行の対象からは除外している同会以外の路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第、着工する見込み。/桑原区長は行政代執行について『けじめをつけるのが私の仕事。区関係者以外の人が集まってきて、「われらの公園だ」というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない』と説明している。」(「東京新聞」9月24日付夕刊)
 「区関係者以外の人が集まってきて、『われらの公園だ』というのは筋違い。区民が使える公園にしなくてはならない」と述べる渋谷区長は、明らかな矛盾に陥っている。ここでは区立公園だから、区民以外、公園を使ってはいけないということを明言しているのも同然なのだ。さらにいえば、反対派の人たちの中にあたかも区民が参加していないごとく断定して喧伝するのもおかしい。また、記事中にある、「路上生活者が四人いるため、全員の退去が決まり次第」ということは、どういうことを意味するのだろうか。明らかに強制退去以外、ありえないではないか。また、「数億円かけてスケートボード場などを備えたスポーツ向け公園」とはどんなものなのかは、すぐにでも、想像できることだ。それは、緑生い茂る公園とは、かけ離れたものになるのは、明白だ。公園自体は、無料で入れるなどとテレビのコメンテーターは、当日の放送で、詭弁を弄して発言していたが、施設自体、有料ならば、「区民」に開放されて「使える公園」とは、程遠いものだというしかないだろう。周知のように、NIKEは、スポーツシューズを中心にした売上で、急成長したグローバル企業だ。急成長した事由には帝国化した簒奪方法があったといっていい。商品デザインに関しては自社でするが、生産に関しては自社工場を持たず外部工場に委託するという方法をとっている。特に、東南アジアなどの海外工場に関しては、まるで植民地支配(だからこそ、わたしは帝国化と称したいのだ)のごとく劣悪な労働環境を強いているのだ。帝国化した企業(グローバル企業)であるNIKEが目論む宮下公園の〈NIKEパーク化計画〉は、公園の公共性を考えているわけではなく、企業利潤を追求しているに過ぎないことは、誰の眼にも明らかなはずだ。これは、野宿者排除という渋谷区の目論見と、NIKEの目論見が合致したことを意味する。渋谷区長があからさまに「区民が使える公園」といった時、そこに棲む野宿者排除を意識下に置いたものだといっていい。しかし、それは、同時に、公園というものに付帯する、開かれた共同性(公共性をもっと拡張していえば、そうなる)ということを地域行政責任者自らが否定したことにもなるのだ。いったい、排除という論理、論拠はどこからやってくるものなのだろうかと、この渋谷区長の発言から考えてみるならば、明快に権力意識の発露だといっていいと思う。それは、かつての成田新空港建設をめぐっての三里塚闘争を想起してみるならば、行政代執行という排除の暴力は、まさしく、権力による暴力というしかないことが自明のことのように浮き上がってくるはずだ。
 「暴力における私の定義は、権力と権力を守る合法主義、それが暴力の根源である、ということに帰着する。」
「暴力とは、法に守られた権力者が民衆に向かって敢えて加える圧迫の手段そのことである。」(秋山清「『暴力』考」―『反逆の信條』所収、北冬書房刊・73年)
 これは、行政代執行という排除の暴力を的確に捉えるための視線だといっていい。もとより、秋山清のこの論旨は、国家や権力に潜在する暴力の位相を切開するためのものであり、国家や権力に対する民衆の抵抗が、仮に暴力的表象を発生させたとしても、それを暴力とは呼ばないという、極めて先鋭的な視角をもったものなのだ。そこで、わたしは、排除の暴力と抵抗の暴力というものをめぐって想いを巡らしたくなった。そのためのテクストは、白土三平の代表作『カムイ外伝(第一部)』である。集中「下人」という作品がある。追手との死闘によって、目が見えなくなった抜け忍・カムイは、とある村落の住人に行き倒れのなか、助けられる。子供たちは、新しい家族が出来たと喜んだのも束の間、親たちにとっては、労働力の担い手としてしか扱うつもりはないのだ。だが、村落の他の住人たちは、カムイが貴重な労働力であることを知って、各家を順番に下人として働かせることにする。過酷な環境に置かれたカムイだが、追手から逃れながら生き続けていくことよりも、下人として定住することの方がまだ、納得しうることだと考える。だが、やがてそうした転倒の安住は瓦解することになる。弱者としての下人だったカムイが強者であることが分かると村人たちは、村落の救済者であるにもかかわらず、恐れおののいてしまうのだ。わたしなら、村落民から下人のように扱われるカムイを、現在の野宿者像に敷衍させたくなってくる。ここでは、排除の暴力と抵抗の暴力をめぐってアンビバレンスな世界を露出させている。排除という行為にあるものは、間違いなく暴力ではあるが、抵抗の中にあるのは、存在の哀しみという感情的暴力なのだということを、『カムイ外伝』の中の一篇「下人」は指し示していることになるのだ。

(『月刊架空』10年10月号)

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